春
三日の日
もっと長く生きていたかった。
もっとあの子の所へといてあげたかった。
私は昔から体が弱かった。人より何倍も努力する必要があった。
けれど私はそのハンディキャップを乗り越え、今まで生きて来れた。
あの子にもそういう生き方をして欲しいし、何より幸せになってもらいたい。
彼ならあの子を幸せにすることが出来るかもしれない。
太陽を失った向日葵のように、磁場を失ったコンパスのように、行き場を失ったあの子の居場所を見つけて欲しい。
できれば私の死は何もなかったものとして受け取ってくれるのが一番いい。
私はあの子の母親ですもの、幸せを奪う権利などないわ。
高校二年生の春が来た。
あの時と変わり映えしない春を思わせる突き抜けた風と、未だに好きになり切れない儚い桜がそれを思わせんばかりに盛りに咲いていた。
『花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。』
と昔鎌倉時代のどこかの坊さんが書いたように、桜は終わりが良いものなのか、それでも満開を謳う人々は減らない。
既に終えた新入生の入学式を後に行われる始業式に出るために俺は学校の校門を小さく物静かな東條美月と一緒にくぐった。
新学期を思わせる賑わいでここが本当に田舎の公立高校であることを忘れさせるようだった。いまだ校門前と体育館前には入学式と書かれた白い板が斜めに立てかけてあった。
こんな様では午前に始業式をして午後に入学式を取り計らった方がよかったのではないかと思わざるを得ない。
けれど俺は去年の丁度昨日の事を思い出していた。昨日は四月六日だった。
入学式の帰りにバズが無い事に気がついて落胆した自分を顧みた。そう考えると午前中に入学式をしたのは正解だったのではと思ってしまう。
けれどもそれが発端となって俺は彼女、美月と出会うことになった。
そう考えると何もかもが奇跡だとしか思えない。
俺はそんな事を考えて桜が立ち並ぶ校内の並木道を歩いていた。
校舎前に近づいていくと、何やらとてつもない数の生徒が集まって一心に白いボードを見つめていた。見た感じでは受験の合格発表に近い印象を受けたが、大体察しがついた。
あれは新しい学級の一覧なのだ。
生徒が騒いでいることもいくらか納得だ。
俺もすぐに自分のクラスを確認した。
市野瀬一矢の名前はすぐ見つかった。大体出席番号が一番から五番圏内に入っているので、すべてのクラスの上部を流し読みすればいいのだ。さらに二年生になると文理でクラスがわかれるので、少数派の文系をとった俺はすぐにクラスがわかった。八クラス中の一、二、三組が文系のクラスだ。
そして俺は三組だという事を確認して隣でせっせとジャンプをして人だかりを越えて一生懸命に白いボードを見ようとしている彼女に声をかけた。
「美月さんは何組?」
頑張ってジャンプしていても彼女の背丈では見えないような気がしたので俺は一緒に探すことにした。
彼女も文系だったと思うので先程の三組を探す。すると三組の二十番に彼女の名前があったので指を指してあげる。
彼女も頑張ってそこを見ようとするのでついつい微笑ましくなった。
「三組だね」彼女は確認してそういう。
「一緒だね」
正直に嬉しかった。最近は嬉しいことが多かった。
昨日四月六日も良い事があった。
七月のある日を境に付き合う事になった俺たちは、最近よくある、つきあった日を記念日にする、みたいな事を知った。俺達はその七月の日を記念日にする訳ではなくて、二人が出会った四月六日を二人の記念日にすることにした。お互いが好きになったのもその日だった様なので。
けれど付き合う事になって彼女、美月さんはあまり俺と行動を共にすることが多くはなかった。おまけに俺はまだ彼女の事を『美月さん』で呼んでいる所がある。学校では相変わらず恥ずかしがって一緒にいることは少ないし、休日に会ったこともなかった。例えば夏休みの日や、クリスマスなんかでも家に電話すると、「今日は忙しいの」の一点張りだった。
そのたびに俺は美月さんに嫌われているのではないかと思うのだが、毎日の帰りに二人で帰ってくるとそんな事も忘れてしまい、それは彼美月さんなりの事情だと思い込んでいた。
昨日も駄目もとで記念日として会う事を誘ってみることにした。すると彼女は何故かその誘いに受諾してくれた。所謂デートに行くことになった。俺の緊張は電話をし終わった後でも感じられた。
そして俺と美月さんとで静岡へと行くことにした。目的は本を買いに行くためだった。
ここの片田舎では大したデートスポットもないので行くことに悩んでいた俺は、彼女は本が好きだという事を思い出して、静岡の書店へ連れて行こうとした。
ここら辺の書店にはやはり最近の本がないし、学校の図書館にも沼津の有名な作家として井上靖の本なんかはたくさんあったのだが、そこには高校生の興味を誘うものがなかった。たまに彼女に家にあるシャーロックホームズとかを貸してあげたこともあったが、やはり都会に近い静岡にならいい本がたくさんあると思った。
彼女もこの提案に素直に喜んでくれた。
千頭駅で待ち合わせをして大井川鉄道に乗って金谷駅に向かって静岡駅へ鈍行で向かった。
彼女は普段見ない私服で、彼女はいつも物静かなのにやはり女子高生だと思った。薄着の白い派手すぎない洋服に短めのスカートをはいていた。
俺はいつも一緒に登下校している美月さんには見えなくて、透き通った白い足がスカートの元から見えて、いつもより緊張が高まった。
電車に乗るのは久しぶりで中学の修学旅行以来だと思った。
お互い緊張の色が見えて、向かい合う様に席に座っていた俺と美月さんは俯いたまま何も話さずにいた。時々目があう瞬間があって、目があうとすぐに目を反らして顔を赤らめてしまう。
たまに交わす会話もぎこちなくて、
「晴れてよかったね」
「うん」
「雨の予定だったのにね」
「うん」
「………」
それで会話が終了してしまう。
長らく列車に揺られ、大井川鉄道を乗り換え、JR東海道線に乗って静岡へと向かった。
静岡駅は田舎の鄙びた様子とは打って変わって雅やかで人も車も多く、建造物から変わっていた。
人通りが多くて駅の中で既に迷いそうだったけれど、何とか南口に出ることが出来た。
東京はもっとすごいんだろうな。
東京へは一回だけ行ったことがあった。小学校の修学旅行で行った。その時はバスだったし、ただ教師やガイドさんの後をついていくだけで、大して修学してなかったと思った。
東京を憧れる心は少しあって、大学になったら本当の自由が手に入るとこの時は思っていた。
静岡駅周辺には書店はたくさんあって、それはいたるところのデパートにあった。
それはどれも大型の店舗で見たこともない本がたくさん並んでいた。普段読まない漫画本から、参考書、写真集、雑誌、画集などなど、何時間この場に居ても飽きないくらいだった。
もちろん目当ては小説だった。俺はいったん美月さんと書店の中で別行動して中を回った。
本当は厚いハードカバーの単行本が欲しかった。けれどどれも高いものばかりでしょうがないから小さい文庫本をたくさん手に取った。こっちの方が読みやすいしいいや。親からのたくさんのお金と、今まで色々と集めてきた図書カードが役になった。他にも高校生なので一応参考書も数冊買った。英語が苦手なので英語の教材を特に。
数時間書店の中を覗いていた。それでも居たりない気分だった。青木まりこ現象というものがあるらしいが別段と自分はそういう体質ではないので何時間でもこの場に居られるような気がした。
美月さんと書店のレジの前で待ち合わせした。俺は二十冊くらいの本をまとめて持っていて、それでも多いと感じていたが、美月さんは俺が手を出せなかったハードカバーにまで手を出していて手で抱えて本を突き上げて持っている。そのせいか顔が少し隠れていて、小さい身体が支えきれるか少し心配なほど彼女は本を持っていた。
「それ全部買うの…?」俺は恐る恐る尋ねてみた。
「うん」美月さんは少し恥ずかしそうに返事をする。
そっか、楽しんでくれているみたいでよかった。
「レジ先並んでいいよ。重いでしょ?」
「うん。これ全部欲しかった本なの。まだ文庫本が出ていなくて、私の好きな作家さんの一番最近に刊行された本なの」
「そうなんだ、俺も読みたいな」
「いいよ」彼女は間を開けず即答した。
「いいの?」
「うん」
「ありがとね」
初デートはとてもいい一日だった。
学校の校舎に入って俺と美月さんは新しい教室の二年三組へと向かっていた。二年生の教室は三つある校舎のうちの中校舎の二階にある。
俺は階段を上っているときに彼女にこう言った。
「昨日は楽しかったね」
「うん…」彼女は恥ずかしそうにしていた。
学校の中で、二人でいるのが恥ずかしいのだろう。同じ学年の顔見知りの生徒とここへ来るまで何人ともすれ違ったが、皆俺たちの関係を知っている。冷やかしたりするのはもう去年の事で飽きてしまって、今ではうらやましがられる事の方が多くなった。
そのまま俺たちは何もしゃべらなかったが、今度は急に彼女から話しかけてきた。
「昨日の本、読み終わったから貸してあげるね」
「ええっ!もう?」
だって昨日書店に行って、帰ってきたのは夜の7時位で…。
「うん、昨日最後が気になっちゃって、結局あんまり寝てないの」
「そうなんだ、そういうのってよくあるよね」
確かに隈が出来ている。美月さんの顔は白いからなおさらだった。それでも大好きな本を読んだからなのか、まだ元気そうだ。
「面白かった?」
「うん、想像以上」
横並びに歩いていて、彼女の横顔を覗いてみると、彼女は普段あまり見せない稀有な笑顔を見せてくれて、俺は本当に彼女は本が好きなのだと分かった。
その時に俺は彼女にも喜んでもらえるような小説が書けたら、と初めて思った。




