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縁談という名の顔合わせは、話を聞いた翌々日の夜に予定通り行われることになった。
当日、厳しいスケジュールの中でぬかりなく準備をしたいバックス家だったが、思わぬ来客が多数訪れ、困ってしまった。日の高い内から家族の友人たちや貴族仲間がこぞって押しかけてきたのだ。
彼らはアリシアの縁談相手が聖騎士と聞きつけて、興味津々といった様子でやって来たのだ。来客を断ろうとしたが、普段会うことすら叶わない、バックス家よりも上の貴族も来てしまったので、結局全員を招き入れるはめになってしまった。
この縁談がうまくいけば、集まった客人たちの前で即座にお披露目となる。聖騎士は国王に近い存在のため、そこでお近づきなりたい者も多いのだ。
しかし、縁談が行われる前から、お披露目で飲むはずの酒を来客たちに飲まれてしまった。誰もがうまくいくと思っていない証拠で、アリシアは騎士に会う前から気落ちしている。
(乾杯のお酒も、もう空…)
ビリーと近所から手伝いに来てくれた人たちが追加で酒を持ってきたが、それもいつまで持つだろうか。あっという間に、貴族たちの胃袋に消えていく。バックス家の財政を思えば、これ以上の追加は不可能だろう。
アリシアは広間を見回して、ローザの姿を見つけた。近づきたかったが、遠目から見ても彼女が随分酔っ払っているのが分かり、やめることにした。
ジェシーは来ておらず、ほっとしたような、ちょっと寂しいような気持ちになる。
酒臭い広間にいられなくて、自室に戻ろうとした時だった。酔いの回った客人たちの無神経な発言が耳に入り、足を止める。呂律が回っていないが、一人の声がローザのものだった。
「ねぇ、今回の縁談はうまくいくと思う?」
「当たり前だろ、ローザ。俺はうまくいくと思うね。だから賭け金も多くしたんだ」
「あら自信満々ね。どうして?」
アリシアは広間を振り返って、愕然とした。ローザがにやにやと嫌な笑みを浮かべながら、楽しそうに話している。呆然と立ち尽くしている間も、アリシアを傷つける発言が次々と耳に入って来た。
「今回のお相手の聖騎士様ってのは、随分なお年らしいぜ。聖騎士になるには、相当な鍛錬と功績が必須なんだ。今の聖騎士様も五十歳を過ぎているしな」
「ええっ! じゃあ、アリシアは親子くらい年の離れた結婚をするってわけ!?」
「そうでもなけりゃ、アリシアなんかと結婚するわけねぇだろ! アリシアも一人でいれば見られるが、ハンナがいたら霞んじまってどうしようもねぇよ」
「ふふ、そうよねぇ。だったら、うまくいく方に賭ければ良かったわぁ。夫から聖騎士様の情報を聞き出せなかった私のミスね。…損しちゃって残念」
「惜しかったな。でもお前も今まで、儲けまくっていたんだから良いだろ?」
「まぁね。ふふふ、アリシアのおかげでいいお金になったわ。あの子がうまくいくわけないもの」
「おいおい、友達にそこまで言って良いのか? ま、賭けの対象にしている時点で、友達でもないか」
「失礼ね、私はジェシーと親しくなりたかっただけよ。あの子はジェシーが連れて来たの。格下の家の子と仲良くしたって、何の得もないわ。カフェで会うのも飽き飽きなのよ。いっつも同じ話ばっかりで」
衝撃の言葉に目の前が真っ暗になる。今まで積み上げてきたものが、一瞬で崩れていく音が聞こえるようだった。
彼らはアリシアが少し離れた場所にいることに気付いていないらしく、未だに楽しげに話している。
(ローザ、どうして…友達だと信じていたのに…)
自分の婚約がうまくいくか、賭けをしていたなんて。
あの口振りなら、ずっと前から賭けをしていたのは明らかだ。それも、最初からアリシアが振られる方に賭けていたのだろう。
アリシアは悔しくて、手をぎゅっと握り締める。
私と会うのも、話を聞くのも嫌だったなら、来てほしくなかった。ジェシーに誘われたなら断れないから来ていたの? それとも、賭けの結果を知りたくて来ていたの?
ほんの数日前まで見せてくれていた優しさは、偽りのものだったの?
信じたくない。でも、彼らの話している姿は現実だった。
「知っていて? あの子ったら、あの年になっても夢見ているのよ? 背が高くて、ハンサムで、笑顔が素敵な男性が理想だって! それも自分のことを好きでいてくれる人がいいだなんて、笑っちゃうわぁ。そんな人がいたら、あの子なんかと結婚するわけないのにねぇ」
「そんな男がわざわざアリシアと結婚する理由がないな」
「そうでしょう? 聞いた時は笑いを堪えるので必死だったわよ! 本当に馬鹿よねぇ」
騒がしい広間でも、神経が研ぎ澄まされたかのように、彼女の言葉がしっかりと耳に入ってくる。彼女の声が頭の中で響いて、気分が悪くなっていった。
(…ローザ、嘘だと…冗談だと言って)
アリシアの思いを踏みにじるように、ローザと男は意地の悪い笑みを浮かべ、空になったグラスで乾杯した。
「それにしてもお酒を飲まなければ良かったわ。どうせうまくいくでしょうし。面白いカップルを素面で見ておかないといけないのに…私ったらうっかりしてたわ」
「だな! 相手は二回りくらい上の聖騎士様。アリシアは婚期を逃した中級貴族の娘! ちょうど良い組み合わせだぜ!」
「本当、素敵だわぁ。あーあ、ジェシーも来れば良かったのに。何でか知らないけど、急に来なくなっちゃったのよねぇ。こんなに面白い展開になるって知っていたら、ジェシーも大喜びしたはずなのに。残念ねぇ」
怒りのせいか、それともショックのせいか、指先から手がぶるぶると震えた。
ローザだけじゃなくて、ジェシーも、陰では笑っていたの? あんなに励ましてくれたのは、嘘だったの? 本当はそんな風に思っていたの?
彼らの笑い声を遮ったのは、妹のハンナの声だった。
「二人共どういうつもりなの!? 姉を侮辱しないで! それに、聖騎士様への侮辱にも値する発言よ!」
妹の怒りに満ちた声が聞こえてくるが、アリシアはそれを喜んで受け入れられなかった。庇ってもらうことも惨めだった。言い返すべきの自分はショックで声も出ないのに、ハンナは彼らに立ち向かってくれている。姉として残されていた僅かな意地さえも崩壊していくのが分かった。
追い討ちをかけるように、友人だと思っていた人たちの心ない言葉が胸に突き刺さる。
騎士に会う前に、どこかへ消えてしまいたい。どこでもいい、遠くへ――。
「そんなに怒るなよ、ハンナ。これでお前も姉ちゃんが結婚するから、意気揚々と結婚できるじゃねぇか」
「何言って…」
「アリシアが結婚できねぇのに、妹のお前が先に結婚するわけにもいかねぇもんなぁ! 体裁が悪いってもんだ」
「そんなんじゃないわ! 言っていいことと悪いことの区別もつかないの!?」
「怒るなって、冗談に決まってんだろ。……お! そこのじいさん、酒の追加を頼むぜ!」
「私にも一杯ちょうだいな。ふふふ、ここまで酔ったら結婚前に祝杯をあげるのも悪くないわね」
「これで断られたら最高の笑い話だろうけどな!」
「しばらくは社交界での話題に困らないわねぇ」
彼らは笑いながら、また新たな賭けの話をし始める。それに乗った貴族たちのゲラゲラと笑う声が煩わしい。アリシアが咄嗟に耳を塞ごうとした時、酒の追加を頼まれたビリーが突然声を張り上げた。
少しでもアリシアの助けになれば良いと、ビリーは朝から晩まで必死に広間の中を駆け回っていた。何本もの酒瓶を持って中と外を何度も往復するのはつらいが、可愛いアリシアお嬢様のためと思えば、疲労感など吹き飛んでいくようだった。
酒を注いで回っている最中に、アリシアをこき下ろす発言が耳に入り、足を止める。
暴言を吐いた人間たちは、なんとアリシアが懇意にしている友人だった。
(仮にも友人がお嬢様を傷つけるとは…!)
ビリーはつかみかかりたくなったが、必死に怒りを押し殺す。ここで騒ぎを起こしたら、大事なお嬢様に迷惑をかけてしまう。それだけは避けなくてはいけない。
――お嬢様を傷つけるような輩は、このビリーが叩きのめして差し上げます。
そう言ったのは自分なのに。自分を無力に感じながら、酒瓶をぐっと握り締めた。
自分の感情を殺そうとするビリーに、無神経にも怒らせる張本人たちが酒の追加を注文した。ひきつり笑いを浮かべながら、ゆっくりと彼らに近づき、グラスに酒を注いでいく。
先ほどまでいたハンナは違う席に呼ばれていなくなっていた。自分の代わりにもっと言い返してくれれば良いのに、と恨みがましく思うのはお門違いだろうか。
「ねぇ、結果の見えた賭けじゃ面白くないでしょう? 婚約が決まった後、アリシアがどんな顔で出てくるか、で賭け直さない?」
「おいおい、そこまでして負けたくねぇのか? ……でも、ま、これで賭けは終わりになっちまうし…いいか。賭け直すとするか?」
「嬉しそうに出てくるか、それとも落胆して出てくるか。で、どう?」
「ふぅん…じゃ、俺は気まずそうってことで後者だな」
「あら、私も同じよ。自分を恥じて出てくると思うのよねぇ」
新たに始まった賭けに対して、近くのテーブルにいた貴族からも声が上がる。ローザたちのテーブルの上には、次々に銀貨が置かれていくが、全員が後者に賭けていた。
「やだ、賭けにならないじゃないの」
「もしかしたら、これで結婚できるって喜んでいるかもしれねぇんだぞ?」
「だったら、お前がそっちに賭けたらどうだい?」
「バーカ! 嫌に決まってんだろ!」
もう我慢ならなかった。
ビリーは仕事を放り出して自室に行き、重い袋を持ってこの場に戻った。そして、袋を逆さまにして、テーブルの上にありったけの硬貨をぶちまける。主に銅貨と銀貨だが、何枚か金貨が混在していた。
ローザと、向かいに座る男、賭けに乗った貴族たちがぎょっとするのが分かる。なんだこのじいさん、という顔で自分を見上げてきた連中に、ビリーは腹の底から叫んだ。
「私はお嬢様が幸せになる、に…この全財産を賭けますぞ!」
「じゃあ、アリシアが喜んで出てくるってこと? やめておきなさいよ。このお金、あなたみたいな使用人じゃこの先稼げないわよ?」
「この縁談の結果で大事なのは、お嬢様が幸せになれるかどうかだけ。まとまろうとも、まとまらなくても、お嬢様が幸せになるなら良いのです。私はお嬢様の名誉と幸せのために、お嬢様が幸せになる方に賭けます!」
ビリーが肩を怒らせながら言い放つと、酔いの回った貴族の男が意地の悪い笑みを浮かべて近づいてきた。
「ここまで言うんだ。いいだろう、俺が証人になってやる。あんたの全財産、数えてやるよ」
明らかにビリーが負け、その金を自分たちの懐に収めるつもりがありありと窺えた。貴族の男が顎でしゃくると、男の従者たちが硬貨を一枚一枚数えていく。数え終わると同時に、従者の一人が枚数を告げた。
「金貨三枚、銀貨二百五十枚、銅貨八十枚。以上です」
「へぇ! 使用人のくせに、溜め込んでいるじゃねぇか!」
彼らが感嘆の声を上げる。無理もない話だ。
この国では、銅貨、銀貨、金貨の順で硬貨の価値が上がっていく。銅貨は庶民が購入するような基本的な日用品や食料品に使い、銀貨では貴族御用達の贅沢品や値の張る食料品などが買える。金貨はさらなる贅沢品や家、土地などに使われ、上位の貴族以外にはほとんど縁がない。
野菜や牛乳などは銅貨十枚程度。ドレスやアクセサリーなどは銀貨八百枚から。金貨百枚で小さな邸、といったところだ。
生活必需品は低価格で変えるが、娯楽品や贅沢品などは高価格の傾向がある。取れるところからしっかり取る、という姿勢がこの国にはある。
ちなみにビリーのような使用人の月の賃金は、銀貨十数枚あれば良い方で、何かと出費がかさめば、手元に残るのは銅貨数十枚ということも多い。貴族の家で雇われている者の場合、低賃金で働いている者も多く、賃金は雇い主の采配次第のため、水準を上げるのも難しいのが現状だ。辞めようにも他の働き口がなかなか見つからないのも、頭を悩ませる問題だった。
しかし、ビリーは賃金に不満はほとんど抱いていなかった。以前働いていたところは、賃金は良くとも、働く環境が好ましくなかった。今は賃金は低くとも、充実して楽しい日々を過ごせている。
「その心意気に免じて無礼は許してやる。じいさんが無一文になったら、俺の邸で雇ってやろう」
無一文にもならんし、お前の邸にも行かん!
そう叫んでやろうとしたところで、不意に視線を感じてビリーは振り返り、顔を青褪めさせる。アリシアが柱の陰に隠れて、こちらをじっと見ていたのだ。その表情を見た瞬間、すべての会話を聞かれていたことをビリーは悟った。
アリシアが奥へと去っていくのを慌てて追いかけると、彼女は背を向けたまま佇んでいた。上を見上げているのは、零れそうになる涙を堪えているのだろうか。
「お、お嬢様…」
「ビリー。あなたが一生懸命稼いだお金を、あんなくだらないことに使っちゃいけないわ」
「勝手をしてすみません。ですが、私にとっては…あんなこと、で済ませられるような話じゃありません。お嬢様を愚弄されて、何もせずには!」
「あとであの人たちからお金は返してもらうわ。でも……ありがとう、ビリー」
「お嬢様、お礼なんておっしゃらないでください。私は何もできずに…」
「私のために怒ってくれて…私の幸せを願ってくれて。大切なお金を使ってくれて…ありがとう。だけど、もうしちゃだめよ」
顔は見えないけれど、ビリーにはアリシアが泣き笑いを浮かべているのが分かった。胸が押し潰されるように痛み出す。
「ねぇ、聖騎士様がお父様より年上ってことは……ビリーに似ているかなぁ」
彼女はぽつりと呟いた。悲しいほどに声が震えている。
「だったら、私、何も不安なんてないわ」
気丈に言いのけるアリシアだったが、一度も振り返ることなく、階段を上がっていってしまった。
(悔しくてならん…!)
ビリーは家の裏口で、空になった瓶が大量に入っている木箱を乱暴に片付けていた。先ほどのアリシアの後ろ姿が忘れられず、唇を強く噛み締める。
大事なアリシアお嬢様を賭けの対象にしてしまったことを後悔した。
(あの貴族たちを黙らせたかった…)
お嬢様の幸せを願っている者はここにいる! と言ってやりたかった。
面白おかしく騒ぎ立てる貴族たちは許せないが、結局は賭けに乗ってしまった自分がもっと許せなかった。これでは大嫌いな貴族たちと同じだ。どんな理由があろうとも、自分の大事なお嬢様を賭けの対象にしてしまったのだ。このことがどれほど彼女を傷付けてしまったことだろうか。
木箱を地面に置いた時、背後から声が掛かった。
「――仕事中にすまない。バックス家を訪ねたいんだが…場所を教えてもらえないか?」
また貴族の物見遊山の連中か。あの無礼者たちの仲間だったら許さんぞ。
ビリーは苛立ちをあらわに振り返り、睨みつけた。しかし、すぐにぽかんと大きな口を開ける。
そこに立っていた男の奇妙な姿に呆気に取られたのだ。白い大きな布で、頭からつま先まで全身を覆った長身の男だった。顔も隠されているため、はっきりとした年は言えないが、声で自分よりも若い男であることは分かった。
異国の者か。それとも、貴族の理解できない趣味か。ビリーは無言で男を見定めるように見ていたが、男が自分の答えをじっと待っていることに気付き、内心怯んだ。布で隠されていても、男が射抜くような視線を向けているのが分かったのだ。
少なくとも、あの貴族たちの仲間ではなさそうだ、とビリーは思った。彼らの仲間が、仕事中にすまないなんて、声を掛けるわけがないからだ。
「ここはバックス家の裏口ですよ」
「そうか…教えてもらって助かった。それでは失礼する」
男が踵を返した途端、白い布の合間から男の着ている服が僅かに覗いた。その服に描かれていたのは――。
ビリーはその男を呆然と見送り、安心したように肩の力を抜いた。
そして、落ち込んでいるであろうアリシアの自室を見上げる。
「お嬢様…賭けは私たちの勝ちのようですよ」