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「これより周囲を警戒してまいります。安全が確認されましたら声をお掛けしますので、それまでお待ちください。安全性を高めるためにも、出来れば窓はカーテンで塞いでおいていただけると助かります」
アリシアが頷くと、ウィリアムは意気揚々と馬車から出て行った。羽が生えているかのような軽やかな足取りに、馬車で言い返せなかったことが余程悔しかったとうかがえて、アリシアはくすりと笑ってしまった。
張り詰めていた気持ちが和らぎ、何とか笑えるようになってきた。
城に入ればまた緊張感は戻ってくるだろうが、会いたかったルイスも同じ場所にいるのだ。浮かれてはいけないが、怯えてばかりいられない。聖騎士の妻は堂々としているはずだ。
窓を塞ごうとカーテンに手を伸ばした時、横を一台の馬車が通り過ぎて行った。
カールソン家の馬車――ジェシーの家だ。
冷水を浴びせられたように途端に心が冷えていく。さっとカーテンを閉め、アリシアは目を閉じた。
(式典にジェシーが出席するとは限らないわ…ローザだって、そうよ)
でも、もしも、彼女が式典にいたら? 咄嗟に逃げ出してしまうかもしれない。
だけど、そんなことは出来ない。
ルイスの大事な就任式を台無しにするわけにはいかないのだから。
彼のため、そう思った途端、弱気になっていた自分に少しずつ勇気が湧いてくるのが分かる。
「私、ルイスに言ったじゃない。…私と結婚して良かったって思ってもらえるように頑張るって」
それなのに、今の自分はどうだろう? さっきから落ち込んで、ちょっと浮かれて、また落ち込んで。
緊張からの情緒不安定。それで見逃してもらえるわけがない。情けなくて恥ずかしい。
彼に約束した時の気持ちをしっかり胸に刻み直した時、外から扉を叩かれた。
「はい」
「アリシア? 声に元気がないが…気分が悪いのか?」
「ルイス!」
馬車から降りようとするが、まだウィリアムが戻ってきていない。あの男の馬鹿にした笑みが頭を過ぎり、アリシアはルイスに会いたい気持ちを抑えつけた。勝手な行動は控えて、待つしかない。
「ごめんなさい。ウィリアム様が今、周囲を警戒してくださっているの。お戻りになるまで待っているしかなくて…どうか気を悪くしないで」
「いや、謝らせてすまない。声を掛けたのは、無事を確認するだけだったんだ。それに……あなたの判断は賢明だ」
ルイスの声が心なしか嬉しそうに聞こえる。
どうして嬉しそうなのか分からず、アリシアは首を傾げた。すると、扉越しでも彼が苦笑するのが伝わってきた。
「護衛する立場から言わせてもらうと、護衛対象に不用意に動かれるのが一番困るんだ。身の安全のためだと相手に伝えても無視される」
「…なるほど」
「勝手にどこかに行かれてトラブルになって、結局迷惑を被るのは護衛だ。全員があなたのように理解があればありがたいんだが、そうもいかない連中ばかりで」
いえ、あの男に文句を言わせないためだったんです。
うんざりといった様子で話すルイスに、そうとは言えなくて、アリシアは曖昧に相槌を打った。心の中で、飛び出さなくて良かった…と思いながら。
「矛盾するようなことを言うようだが、こんなに近くにいるのに直接話も出来ないのは残念だな」
「嬉しい…私も同じ気持ち。あーあ、早く馬車から降りたいな…。カーテンだって開けたいし、ちょっとだけ開けちゃダメかな」
「もう少しで奴も戻るさ。あいつの到着が待ち遠しいのは初めてだな」
「あ、ねえ。ルイスとウィリアム様って友だ――」
「絶対にない。この先もありえない。やめてくれ。奴と友人だなんて到底無理な話だ」
「そ、そうなの…それなら、良かったんだけど…」
ここまで強い口調で否定するなら真実なのだろう。
もしもルイスとウィリアムが友人だったなら、先ほどの一件で仲違いさせてしまうかもしれないと、少しだけ不安だったのだが、杞憂だったらしい。
「何故、俺と奴が友人だと思ったんだ?」
「ううん、そういうわけじゃないわ。ただ、もしそうだったら良くない態度をとっちゃったから…ルイスに悪いかなって思って」
「……あいつが何をした?」
途端に声が厳しくなり、アリシアは慌てた。
「たいしたことじゃないの! 私も緊張しすぎていたから! 大人気なくちょっと言い返しちゃったってだけ! 本当よ!」
「ウィリアムがろくでもないことを言ったな…護衛にしなければ良かった。完全な俺の人選ミスだ。すまない」
「そんなことないわ。護衛として、一番適している人を選んでくれたんでしょう?」
「ああ…性格、人間性、価値観など難だらけの奴だが、身分と騎士としての実力の二つだけは申し分がない」
ちょっと言われすぎのような気もしたが、あの人はそれくらいでいいかもしれない。
「苦手な人だけど、護衛と思えば気にならないわ。あの人は式典中も護衛としてそばにいるんでしょ?」
「残念だがそうなる。式典中は無駄口を叩けないよう、釘を刺しておく。……本当にすまなかった」
「ルイスのせいじゃないわ。責任を感じないで」
明るく言っても、ルイスの返事は浮かないものだった。
主役を元気付けたいとアリシアが考え始めた時、駆け足と、その直後に何かが重く響くような鈍い音、そして潰れるような声が聞こえた。それから数秒の沈黙の後、ルイスが声を掛けてきた。
「アリシア。式典が明日に延期となった」
「えっ! 延期?」
「詳しい話はウィリアムから」
「……国賓級の方が体調を崩され、明日にしてほしいと要求してきたそうです。王もこちらの聖騎士も承諾しましたが、あなたのご意見を伺いたいと」
「構いませんわ。その方が早く回復されるよう、祈念いたします」
本心はこの緊張感が明日まで続くの…と、落ち込みたいくらいだが、体調不良なら仕方ない。
しかし、国賓級ということは、あくまで国賓ではないということだろうか。
大事な人物ということに違いはないだろうが、少し引っかかった。
「それで…奥方様には城でご滞在いただくか、それとも一度お帰りいただくか、お選びいただきたいのですが、いかがなさいますか?」
「私はどちらでも構いませんが、ルイス様のご意見はどちらですか?」
「俺としてはあなたに城に滞在してほしい」
「では、滞在させていただきます。どうぞよろしくお願いいたしますね、ウィリアム様」
「……かしこまりました。お部屋の準備などはお任せください。それでは失礼を」
話が終わり、ウィリアムが歩き出したのが分かる。今にも転びそうな足音が数歩続いたが、その後は気を取り直したかのように駆け出していった。
「怪我でもなさったのかしら…」
「さあ。奴のことなんて知りたくもないな」
心底嫌そうな口ぶりに、本当に嫌いなのがうかがえる。
思わずくすりと笑みを零すと、馬車の扉が開けられていく。
(今から本番ね…きっと、聖騎士の妻は凛として登場するわよね)
アリシアは表情と気持ちを引き締め、背筋を正す。ビリーと練習してきた時のように、足の先までしっかりと力を入れ、流れるような動きで馬車から降りる。
一月ぶりに見る彼の姿に、初めて会った時と同じように見惚れてしまう。しかし、あの時よりずっと疲れているようにも見えて、心配だ。
それを口に出そうとするが、ルイスが自分を見つめたまま凍りついたかのように動かないので、アリシアは戸惑ってしまった。
「あ、あの? ルイス? どうしたの?」
「すまない、失礼を。いや、何だ、その……何から、言えば…いいのか…」
ルイスはしどろもどろになりながら、口を覆い、視線をさまよわせる。
そんな彼に思わず首を傾げた。何が彼を動揺させているのだろうか。
アリシアは何気なく自身の服へ視線を下げ、ああ、とドレスの裾をつまんで広げて見せた。
「綺麗なドレスでしょう? 衣装係の方が着せてくださったの」
説明は何も受けなかったが、流行に敏感な妹はドレスと装飾品を一目見た瞬間に饒舌になった。
『生地は絹でしょうか? ああ、デザインも繊細で…胸のレースのところなんて見惚れちゃいますわ。ネックレスの真珠も輝きが段違いだし…まあ! 指輪も希少な宝石だなんて! それにこの――』
いろいろな解説をしてくれたのだが、ほとんど覚えていない。最初のところが限界だ。
コルセットの圧迫と緊張で、彼女の言葉は耳を素通りしていったのだ。
ルイスもこの衣装に感激したに違いない。そう思ったのだが、彼は首を横に振った。
「見かけないデザイン、という程度で…ドレスは詳しくないんだ。あなたによく似合っているのは分かるが」
ドレスでなければ、宝石でもなさそうだ。じゃあ何だろう。
アリシアが答えを求めるように彼の顔を見つめるのと同時に、彼も自分の目をじっと見つめてきた。
気恥ずかしさ、どこか熱に浮かされたかのような――まるで恋焦がれた女性を見るような視線が、胸に突き刺さる。
『お嬢様のそのお姿を見たら、聖騎士様も惚れ直してしまうでしょう』
違う! 違うわ、アリシア! 何を期待しているの!?
タイミングよく頭に蘇るビリーの言葉を、アリシアは即座に打ち消した。ビリーが言ってくれたのは、練習を繰り返す自分の姿に対してであって、これとは話が違う。
惚れるも何も、一ヶ月も会っていないんだから進展するわけがないのだから。
胸に手を当て、目を伏せて深呼吸を繰り返す。
さあもう良いだろうと、ちらりとルイスの表情を窺えば、先ほどの何ら変わらない視線を向けていた。むしろ、さらに情熱的に見られている気がしてならないのだが、確認したくても目が合うのが分かっているから直視できない。
自分を捨てて、ハンナに恋をした男がしていた目。いつも嫌というほど見させられてきた。
その目を自分に向けてほしいと願ったのは、一度だけじゃない。
勘違いでなければ、それが最高の相手で叶ったのだが、どうしたらいいのか分からない。
(どうしよう…。ハンナがどうしていたか思い出せない…!)
妹はどんな態度をとっていただろう。笑って受け入れていただろうか? それともつれなく?
いや、自分にはどちらもできない。恥ずかしくて、嬉しくて、笑う余裕すらない。
アリシアが頬を赤く染めながら悩んでいると、ルイスがようやく口を開いた。
「本当に…綺麗だ、アリシア」
彼はとろけるような優しい笑みを浮かべ、自分に手を差し出す。
(これが演技なら……私、一生騙されたままでいい)
幸せを噛み締め、ルイスの手を取って歩き出した。




