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 泣いた日の翌朝は、早く起きて洗顔することから始まる。

 少し腫れぼったくなった瞼を水で冷やし、顔全体を手際よくマッサージすれば、泣いたとはそう簡単に分からなくなる。アリシアは鏡に映る自分に向かって、自嘲気味に笑ってみせた。

 手早く着替えを終えたら、キッチンのカウンターに朝食は不要という旨を記した手紙を置く。家族を避けるように、玄関を出ようとしたアリシアだったが、階段から降りてきた妹にばったり出くわしてしまった。

(ハンナ…)

 振られたアリシアの行動パターンを家族の誰もが知っているからこそ、あえて出てこようとしない。だが、妹だけは違う。必ずタイミングを見計らって会いに来るのだ。そう、ハンナは今日もいつもと同じ気まずい顔をして、謝ろうとする。

「お姉様……あの、昨日のこと……」

「おはよう、ハンナ。早いのね」

 にっこりと笑みを浮かべながら挨拶をすると、ハンナは弾かれたように挨拶を返してきた。挨拶を忘れた自分を恥じるかのように、焦っている。その姿も庇護欲をかきたてられるのだろうな…とアリシアはぼんやり思う。

「あの…その…私のせいでごめんなさい」

「ハンナ。何を言っているの? あなたのせいじゃないわ」

「でも…」

「何度も言っているでしょう? こうなったのは私の至らなさが原因なの」

 自分で言っておきながら、自分の言葉に傷つくなんて、どうしようもない。

「…お姉様の婚約者だった方のことなのですが…私に結婚の申込みを」

「…そう。経緯はどうあれ、私のことは気にしなくて良いのよ。あなたの思うようにすると良いわ」

 昨日の惨めな気持ちを隠しながら、事務的な口調で淡々と告げる。ハンナがこの先言おうとしていることなんて、今までの経験上、分かりきっているのだから。

「お断りしました。あの方とはお付き合いできません」

 ほら、やっぱり。

 自分が喉から手が出るほどほしくて仕方のない求婚を、妹は素気無く断ってしまう。

 羨ましさ、憧れ、妬み、落胆…いろんな感情が混じり合って、アリシアは心の中で溜め息をついた。

「あなたが決めたことに口出しするつもりはないけれど…もう少し考えても良いんじゃない?」

「いいえ! お姉様に対してあんな不誠実なのに!」

 悔しさを滲ませるハンナを見ていると、彼女に申し訳なく感じてくる。妬む気持ちが少なからず伝わっているはずなのに、こうやって自分のことのようにハンナは悔しがってくれる。アリシアは自分を恥ずかしく思い、気持ちを切り替えてハンナに笑いかけた。

「私のことは本当に気にしなくて良いの。でも、ハンナならもっと素敵な男性がいるわね」

「そんな! お姉様こそ」

「ありがとう。それじゃ、私はもう出るから。あなたも遅刻しないように気を付けて」



 職場に行く前に、カフェへと寄る。

 これから仲の良い友人たちと会う約束なのだ。嬉しい報告が出来なくなってしまったが、彼らと会うのは何日も前から楽しみにしていた。

 このカフェには、貴族の令嬢たちが多く集まるのだが、今は店内にアリシア一人だけだ。友人たちは少し遅れてくるのだろう。

 日の光が柔らかく入る窓際で、新聞を読んでいた時、来客を知らせるベルが鳴った。顔を上げると、友人のジェシーとローザの二人が手を上げ、アリシアはパッと笑顔を見せる。

 彼女たちはアリシアの向かいの席に腰掛けると、メニューを広げた。

 メニューを選んでいる二人を見ていると、自分との違いを思い知って、少しだけ気持ちが暗くなった。

 二人はアリシアと同い年だが、すでに結婚している。

 真向かいに座るジェシーは金髪で細身のスタイルだが、仕草が大人の女性らしくて見惚れてしまうことがある。彼女が口角を上げて笑うだけで、落ち着かない気持ちになる。

 ジェシーの隣に腰掛けるローザは、アリシアと同じ黒髪なので、ちょっと親近感がある。しかし、体つきは正反対で、彼女が通りを歩くだけで男性が色めきだって振り返るほどだ。

 彼女たちは注文を終えると、アリシアの顔をじっと見つめてきた。

「アリシア、どうしたの? 浮かない顔して…昨日は彼と会えたんでしょう?」

「ジェシー……実はまた、ダメだったのよ」

「ええっ! どうして!?」

 ジェシーは身を乗り出して、信じられないと言わんばかりに目を剥いた。ローザも肩から外そうとしていたストールを握ったまま、呆然としている。

 二人の反応に少しだけ慰められるが、やはり昨日の事実はつらくて、アリシアは肩を落とす。

「まさか…また、ハンナが原因じゃないでしょうね?」

「ちょっとローザ! 原因って…もうちょっと言い方があるでしょ!?」

「良いの、ジェシー。ローザの言うとおりなの。僕…ハンナを好きになってしまったんだ…ですって。頬を紅潮させながら言っていたわよ。ああ、腹が立つ!」

 笑わせるように男の真似をして言うと、ローザは苦笑いした。しかし、ジェシーは笑いもせず、不快感を露にした。

「信じられないわ。面と向かって言える言葉じゃないわよ…。なんて男なの! その男の名前を教えてちょうだい! 父に言いつけてやるわ」

「そうね、ジェシーのお父様に言ってもらえば、その男も反省するでしょうし。名案だと思うわよ?」

「ありがとう。でもね、ジェシーにも、ジェシーのお父様にも悪いから出来ないわ」

「そんなことないわよ! アリシアのためなら構わないし、私が許せないの! それに、お父様は他の貴族の粗を探して、突付くのが大好きなのよ? 嬉々としてなさるに違いないわ。なんだか今、仕事でストレスが溜まっているらしいし。喜んでその男の親をチクチクと苛めるでしょうね」

「…本当にありがとう。そう言ってもらえるなんて、私は幸せ者ね…」

 ジェシーの家は貴族としても地位が高く、彼女の父は王の重臣である。

 彼女の父の口から言ってもらえたら、それは愉快なことになるだろう。

 でも、アリシアには頼むことは出来なかったし、そんなことを頼む自分が許せないと思った。あの男に振られたのはアリシアであって、友人に嫌な役を押し付けるのは間違っている。仕返しをするなら、自分でやらなくては。

 悲しげに微笑むアリシアに、ローザが腕を組んでため息をついた。

「アリシアもたまにはガツンと言っておやりなさいよ。相手を痛い目に遭わせた方がスッキリするわよ」

「…そうかな?」

「私はそうね。ジェシーは?」

「どうかなぁ。私はお父様のおかげで嫌な目に遭わずに済んでいるから…でも、気をつけなくちゃね。それよりも! アリシア、昨日の男はね、絶対にダメな男よ! 結婚したって絶対に浮気するわ」

「そうでしょうけど…やっぱりショックなのよ。そんなダメ男にも振られちゃうんだもの」

「私はあなたがそんな男と結婚しないで済んで安心したわよ。元気出しなさい! 必ずアリシアには素敵な男性が現れるわ! ね、ローザ?」

「ジェシーの言うとおりよ。いつかアリシアに似合う男性と出会えるわ」

「会えると思う?」

「会えるわよ! 頑張って良かったって思えるくらい、素敵な男性があなたの元を訪れるわ」

「うん、そうだね…ありがとう! 二人の旦那様のような、素敵な人と巡り会いたいな…」

 二人の夫は、羨ましいほど素敵な人だ。夫同士は重臣補佐として同じ職場で働いているが、ライバル心というものはないらしい。それは妻同士の仲が良いのも理由だろう。独身のアリシアに対しても、二人の夫たちは妻の友人として優しく接してくれる。

 何度か会ったことがあるのだが、エスコートがさりげなく出来て、気遣いも良かった。あまり触れられたくない結婚の話題も自然に避けてくれる。会話の選び方も洗練されていて、話すのが楽しかったのを覚えている。

「私たちは決められた結婚相手だったから、アリシアのように自分で動いていないの。頑張っているあなたを見ると、本当に凄いって思うわ。私には勇気がないし、出来ないわ。だからこそ、うまくいってほしいって思っているのよ。ジェシーも私も応援しているからね」

「ローザ…」

「何でも言ってちょうだいね。友達じゃない」

「ジェシー…」

 二人の気持ちが嬉しくて、アリシアは人前にも関わらず泣き出してしまった。

 応援してくれる人がいる。私はもっと頑張れる。

 ボロボロと涙を零すアリシアを、ジェシーは服が濡れるのも構わずぎゅっと抱き締めてきた。彼女は人を励ます時に抱き締める癖がある。照れくさかったけど、まるで姉のような彼女に励まされ、少しずつ元気が出てきた。

「ふふ、ありがとう。もう大丈夫よ」

「そう? いつでもハグするわよ?」

「――紅茶をお持ちいたしました」

 注文した紅茶が運ばれてきて、そこでようやく注文の品がきていないことに気付いた。

 カフェの店主も出しにくかったに違いないと、三人はくすくす笑う。良い香りのする紅茶を口にしながら、ジェシーは楽しそうに質問をしてくる。

「アリシアの好みの男性ってどんな人?」

「うーん…前はいろんなことを望んでいたけど、今はあんまり思わなくなったなぁ。でも、暴力を振るわない、暴言を吐かない。あと優しいっていうのは絶対!」

「そんなの当たり前よ! もっと高望みしたっていいじゃない!」

「高望みなんて…出来ないわ。婚期がさらに遠のいちゃうもの」

「あなたは年齢を気にしているけど、結婚していない女性だって多いわ。ほら、私たちと同年代のエレン様やナタリー様も、お相手がいらっしゃらないでしょ?」

「ジェシー…励ましてくれるのは嬉しいけど、あのお二人は一度ご結婚なさっているわ。エレン様は数年前に亡くされた旦那様を思い続けていらっしゃるし、ナタリー様は……その、ちょっとご自身の火遊びが原因で…」

「そうだったわね…。他には、ええっと…」

「無理しないで。ジェシーの気持ちは伝わっているから」

「とにかく! 私が言いたいのは引け目に感じちゃダメってこと! さ、それでどんな人なのよ!」

 焦りながら話題を変えるジェシーに、アリシアは気を遣わせてごめんね、と内心苦笑した。折角言ってくれたのに申し訳ないけど、ジェシーの言うように引け目に感じないのは難しい。だが、自分を思う気持ちが嬉しくて、アリシアは話題転換に笑顔で乗る。

「……最後はやっぱり、私のことを心から好きでいてくれる人…が良いな」

「それは大事な点ね。ねね、外見は!?」

「理想は背が高くて、ハンサムで。笑顔が素敵で…理想は理想だし、こんなの聞いたって面白くないでしょ?」

「良いから良いから。こういうことは思わないとダメなのよ! それに、楽しいわよね、ローザ?」

「ええ、とっても。それで、他はどんな感じなの?」

 暗い気持ちを吹き飛ばすように、楽しい時間を過ごした。

 彼女たちのおかげで、仕事も暗い気持ちを引きずらずに終えられた。

 アリシアが帰宅すると、父の馬車がまだ帰ってきていないことに気付く。仕事が長引いているのかな、と思ったところで、そういえば今日は城に行っていることを思い出す。

 アリシアの父は、普段小さな役場で働いている。たまに仕事で城に行くと、そこに出入りする貴族たちと話が盛り上がって、毎回帰宅が遅くなる。

 周囲の結婚話に触発されて、また結婚話を持ち上げるのではないかと直感し、少しだけ不安になった。

「まぁ、昨日の今日だし。さすがにお父様も何もおっしゃらないわね」

 なかなか癒えそうにもない傷を抉るような真似はしないだろう。アリシアはそう思って自室に戻った。

 その時は、まさか自分の直感が的中するとは思いもせずに。


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