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翌朝、アリシアがいつものように朝食の席に着いた時、斜め向かいの父親がちらりと視線を寄越したことに気付いた。
何か言いたそうな顔だが、アリシアは素知らぬふりをしてグラスの水に口を付ける。本当に誰かの結婚話に触発されたのかしら、と内心冷や汗をかいた。
(振られてからまだ二日よ……違うわよね?)
不安を振り払うようにフォークを手に取る。だが、父が言葉でそれを止めた。
「食事は少し待ってくれ。アリシア、お前に大事な話がある」
「何でしょう? 早めに済ませてくださいな。美味しい料理が冷めてしまいますわ」
「お前に良い縁談がある」
「しばらく縁談はいらないと申し上げたはずです。お父様もご納得いただけたと思っておりましたけど?」
「それがだな、これ以上ないほどの素敵な話なんだよ! 次期聖騎士様との縁談なんだ!」
「次期聖騎士様…? なぜ、そのような高貴なお方と私が縁談になるのです?」
聖騎士は、国王を始めとする王族を守る役割を与えられている。騎士をまとめる騎士団長よりも地位が高く、その発言力も大きい。時には王の代わりに、国の代表として他国に出向くこともある。そのため、王族と同等の地位として扱われているのだ。
残念ながらバックス家のような、王のそばで仕事をしていない貴族には見ることすら叶わない存在だ。新聞や噂で話を聞く程度で、詳しい人柄は知りうることが出来ない。現在の聖騎士が誰なのかさえ、アリシアは知らなかった。もしかしたら、重臣の娘のジェシーなら顔見知りかもしれない。
そんな遠い存在の聖騎士が、バックス家の嫁ぎ遅れ気味の娘とわざわざ縁談?
ジェシーのような家ならまだ可能性はあるが…ありえない。
完全に冗談だと分かる話を真に受けている父に、アリシアは呆れてしまった。
「実は詳しい話は聞けなかったんだが…どうも奥方となる女性を探しているというのだ。聖騎士となるには妻が必須らしいのだが、次期聖騎士様にはまだいらっしゃらない」
どう考えても不明瞭な情報に、どこから突っ込めば良いか分からず、アリシアはこめかみを押さえた。
「お父様……どなたからそのようなお話をいただいたのですか?」
「いや、城内にその話が広まっておったんでな。年頃の娘もおるし、話だけでもと思い…」
「裏がありそうなお話ですわ。今の聖騎士様がどのようなお方なのかも分かりませんし」
「そんなことはないだろう。相手は聖騎士様だぞ?」
言い切る父にむっとして、アリシアは強めの口調で言った。
「じゃあ、お父様は実際に次期聖騎士様とお会いしたのですか? お父様以外に、そのようなお話に乗られた方はいらっしゃいますか?」
父は言葉に詰まり、それは…と口をもごもごさせた。
ほらやっぱりね。アリシアはこれ見よがしに溜め息をつく。
それにしても、舌の根も乾かぬ内に縁談を持ち込むなんて。絶対に成功するなら良いけれど、そうじゃないならやめてほしい。次期聖騎士様が私なんかと結婚するわけがない!
(ハンナなら…年齢的にも、容姿にも、問題はないのに…)
縁談の相手がハンナなら、バックス家の地位のことに目を瞑っても、納得は出来る。
一体、父は何を考えて、その縁談の話に飛びついたのか。アリシアは腹立たしくなって、フォークを持ち直して、食事を始めた。
少し冷めてしまっただけなのに、いつも美味しいはずのパンケーキが味気なく感じる。
「だ、だがな! 騎士団長とお会いすることが出来たんだぞ。次期聖騎士様はいらっしゃらなかったが、騎士団長は彼の直属の上司だ。信頼できるだろう?」
「……どうでしょうね。でも、聖騎士様は私のような妻を望んでいるとは思えませんわ。私の年齢の貴族女性で結婚していないのは、スキャンダルを起こすような女性ばかりですもの。どんな女が飛びついてきたのかと思われるに違いません。今に断りの手紙が届くでしょうね」
「アリシア! どうしてお前はそのようなことを! 悲観的になっても――」
ナプキンで口を雑に拭い、アリシアは席を立つ。父を冷めた目で見下ろすと、父はうっと怯んだ。
「何度も何度も、縁談のたびに断られればそうなってしまいますわ。バックス家の上の娘は、婚期を逃したと笑い者になっていることをお父様はご存知ないのですか?」
「そ…それは……」
「聖騎士様がどのようなお方かは存じませんが、きっと聖騎士様も同じです。お立場のある方なら尚更、私などと結婚などしませんわ。期待はしておりません」
嫌味でもなければ、嘘でもない、アリシアの本心だった。期待するだけ無駄だ。どうせみんな同じなのだから。
「顔合わせは明後日の夜、我が家で行われる! ちゃんと家にいるんだぞ!」
席から離れようとするアリシアに、父が焦ったように大きな声で言った。
明後日? そんなに日がないの?
準備に追われて、今日も明日も外出は無理だろう。ジェシーに聖騎士について話を聞くことも出来ない。ああ、でもその前に断る手紙が届くかもしれない。
アリシアはキッチンに入り、料理人のビリーに声を掛けて、あとでまた食べることを伝えた。しかし、ビリーは顔を顰める。
「お嬢様に冷めた料理を召し上がっていただくわけには…」
「冷めてしまっても、それは私がいけないの。絶対に食べるから、あのまま残しておいてね。約束よ」
「お嬢様…」
「お父様が仕事に行ったら、また戻ってくるから。ね、お願い」
「……温められるものは、温めて出させていただきますよ? よろしいですか?」
「ありがとう」
ビリーは困ったように笑うと、アリシアの頭を優しく撫でた。
彼はアリシアが生まれる前から、バックス家で料理を作ってくれている初老の男性だ。家族に叱られた時にキッチンに逃げ込んでは、夕食の味見という名のつまみ食いをさせてもらったものだ。
「盗み聞きするつもりはありませんでしたが、聞こえてしまったもので…。聖騎士様がどのようなお方かは分かりませんが、きっとお嬢様を冷たくあしらうような方ではないでしょう」
泣き出しそうな子供をあやすような口ぶりに、思わず感情が溢れそうになる。アリシアは顔を歪ませて、撫でてくれる手の感触をじっと受け入れていた。
「そうかなぁ…」
「大丈夫ですよ。お嬢様を傷つけるような輩は、このビリーが叩きのめして差し上げます。旦那様もお嬢様を心配するあまり、話を急いで進めてしまったのでしょう。あまりお怒りになってはいけませんよ?」
「うん…分かってる」
仲のいい友人と、ビリーの前でだけは、アリシアは飾らない言葉遣いで話している。しかし、他の人は無理だ。たとえ両親や妹であっても、心を開くのは難しい。
「でも、お嬢様のことをもう少し考えていただきたかったですね。お嬢様の将来に関わる大事なお話なのですからね」
「そうだよね! ……ねぇ、ビリー」
「何でしょう?」
アリシアはビリーが大好きだ。
優しくて、怒らなくて。いつもアリシアのことを大切にしてくれる。
でも、彼が一番好きな理由は――。
「私とハンナ、どっちが好き?」
「お二人とも大好きですよ。でも、アリシアお嬢様の方の大好きには、とってもがつきますよ。お嬢様とお呼びする時には、口にはしませんが、可愛くてとっても大好きなアリシアお嬢様となっているんです」
「私もビリーが大好きよ!」
彼の首に腕を回して、ぎゅっと抱きついた。
アリシアは昔からこの質問を繰り返す。そのたびにビリーは笑って、こうやって答えてくれるのだ。
ハンナのことは好きだけど、アリシアはいつもハンナの影になってしまう。だから、誰かにとってはアリシアが一番でありたかった。
幼い頃から何かと褒め称えられてきたハンナ。そんな娘を持つ両親としても、鼻が高くなるのは自然なことだったし、ハンナを可愛く思うのも至極当然だ。
差を感じたことはほとんどないが、何となくハンナ贔屓と気付くこともあった。連れて行ってもらえる場所と回数、ハンナだけに新調されるドレスにアクセサリー。
しかし、それに不満はない。
何の自慢にもならない姉と、見目麗しく誰からも賞賛される妹。どちらを優遇するかなんて決まりきっている。扱いに違いがあっても、アリシアは素直に受け止めてきた。
その代わり、アリシアは表面上では三人と仲良くしつつも、実際には心を開かない。私といるより、ハンナといた方が良いでしょ?
でも、やっぱり誰かに言ってほしい。アリシアの方が好きだよ、と。
「ありがとう…ビリー。とっても嬉しい」
「私の方こそ、大好きなお嬢様にそうおっしゃっていただけて幸せです。困ったら何でも力になりますよ。当日は料理に腕を振るってお嬢様を応援しましょう!」
ビリーはアリシアを元気付けてくれる大切な家族だ。
両親はアリシアが使用人と親しくすることを表立って止めはしないが、良い顔はしない。今のように抱きついたのを見られたら、きっと怒られるだろう。幼い頃は怒られる理由が分からなくて、首を傾げるばかりだった。
貴族の体裁というものらしく、一応分かった振りだけはしている。
(ビリーはこんなに優しくしてくれるのに…何が体裁よ)
アリシアはにっこり笑った。不安は大きいけれど、素晴らしい味方がいる。
「ビリーが応援してくれるんだもの……頑張るね」