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「本来の、騎士様?」
騎士は僅かに頷いた後、口角を上げる。その仕草がアリシアにはとても悲しく見えた。
本来の私ってどういう意味? つりあう身分じゃないって…どういうこと?
アリシアの疑問に答えるように、騎士は自分の胸元に刺繍されている紋章を指差す。王家の紋章だ。
「慣習では、王家の紋章の隣に並ぶように自分の家の紋章を刺繍します。それによって、王族と同等の立場を許されたことを誇示するのですが……この通り、私にはございません」
それが何を意味するのか、分かってしまった。一瞬は、彼が謙虚で刺繍しなかったのかと思ったが、普通の貴族はそんな馬鹿な真似はしない。自分の家格を上げる、またとないチャンスなのだから。
では、何故それをしないのか。しないのではなく、出来ないのだ。紋章がないから。
紋章がないということは、騎士の家は貴族ではない。庶民でも代が続けば、紋章のある家は多い。それにもあたらないというのなら、騎士はかなり貧しい家の者ということになる。もしかすると、姓も持たないのかもしれない。
(だから…貴族の馬鹿げた考えが理解できないんだわ)
ようやく合点がいく。彼の言葉の節々にある違和感が解消された。
誰もが憧れを抱いておかしくない騎士が庶民であることに、アリシアは別段ショックを受けなかった。彼が庶民から聖騎士になることにただただ感銘を受けるだけだ。狭き門をくぐり抜けるのは酷く困難だったに違いない。
「お察しの通り、私は地位もない平民です。北にある小さな農村の、貧しい夫婦の間に生まれたようです」
「ようです…?」
「夫婦には子供を育てられる余裕がなく、生まれて間もない私を教会に預けていったと神父から聞いております。幼少時は教会で、その後は騎士団での生活となりましたので、それ以上のことは不明です。誰が親なのかも存じませんし、自分の名も教会でつけていただきました」
「そんな…」
思わず痛ましい表情になるアリシアに、騎士は穏やかに首を横に振る。
「田舎の農村は貧しいのが当たり前ですから、私など珍しくないのです。どうか同情などはなさらないでください」
「そう、だったのですか…」
「聖騎士となっても、実際の私は――帰る家もなければ、財産もなく、地位もない男です。アリシア様に敬称をつけていただくような人間ではありません」
アリシアは言葉を失い、黙り込んだ。
彼が本当に何も持たないことに愕然としたわけではない。
自分にとって、目の前の騎士がたとえ平民だとしても、それは何の障害でもないのだ。貴族の中には、今となっては肩書きに過ぎない「貴族」というものに執着を見せる者も多い。平民を下に見て、自分たちは気高い存在だと思い込んでいるらしい。
しかし、偶然貴族に生まれただけにすぎないのに、どうしてそんなに威張れるのか、不思議でならない。困難を乗り越えた騎士の方が威張って当然なのに。
(私はビリーが大好きだし…相手の身分なんて気にしたこともないのに…)
父親が用意する婚約者たちは、家格が同じくらいの貴族だったが、結果は散々だった。自分で恋した相手を選べれば良いのだが、そこまでの相手が見つからなかったのだ。
アリシアが気に掛かったのは、目の前にいる騎士が苦労の連続であっただろう過去を、さらりと流すように言ってしまったことだ。もっと、苦労したとか、つらかったとか、そういった感情を滲ませてもおかしくないのに。
(…言葉に出来るような、軽い過去じゃないんだ)
苦しくて、不条理の連続だったのではないだろうか。
考え込むアリシアに、騎士は同情するように頷いた。
「あなたの受けた衝撃は計り知れません。まさか身分の低い男と見合いをさせられるとは思わなかったでしょう」
「え?」
「謝罪として、私に出来うることを、あなたにして差し上げたいと思います」
「…騎士様?」
騎士はアリシアから視線を外し、遠くを見ていた。
その瞳に何も映っていないように見えるのは、何故だろう。
「これから周囲に私の素性を説明してください。だから断ったのだと。そうすれば、あなたは同情されることはあっても困ることはないでしょう。……アリシア様、よろしいですね?」
婚約者として何一つ不足のない聖騎士に断られたとなれば、もう自分に縁談は舞い込まない。年が明らかに離れていれば話は別だが、彼は若いし、眉目秀麗だ。たとえアリシアの方から断ったのだと言って回っても、誰も信じてくれない。
人の口に戸は立てられないとはいえ、もしかしたら彼の出自は隠しきることが出来るかもしれない。
それなのに、彼はその可能性を自ら捨てようとしている。
でも、どうしてそこまでするのだろう?
前の聖騎士の妻が一人寂しく悲しんでいるのを見て、それを繰り返したくないから?
それとも、彼の言葉をそのまま捉えるなら、自分の結婚相手を苦しめないため?
いや、彼は回りくどく言っているだけだとしたらどうだろう。もっと単純な理由なのだとしたら。
アリシアは決意に満ちた目で、騎士を見上げた。心境は止めを刺されに行く兵士のようだった。
「騎士様。ご出身がどちらであろうとも、身分も過去も、関係ありません。私はあなたを心から尊敬します」
「…勿体無いお言葉を…ありがとうございます」
「最後に一つだけ、聞かせてください。……そんなに私は、だめですか?」
「え?」
「いき遅れが身の程知らずのことを申し上げているのは、分かっております。それでも聞かせていただけませんか? 私は、だめ…ですか?」
胸の前で両手を組み、アリシアはぎゅっと目を閉じた。自暴自棄になっていた。
もう心も意地もずたぼろだ。傷つくことは避けたいけれど、ここまできたならいっそのこと、大きく傷ついてしまえばいい。
こんな誠実で素敵な人に振られるのなら、諦めがつく。今後、失恋を思い出すたびに、騎士の顔を思い出すのも悪くない。
きっと、彼はこう言うはず。――あなたじゃダメなんだ、と。
アリシアにとっては永遠とも思える数秒間の沈黙は、騎士の舌打ちで破られた。
(え…騎士様が舌打ち?)
恐る恐る顔を上げれば、騎士が苦々しい顔をして、髪をかき上げていた。
穏やかな笑みや優しそうな態度はすっかり鳴りを潜めている。同一人物とは思えないほどの変わりようだった。
その変化に圧倒され、アリシアの決意は途端に萎んでいく。質問の撤回を口にする前に、騎士が眉間に皺を寄せながら吐き出すように言った。
「ああ、俺だって聖騎士じゃなかったら断るわけないだろ!」
「!」
「だけど、あなたは今、冷静じゃないんだ。よく考えてみれば分かるだろう? 俺のような男と結婚して、あなたに何の利益がある? 貴族からの評価はがた落ち。バックス家は一気に傾く。親類からは縁を切られ、友人は誰一人残らない。同情や自棄で結婚して良い相手じゃない」
「私は決して軽い気持ちで申し上げておりません!」
自棄になっているのは否定できないが、それはこっぴどく振られるためのものだ。自棄で結婚すると言っているわけじゃない。
「結婚がしたいだけと捉えられてしまうのは自業自得ですが、そうじゃありません。結婚がしたいだけなら、騎士様が紹介してくださる相手を断るはずがないですわ」
「それは……そう、か。失礼」
騎士は一本取られた、という顔をした後、自嘲気味に口角を上げる。
「聖騎士でなければ、あなたと話すことさえ許されない身分なのは変えようのない真実だ。貴族ってだけで、あなたの婚約者になれる連中が羨ましいな。……今までの連中はあなたの何を見ていたんだ? 同じ男として軽蔑する」
「それは私に至らぬ点が…」
「至らない点? さっきも言ったが、あなたには何一つない。単純に馬鹿男の見る目がないだけだ」
「そ、そうでしょうか…?」
「ああ。どうせ、そいつらは遊ばせてくれるような女が良いだけだろ」
くだらない、と忌々しそうに遠くを見遣る彼には、アリシアを振った貴族の姿が見えているのかもしれない。
「あなたが卑屈になる理由は分かったが、それで自分を責めるのは大間違いだ。見る目のない連中のことなんて、忘れるんだ。時間の無駄だ」
「は、はい!」
思わず背筋が伸びる。曖昧な返事が許されない雰囲気だった。
(騎士様の本当の姿は…こっちなんだわ。何故かしら、こっちの方がさっきよりも素敵)
口調は少し乱暴だが、自分を気遣う気持ちはしっかりと伝わってくる。
前髪をかき上げ、呆れる表情を見せる騎士に、アリシアは胸が高鳴るのを抑えられない。
(聖騎士じゃなかったら断るわけないだろってことは……私と結婚したいと思ってくださったの? じゃあ、素性を明かせと言ったのも…私のために…)
自身の身分や過去など、人に不用意に知られたくないはず。それなのに、そうまでしてアリシアの立場を守ろうとしてくれているのだ。
胸が痛むほど締め付けられ、涙が込み上げてきた。
邪推して、自分勝手な発言ばかりする自分が恥ずかしい。これでは、自分が嫌う貴族と同じではないか。彼の優しさに甘えるばかりで、本当に恥ずかしい。
――こんな素敵な人が、私と結婚したいと思ってくれるなんて。奇跡だわ。
急速に頬が熱くなるのを感じ、俯きがちに頬を押さえた。
その仕草を落ち込んだと勘違いしたらしい騎士は、しまったという顔をする。
「っと、申し訳ない。付け焼刃の態度と話し方は、やっぱりボロが出るな。悪いが、俺は騎士様なんてガラじゃないんだ」
「いいえ、そんなことはありません。今のあなたの方が素敵です」
ふふ、とアリシアが笑うと、騎士が横を向いた。僅かに目の下が赤い。照れているようだった。
「……見る目のない連中だと罵ったが、奴らに感謝するとしようか」
騎士はアリシアの前に跪き、片手を胸に当てる。
幼い頃に童話で読んだ、騎士の誓いの仕草だった。
「俺と結婚すれば、先ほど申し上げたような環境を強いることになる。どんなにつらくても、聖騎士夫婦は離婚できない」
「はい」
「他にいい男が現れても、スキャンダルは許されない」
「ご心配ならずとも、私にはもう現れません。だって…あなた以上に素敵な男性はいませんから」
「……俺は素性の分からぬ男で、あなたは貴族のお嬢様。価値観が明らかに違う」
「同じ環境で過ごしている家族でも、価値観は全く違いますわ。騎士様、いろんなことを教えてください。世間知らずになりたくないですし、同じものが見たいです」
「くどいようだが、きっと俺はあなたを後悔させるだろう。あなたのご家族を落胆させるのは分かっている。現実を知ったあなたは失望し、俺との結婚を心から嘆く。それは分かりきった未来だ」
即座に否定しようとするが、彼はそれを無言で拒んだ。
「だが、アリシア様――あなたに結婚を申し込みたい。これは俺の欲だ。決してあなたのためではなく、ただの俺の欲で言っている。俺はあなたにつらい思いをさせるばかりだと知った上で、結婚を申し込む酷い男だ」
「騎士、様…」
「ルイスと呼んでほしい。どうか、俺と結婚してくれないか?」
じっと見つめる彼の目に、偽りはない。
今まで望んでいた言葉を聞かせてもらったのに、どうしてだろう。涙が溢れてきてしまうのは。嬉しいのに切なくて、アリシアは痛む胸を押さえた。
「…よろしくお願いいたします。嬉しいです。こんなに、嬉しいことはございませんわ」
「正式の就任式は来月だが、明日には就任しなくてはならない。断るのなら今日中に頼む」
「断るなんて! 絶対にありえませんわ! そんなことはおっしゃらないでください!」
むきになって答えるアリシアに、ルイスはふっと笑みを零した。
一瞬の笑みにも見惚れそうになるが、その瞳の奥が凍えるように冷たいことに気付いて、ドキリとした。
押しが強すぎて、嫌悪されてしまったのだろうか。アリシアはうろたえてもう一度ルイスの瞳を見つめたが、冷たさは隠れていた。
(気のせい…?)
深く考え込みそうになる思考を、ルイスの言葉が遮った。
「自己紹介が遅れたが、俺の名はルイス。姓は就任式までに騎士団から与えられる予定だ。騎士団に所属している」
「ルイス様、これからよろしくお願いします。ご存知だと思いますけれど、私はアリシア・バックスです。どうぞアリシアと呼び捨てにしてくださいませ」
「それは…」
言い淀むルイスに、念押しするように「してくださいね」と笑顔で言えば、彼は困ったように額を押さえた。
「俺のことは呼び捨てで構わないし、口調も普通にしてほしい。夫にだけ敬称をつけたりするのはおかしいだろ。貴族の悪しき慣習だとしか思えない」
「なら、余計に私のことは呼び捨てにしてくださいね。ありがたく普段は呼び捨てで、砕けた口調にさせていただきます。でも、外ではお嫌だと思いますが、悪しき慣習にならってルイス様と呼ばせていただきます。…みなさんの前で夫に恥をかかせる妻にはなりたくありませんもの」
悪戯っぽく笑って言えば、彼は呆気に取られたようだった。しかし、最後には苦笑しながらゆっくりと頷く。
「本当に…俺にはもったいない人だよ、アリシア。俺と結婚してくれる美しい人」
彼の瞳に冷たさはなかった。