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なにもない六日の日  作者: 水無月旬
一日の日
14/31

一日の日 4


 ある整備された道路に車を止めた。そこには曲がり角で真っ白く汚れ無きガードレールがあった。そのガードレールは、どうしてだかわからないけど光さえも逃がさないブラックホールすらも打ち消してしまう程今も尚白く、変わっていないような気がした。ガードレールの向こう側には昔、記憶にある折れた樹が一本もなく若々しい木々の森があった。その下は谷になっていて、覗くと自然の流儀に飲まれていくように地面からまた次々に樹になるであろう若い芽が顔を出していた。

 昔は古い樹がたくさんあった。今もそうだ、車で突っ込んでそののちに切られなかった木々以外は全部そろって十年前と同じ顔ぞろえをしていた。

 ガードレールも一か所だけその白さがちがっていて、車を運転していても太陽がその白さを反射させていてまぶしいくらいだった。十年前のものなのに…。

 俺は車の中から花束を取り出した。帰り途中の駅付近の商店街にある花屋で買った。店主は花屋に似合わない皺だらけのしゃがれた声で話す老婆だった。東京には若いぴちぴちの肌を持った女性が花屋には似合うというのに、この町の花屋はこれが普通だった。それでも悪くは言わないでおく。十年前からお世話になっている花屋で、いつもこの四月の時期に合わせた花束を毎年同じに作ってくれる意外にも記憶力が廃れない優しいおばあさんだったからだ。

 俺はその名前も花言葉も分からない花々が束ねられた花束をその一つだけ色の違う乳白色のガードレールの地面との接続部分のすぐ横に横たえた。

 俺はガードレールを見つめていた。ただ一心に見つめていた。

「俺、どうしたらいいんだろう…」自分でも思える程情けない声が出た。

 自分でも弱弱しく感じる声を聞いて自分を慰めたくなった。昔から世話焼きの性格があった、父親譲りの。そうしたらどうしたらいいのかわからない別の自分が出て来て、それがコギト・エルゴスムだ、なんだ、と考えていたら急に涙が出てきた。最後には自分がなんでここに来て涙を流しているのかわからなくなって嗚咽していた。目の前には乳白色の無機物を思わせるただのガードレールと、森の匂いと、鳥の鳴く声、目の前に横たわっている花束のきつい花の匂いとが俺を囲んで包み込んでいた。車一台しか通れない車道であっても誰も通る気配がなかったので俺は白いワゴン車を車道に止めたままひざまずいて泣き崩れた。


 父はここで死んだ。


 昔は全部同じ色だったこのガードレールを車で突っ切って、皆同じくらいの年輪を持つ木々の森の中へ突っ込んだ。まるで今取り付けられているガードレールの白が全てを奪い去って何も無くしてしまうような真っ白さを持っていた。車の救助中に切り落とした木々の元から生えてきた新しい木々の年輪が一つまた一つと刻まれていくようすが目に見えないのに感じられた。

 あれから十年たったのだ。

 俺はまた立ち上がって車に乗り込む。振り向くことはしなかった。

白いワゴン車の車内の時計は三時半で俺の持っている時計は四時だった。直そうかと思ったけれど、どうせ向かいの家の他人の車だからそんなめんどうくさい事をするのを止めた。

 車を走らせた。気を落ち着かせると、車の車内が異様に暑い事に気がついてウインドを開けた。何となく昔は手回し式だったのを思い出し、あの軽トラがそうだったことを思い出す。

 窓を開けると風が心地よく車内に入って来て涼しかった。森の匂いがいっぱいに入って来て、森林浴に近い気分を味わった。

 山を一つ抜けると、水の音が聞こえて来て川の方へ来たことを知った。大井川だ。ここは山だから水の音と言えば田んぼの用水路の水を引く音か、一年を通して収まることのない勢いで流れる大井川しか考えられなかった。そう考えると東京の川は緩やか過ぎる。

 俺はその川沿いの道をずっと走り続けて、赤や灰色の鉄筋の橋を幾本か渡った。 

 すると、大井川を囲む山と山の間隔が広くなった開けた土地にやってきた。目の前に見える山も、森があるのではなく、木々が生えていない原っぱのような大きい山があって、ここは変わったんだなと感じる事が出来た。



 とあるダムへやってきた。

 規模は大きくて、事務所がダムの上と、近くのプレハブ小屋みたいな所にあった。駐車場もしっかりと整備されたものがあって、警備員はいなかったが、広くて、まだ新しいアスファルトの白線が書かれている駐車場に車を止めた。駐車場のキャパの十分の一も車は止まっていなくて、止まっている車は俺のワゴン車をのぞいては従業者の車ばかりに見えた。第一こんなところを観光所としようとするとことがおかしい。開けていても見るものがなければ人は来ない。変なところに税金をかけたなと思う。黒部ダムでもあるまいし。

 俺はもう一つの花束を車から出して両手でぎゅっと握りしめて歩き出した。

 握り締めた花束は、持ち手がつぶれて、茎が折れてしまいそうだったけど力を抜くことが出来なかった。

 歩き出した先は、ダムの上部を通っている川を横断できる橋だった。橋といってもアスファルトで補強されているだけのただの通路に過ぎず、ダムの滝が流れている下部から相当の高さがあっても怖さは感じなかった。ただ他の怖さが俺の心の中で充満して気持ち悪い気分にさせた。つい昨日会社で味わった貧血をまた起こしそうな気分だった。

 そのせいでここまで強く花束を握り締めてしまったのではないかと自分でも思う。思ってもどうにもできなかった。あの前に来てみたら自分がどういう反応をして、どういう感情を抱くのかもわからなかった。

 俺は橋と地面との境界線から自然と歩数を数えていた。

 一、二、三…数えるたびに鼓動が加速して、脈が数えるごとに数値が上がっている。

 俺は橋を渡り始めてから二十一歩、歩いた先で止まった。こめかみが急な脈の上昇できつく痛かった。

 止まった瞬間に、ダムの門が開けられて、滝が一斉に流れた。最近は雨が少なかったから、流水を流し始めたのかもしれない。

 俺は川の下流側を見て立ちどまった。二十一歩歩いても橋はまだずっと向こうまで続いていた。それほど川の幅は広かった。

 俺は目を瞑って昔を思い出していた。そしてすぐ目を開けると、俺が記憶していた昔と違う所があって、それが俺を苦しめた。いたたまれなくなって、少し反芻しそうな勢いで気持ち悪くなった。

 この橋の足元と同じアスファルトでできた安全柵が昔より高かった。

 これだけで俺はめまいがして、花束を落とした。

 花束に束ねられていた黄色くて小さな花が何個かとれて、無様に花びらが数枚散った。

 滝の音が流れて、目を瞑ると時が止まった様にそれが聴こえなくなって、また昔を思い出させる。

 十年前の少し前はこのアスファルトが少し低かった。あまり変わりは分からないけれど、今よりはずっと低かったように俺には見えた。

 さっき止まった父の死に所のガードレールと同じだった。

 俺は落としてしまった花束を拾ってまた強く握り締めた。下からは活けていた時の水が滴り落ちて静かな音を立てた。滝の音がざーざーと暴れ狂う中で俺にはその音がはっきりと聞こえた。

 二十一歩目の安全柵の手前に花束を置く。この二十一、という数字は昔、自分で数えた数字だった。

 覚えづらいただの二桁の数字が俺にはずっと頭の中に残っていた。まるで俺の中で蝕み続ける『六』という数字のように…。

 俺はやがて自然に、何も意識せずに目を瞑った。


 彼女はここで死んだ。


 東條美月、彼女はまだ高校生だった。

 他殺でも事故でもない、ただの自殺だった。遺書も出てきて、動機もはっきりとわかった。先程の二十一歩のところで彼女の履いていた靴が一足残っていたらしい。

 俺は何も悔むことがないはずだった。彼女とは関係のない人間で、あの日だって俺はなにもない六日の日を生きていたはずだった。

 彼女は俺の父親と同じ日に死んだ。

 時間的には彼女の方が先に死んで、その数分後にそれを追うかのように父が死んだ。

 自殺だったんだのだから、遺書だって残っていたんだからと俺は思う。だけど…。

 だけど、なんでアスファルトの安全柵の高さをあげたんだ!

 それがなければ、決して俺はこんな気持ちの悪い、どうしようもできない気持ちを花束に込めてこの場においていくだけなのに、なんでこの場所でこんな気持ちを持った自分が立っているのかを考えてしまう様になったのか、そう考えただけでまた涙が出てきた。

 別に涙もろい性格でもないのに、映画を見ても、本を読んでも、音楽を聴いていても涙を出したことがない意外と感慨浅い俺なのに、なんでこんなにも胸が熱くて、手を自然に胸に持ってきてしまって、信仰なんて何一つとして信じてもいないのに、ぎゅっと祈るように両手を握りしめて目を瞑っているのだろうと思って涙が出てきた。

 歯を食いしばって、いつ時も、去年も、一昨年も、一周忌ですら泣かなかった俺なのに。

 涙を流して本当に人間が渇いてしまうのなら俺はいつまで流せばいいのだろう。歯止めが効かなくて、拭っても拭っても涙は止まらないものだから、着ていたワイシャツがぐしょぐしょに濡れてしまった。

 山の夕暮れは早かった。四月で本当なら六時位までははっきりと人が識別できるくらいまで日は伸びたのに、ここでは太陽が山に隠れてしまって黄昏時になった。

そうしたら安全柵の変化した高さまでもが識別できないくらいになって、俺はようやく涙を止めることが出来た。

 花は既に萎れたようになっていて、まるで俺と同じように涙を流しきっていたようになっていた。

 そろそろ帰らなきゃ、と思った。家には一人きりの母親がいる。俺が帰って来て、少しは喜んでいるのではないかと思う。一人暮らしはやっぱり寂しいものだから…。



 白いワゴンカーを走らせて帰宅した。結局車の時計は直すこともなく放っておいた。

 向かいの家に止めて自宅に入った。引き戸の鍵は開いていたのに母さんの姿が見当たらなかった。すぐに察しがついた。たぶん左手の畑の手入れをしているのだろう、この時期は種まきの時期だから。

 家の中から西側全体に広がる大きな硝子戸をあけた。外から一匹の虻のような虫が家の中に入ったけれども、この家では茶飯事なので大して気にすることのなくそのまま腰を低くして農作業をしている母さんに声をかけた。

 辺りは暗く、見えるのは母さんの影だけで、他はあまりよく見えなかった。

「母さん、ただいま」

「ああ、誰だね、侵入者かね?」またとぼけているんだ。

「違うよ、俺だよ」

「何、電話でなく家に訪問するタイプのオレオレ詐欺かね?最近は手法も変わったようだね」

「めんどくさ」俺は吐き捨てるように言った。

「今なんか言ったかね?一矢」

「いや何でもない」

 わかってるならさっさと反応しろや!

 それでも俺は別に嫌だとは感じていなかった。なんだか昔に戻ったような気がして、母さんのボケにだって懐かしさがあった。

 母さんはまだ元気で病気にもなったことはなかった。年相応ではなく、年齢よりも見た目は若くて昔は美人で自慢の母親だった。

 母さんは畑から戻って来て、泥まみれの長靴を脱いで俺が呼びかけた戸から家の中に入ってきた。日は既に暮れていたのに、麦わらの洒落家のない帽子を被っていて、茶色の混ざった汚いレース編みの布を日よけとして腕につけていた。

「じゃあ晩御飯でも作ろうかね。今日はアスパラが取れたんだよ」

 母さんは幾本の長くて茎が異常に太い、濃い緑色のアスパラガスを持って台所へと向かう。芯が固そうで俺にはあまりおいしそうには見えなかった。そうして調理し始めるのかと思ったら、まな板にアスパラガスを置いてさっきの戸へと向かう。雨戸を閉め始めた。母さんが手にかけた戸は、噛み合いが良くない戸で、閉めるときにぎいぎいと嫌な音はするし、どこかがひっかかったようで母さんの力量では閉まらない様だった。

「俺が閉めるよ」

 俺は母さんに歩み寄って戸を閉め始める。確かに動きが悪く、年寄りの女性には厳しい作業だったかもしれない。

「こういう時はいつもどうしているんだ?」

「近所の人が見えるときはやってもらえるんだけど、いつもは中途半端に閉めたまんまにしておくよ、おかげで冬は寒くてねぇ」母さんは少しほくそえんでいた。

 もしかしたら俺が出て行った九年前からずっとこうしていたのではないのかと思った。

 今まで俺はそれに気づかなかったのか。母さんは何も文句を言う訳でもなくずっと冬は寒く過ごして、夏は雨戸と、硝子戸の間から入ってくる虫に苦労していたんだ。

 母さんは俺が雨戸を閉めた後、台所に戻った。俺は何故かその場所に立ち尽くして、ここから見える二部屋先の母親の後姿を見ていた。

 とんとんとん、と木のまな板から聞こえるアスパラガスを切る音、水を流している音が聞こえた。

 母さんの後姿は、俺が出て行ってからもう十年近く経つのに変わっていなかった。腰は曲がっていなくて、極度の撫で肩で、何より背が低かった。昔から変わっていなかった。けれども俺はそこから母親の強さが感じられた。父を無くしても必死に生きてきた強い母の生き様が感じられた。

 俺が雨戸を閉めた場所は、俺が帰って来てからすぐに線香をあげた仏壇のある部屋だった。

 台所側に見える、その部屋の天井より少し低い部屋の仕切りには、なくなった父の顔写真があって、とても俺とよく似ていた。もしかしたら自分は父親によく似ているのではないか。昔母さんから聞いたことがあった。父は、頭は良いが小心者だって。それでも優しい所があると。

 母さんはそれとは真逆で、頭は良い方ではなかったが、強くて、昔は厳しかった。それでもやはり母さんは強かった。さっきみたいに、雨戸も閉められない程非力なのに、精神はとても強い。父が亡くなっても決して弱音を吐かないし、俺にはそんな姿を見せたことがなかった。

 俺は母さんに近寄った。

「手伝おうか?」

 台所を覗くと、作っているのは昼と同じように、煮物やらサラダやら、野菜を使ったものがメインのようだった。

「気にしないでいいよ、一矢は何か思うところがあるんじゃないかね?」作業をしたまま話をしていた。

 母さんは何かを察したようにそう言った。俺が家に帰ってから何を言ったわけでもない、ただ数回言葉を交わしただけで、母さんは俺のすべてを理解してくれているようだった。

 やはり強い母さんだった。

 俺はどうだろうか。

 たとえ失った大切な人が母さんは一人だけで、俺は二人だとしても死んでしまったことには変わりがない。

 俺はやはり小心者な父に似てしまったのだろうか。母さんをいつでも見守るその顔写真を見てそう思った。





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