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なにもない六日の日  作者: 水無月旬
三十一日の日
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出会い


三十一日の日


 私は幻を見ているような気分だった。

 私の目の前で、あれ程会いたがっていた人が微笑んで私を見ていた。

 夢なのだろうか、それともやっぱり幻を見ているだけなのか。どちらにしても、私が虚構の世界を見ている事には変わりがなかった。

 あなたは昔、私にこう言った。それは昔々、昔話のようだけれど、本当に昔の話なのだから仕方がないと思う。


『強くなりなさい』

 あの時、あなたは言った。

 けれど今日のあなたは違った。やはり虚構の世界なのだろうか。

『私の所へ来てもいいよ』と、こう言った。

 私は少なからず喜んだ。ずっと会いたかった人の元へ行けるんだ、これほどの幸せはなかった。

 それでも私は頭を横へ振らずにはいられなかった。

『私は強くなるの』私はこう言った。

 昔の事を思い出すようにして、言葉を搾り取った。

 何処か心の奥深くよりも深く。私が私を見ていることに気が付く私がいるみたいに、そうやってつながれた鏡の奥の私が言ったのだ。


 そうして朝、いつものようにその夢が覚めて、一日を迎える私がいた。



 今から十三年前、俺が高校一年生の春の事だった。

 俺がまだ世間を知らないで生きてきた静岡県にある川根(かわね)本町(ほんちょう)という小さな町。全校生徒数が三十人くらいしかいなかった地元の中学を卒業して、家から通うことができるぎりぎりの距離にある高校に入学した。

 海沿いに栄える静岡の街並みと違い、こちらは山を越えて見えてくる小さな村のような集落が並ぶ町。大井川の勢いのある流水を頼りに、キャンプなどの自然をいっぱいに使った観光が栄えている。

 四方どこを見ても山。日の上りは遅いし、沈みは早い。まさに山に囲まれた、緑に囲まれた大自然の土地で俺は育った。

 そこで俺は一人の少女と出会った。互いに最初は初対面だったので、名前も知らない子だった。中学生までは近所の仲良しの友だちしかいなかった自分にとって、見知らぬ人とのコミュニケーションは未知の領域だった。

 出会いはふとした瞬間だった。

 ある四月六日の入学式の日の下校。午後のもう遅い時間に学校から家までのバスに乗っていた俺は、とあるバス停に着いたとき、そこで降りた同じ高校の制服を着た女子生徒がバスの中に忘れ物をしていることに気が付いた。

 俺は手にそれを取った。中身はよく分からなかったけれど、上下から厳重に閉じられているプラスチックのクリアファイルの様子を見ると、どうやらこれは大事なものであるらしい。

 だから俺はその忘れ物に気が付いていない女子生徒に声をかけた。しかし彼女は気づかずに行ってしまった。

 しょうがないので、俺はそのままそのバス停を降りて、彼女を追いかけた。

「ちょっと、これ忘れていきましたよ」

 俺は何度かこのバスに乗ったことはあったけれど、学校の通学としてこのバスを利用するのは初めてで、もちろんその女子生徒を見ることは初めてで、その子の名前も分からなければ、学年も分からなかった。ただ分かったのは、彼女が来ている制服が、俺が今日入学した学校と同じ学校の制服であるセーラー服、という事だけだった。

「えっ?」

 彼女はやっと俺に気付いてくれたようで、びっくりしたように振り向いて俺を見た。

「だから、これバスに忘れていきましたよ」俺はバスで手に取ったそのクリアファイルを彼女に見せる。

「あっ、あ、ありがとうございます」彼女は驚いた顔をしていて、随分と混乱しているようだった。

 俺は少しだけ彼女を見つめた。

 背が低くて、顔はいわゆる童顔だった。髪型はショートヘアの無造作な髪型でまとまっていて、物静かそうな人だった。

 俺がそのまま自然にその場を立ち去り、帰ることができたなら、俺は『彼女と出会った』などという表現もなしに、ただの親切だった同じバスの乗員としての関係で終わっていたのだと思う。

 俺が彼女にクリアファイルを渡して、社交辞令の挨拶をした後の事だった。

 バス停に戻って帰ろうとした俺は、当然のことながら先程乗っていたバスが、もう既にそのバス停から消えてしまっている事に気が付いた。

 そしてあらぬ事、そのバス停についている丸いスチール製の時刻表を見て、俺は唖然とした。

「あぁっ!」思わず大声を上げる。

 それは、今さっき去って行ってしまったバス以降のバスがこのバス停に停車しないという事を知ってしまったから。

俺の家は今さっきのバスをバス停三つ分乗らなくては家に着けなかった。歩けば一時間は軽くかかってしまう。

 俺は地面に崩れ落ちそうなほど落胆したのだが、今日の午前中は生憎の雨で地面が濡れていた。思いがけぬ災難に出くわそうとも、水たまりに膝をつくような馬鹿ではなかった。

「どうしたの?」落胆している俺の後方から震えるような声が聞こえてきた。

 俺は声のする方向いた。さっきの女子生徒が、まだそのクリアファイルを持ったまま近くに佇んでいて、俺の方をじっと見ていたのだった。

「いや、あと三つ先のバス亭まで行かなきゃ行けないんだけど…」

「もうバス来ないよ」彼女は間髪入れず、当たり前のようにそう言った。

「知ってるよ!」

 それがわかっているから、俺は今ここで落ち込んでいるんだよ!

「ああ、ごめんなさいっ」彼女は俺を恐れているように怖がっている。

 演技じゃない所を見ると、俺も少しへこむな。

「どうしよう、これじゃあ家に帰れねぇよ」

俺は半ば泣きそうだった。

 ここは、田舎の中の田舎、ド田舎。それにうちはあまり裕福な家ではなかった。だから俺は携帯電話というものを持っていなかったし、ここら辺に公衆電話がある様にも思えなかった。だから親に連絡を取ることも出来ない。

 それにもし親に電話をかけることができたとしても、うちは車を一台しか持っていなくて、父親しか運転免許を持っていなかった。その父親は今現在出勤中。いわゆる絶体絶命ってやつだった。

「あの…」

 近くで俺を見ていた彼女は俺の顔を覗き込むように小さい声をかけてきた。

「なんだよ」

機嫌が優れていなかったので、俺はずいぶんと無愛想だった。

 たぶん彼女は今の反応で、もっと俺を恐れてしまったのではないかと思う。

 それでも彼女は勇気を振り絞ってなのか、少し大きな声でこう言った。

「もし必要だったら、近くにある私の家の車で家に送ってあげることができるけど…」

「ごめん、聞こえなかったからもう一回言って!」

 本当は聞こえていた。

「うちにある車で送ってあげるけど」

「ぜひ!」

俺は大喜びした。

 当たり前だった。『情けは人の為ならず』という諺の意味がやっと理解できた気がした瞬間だった。

 正しい意味は、情けを人にかけておけば、必ず自分に巡り巡って良い報いが来るから、人に親切にせよ。

 まさにその通りだった。

「俺は市野瀬一矢(いちのせかずや)、よろしくね」



 彼女とは初対面ながらすぐに打ち解けることができた。まだ彼女とのコミュニケーションにはお互い初々しさが否めなかったけれど、彼女はとても親しみやすかった。

 彼女は東條美月(とうじょうみつき)という名前だった。訊いた所によると、俺と学年が同じで、隣のクラスの生徒だそうだ。

 俺たちは二人並んで歩いていた。美月さんの方が、少し歩幅が小さかったので、俺はそれに合わせた。

 美月さんの家はバス停から近いと言っていたが、実際には徒歩で十分くらいの所にあるようだった。俺は少し無口な彼女との沈黙が耐え難かったから、しきりに自分の方から美月さんに話しかけるようにしていた。

 この時から既に、大人しく清楚な美月さんに少しの好意を寄せている自分に気が付いていた。

 話した内容は様々だった。中学校の時の話、好きな音楽、好きな本など、美月さんの家に着くまでにこんなことをずっと美月さんに話しかけていた。

 その時、俺はふとある事が頭に浮かんで来た。俺はそれを躊躇せず話した。

「東條さんは将来の夢とかって、もう決めてるの?」

 高校生になると、真剣に将来の事を考え始めなくてはいけないと俺は考えていた。当然軽い四方山話だと思っていた。

「うん、一応」美月さんは意外にも即答した。

「どんな夢?」

「小さい頃からずっと叶えたい夢があるの。でも言うのは恥ずかしい」

美月さんは本当に恥ずかしいようで、頬に紅がさした状態で俯いていた。

「教えてくれないの?」

「一矢君の将来の夢を言ってくれたらいいよ」

 俺は少なからず驚いた。美月さんが俺の名前を呼んでくれたし、まず俺の質問に真面目に応えてくれた。だから、俺もしっかり応えなきゃ、とそう思った。

「俺も言うの…少し恥ずかしいんだけどさ、俺も昔から持っている夢があるんだ。『作家になりたい』って夢があるんだ。別に芥川賞とか、直木賞とかの名誉な賞なんて取れなくていい。ただ自分にはしっかりとした読者がいて、その読者がまた自分の書いた本を待っていてくれる。本を書いたら、それを読んで一喜一憂してくれる。そんな気分を味わいたいんだ」

 まだ誰にも打ち明けたことのない話だった。親にも言ったことがないし、尊敬していた中学の先生にも、どんなに仲が良くても、友達にも言ったことがなかった。

 こういう話は案外あまり知らない人の方が気軽に話しやすいのかもしれない。もしかしたら『美月さんだったから』という事もあったのかもしれない。俺はあっさりと言うことができた。

 特に恥ずかしいとは思わなかった。無謀な夢だと分かっていても、夢を持って、追っている者同士、何か通ずるものがあるのかもしれないと思っていた。

 そして俺は彼女に告げる。


「夢を叶えたいんだ」


 それを聞いた後、美月さんは少し困った顔をしていた。

 俺にはなんで美月さんがそのような顔をしたのかが分からなかった。

「ごめん一矢君、やっぱり言えない」

「そっか」

 俺はあっさりと約束を破られてしまったわけだけれど、不思議と嫌な感じもしなかったし、美月さんに対して憤りを感じているわけでもなかった。

 なぜなら、美月さんは本当に申し訳なさそうな顔をしてこちらの眼を見て俺にそう言ったからだった。

 その時、俺は美月さんに、言いたくない特別な事情があるのだと察していた。

 まだ俺は高校生になったばかり、世界を全然知らない俺は、そういう事もあってもおかしくないと、寛容な心でそれを受け入れた。

 それ以降、美月さんの夢の話がされる事はなかった。



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