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就任式まであと一週間となり、アリシアは式の進行が記された手紙を何度も読み返し、おさらいしていた。家の広間を式場に見立て、来賓席や玉座など各地点からどのように見えるかをビリーに指摘してもらっている。
日に日に緊張感が高まるが、大変なのは当日の主役であるルイスだ。
自分が就任式ですべきことなどほとんどなく、彼のそばで粗相のないように品よく徹するのみだ。ルイスの恥にならないようにするだけでいい。頭ではシンプルに考えようとしても、これは聖騎士の妻としての初仕事であり、緊張と不安でどうにかなってしまいそうだった。
ここでルイスがそばにいてくれれば心強いのだが、ここ数日は手紙も出せないほど忙しい彼に、そんな我が侭は到底言えない。
それに、気弱な情けない姿を見せるより、ちょっとは良いところを彼に見せたいのだ。だからこそ、おさらいにも力が入るわけだが、空回り気味になっていることに自覚はある。
でも、何もしなかったら不安で押し潰されてしまう。
ビリーが廊下から声を掛けてきた。
「お嬢様。そろそろお時間です」
「今日もよろしくね、ビリー。本番まであと少しだし、完璧にしないと!」
「もう完璧ですよ。お嬢様のそのお姿を見たら、聖騎士様も惚れ直してしまうでしょう」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ。でも、惚れ直すことはないからね」
「何故です?」
「ルイスは私と結婚してくれるけど、それは恋愛感情じゃないもの。だから惚れ直すってことはなくて―」
「では、お嬢様を見た途端、恋に落ちてしまうでしょうな。…しかし、あの聖騎士様が好きでもない女性と結婚するとは思えませんが…。私の可愛いお嬢様を傷つけるなら、結婚相手と言えども容赦はしませんよ」
ビリーの大きな手で優しく頭を撫でられると、不安が薄れていくのが分かる。強張っていた表情が和らぎ、自然と口角が上がった。
すると、ビリーが悲しげに眉を寄せる。
「就任式を迎えたら、お嬢様が聖騎士様のお邸へ行ってしまうと思うと、寂しくなりましてな。…もうこうやって、お嬢様とお話しすることもできなくなってしまうんだと」
「そんなことない! この家に戻ってくることは難しいかもしれないけど、外では会えるわ。重い物だって持つし、買出しにいっしょに行きましょう? ルイスも快く応じてくれるわ」
「お気持ちは嬉しいですが、なりません」
「どうして?」
「お嬢様は聖騎士様の奥方様になられるのです。今まで以上に注目されるお立場です。お嬢様の行動が聖騎士様のお立場を揺るがしかねない…それを忘れてはなりません」
「…ビリーと会うことが、悪いっていうの?」
ビリーは薄く笑うだけで、答えなかった。問い詰めようとするアリシアに背を向けて、広間へと消えていく。
残されたアリシアは手をぎゅっと握り締め、唇を震わせた。
「そんなの…おかしいわ」
自分の行動がルイスの足枷になることもある。
それは理解しているつもりだが、ビリーと会うことはそんなに悪いことなのだろうか。
練習は全くといっていいほど身が入らず、早々に練習を切り上げるはめになった。
ビリーが気遣わしげな視線を向けつつも、何も声を掛けてこなかったということは、彼に自分の意見を撤回するつもりはないのだろう。それがアリシアのためだと思っているから。
ぶすっとしながら自室に戻ると、机の上に置かれた手紙が目に飛び込んできた。
「ルイスからだわ!」
彼からの手紙には連絡が滞っている謝罪と、急で申し訳ないのだが――と前置きがあった上での頼みごとが書かれていた。
その頼みごとは願ってもないことで、アリシアは喜び勇んで返事に取り掛かる。
気まずくなってしまったビリーを呼び、二人で先ほどのことを忘れて手紙を完成させた。
ルイスが頑張っているのにこうしていられないと、もう一度練習に取り組むために廊下へ飛び出す。
「ビリー! もう一回、練習に付き合って!」
アリシアが就任式での自主練習に励んでいる頃、ルイスは聖騎士としての仕事に追われていた。
今まで上司だった騎士団長をはじめ、同僚たちが自分の部下となったものの、扱いにくくて仕方がない。
聖騎士の署名を終えた書類を片手間で手渡せば、「さすがは聖騎士様。切り替えがお早いですねぇ」とか、「聖騎士様から直接書類をいただく栄誉を得られるとは感慨深いですね」などと歪んだ笑みで受け取られる。この山積みになった書類が見えないのか! と声を荒げたくなるが、流してしまうのが処世術というものだ。
ただ冷やかすだけなら良いのだが、時には真剣な顔で「期待と重圧に押し潰されるなよ」と忠告めいたことを言われ、厄介だった。
結局のところ、若造の聖騎士をからかっているのだ。嫉妬とやっかみ、若干の恨み節。
いい加減にしてほしい。
(それに加えてあいつは…いつまでこの執務室にいるつもりだ?)
ソファに足を組んで腰掛け、渡したばかりの書類をつまらなそうに見ている男――ウィリアムが視界に入って、邪魔といったらない。ただいるだけなら無視し続ければいいのだが、ちらちらと視線を向けてくるのが煩わしい。
だからと言って、声を掛けてやるのも不愉快で、ルイスは無視を決め込んでいた。
奴に構っていられるほど暇じゃなく、新たな書類を部下が持ってきた。
「聖騎士。人事の件で二点決まらないので、ご指示を願います」
「式典の人員配置なら決めたはずだが…不備があったか?」
「奥方様の護衛に団長を配置しておりましたが、団長は王の護衛に任命されまして」
「そうか…団長になら妻を任せられると思っていたんだが、仕方がないな。他の騎士を任命する」
騎士名簿を捲りながら、ルイスは頭を悩ませた。
実力のある者は王族の護衛に回されてしまい、アリシアの護衛を任せられる人材が少ない。
自分が彼女のそばを片時も離れずにいられれば一番なのだが、それは難しい。
どうすべきか、と溜め息をつきそうになった時、聞こえよがしの咳払いが耳に入る。しかし、あえて無視だ。
すると、部下がおろおろとしながら、片手を上げる。
「聖騎士。提案なのですが…ウィリアムは式典に出席しますが、護衛として配備されておりません。任命してみてはいかがでしょうか?」
「断る」
「何でだよ!?」
即座に切り捨てたルイスに対し、ウィリアムは立ち上がって抗議した。
「お前はナイト家として出席するはずだが?」
「そんなの、当主がいればいいだけだ。……俺が、聖騎士の妻の護衛をしてやってもいい」
「してやってもいい?」
「分かったよ! 頼むよ、俺を護衛に任命してくれ! 絶対に危険な目に遭わせないと約束する!」
なりふり構わず頭を下げて頼むウィリアムの姿に、ルイスは驚きを隠しきれなかった。
それほどまでに、当主といたくないのか。
(自ら望めば…とは思っていたが。まさか、こう進むとは…)
今、部下がこの話を持ってくる前に、団長から直接話があった。
話を受けて真っ先に頭に浮かんだのがウィリアムだった。
ウィリアムは、騎士の剣術大会でも常に上位になるほどの腕前を持っている。奴ならアリシアを守ってくれるだろうと思えるほどだ。
元々、ルイスが団長にアリシアの護衛を頼んだ理由は、彼女は騎士団長が守るほどの存在であると周囲に知らしめるためだった。そうすれば、アリシアに不用意に近づく輩は減り、多少なりとも自衛になる。彼女で賭けをした連中はもう近づけないだろう。
団長が外れることで、狙い通りにいかなくなったが、ナイト家なら補って余りある効果が得られる。
騎士の名門ナイト家が護衛ならば、箔がつくし、アリシアの両親も安心するだろう。
しかし、そのためには本人から「聖騎士の妻の護衛をしたい」と聞く必要があった。任命する手もあるが、それでは責任感を持ってアリシアを守ってくれるかどうか怪しい。
それが今、ルイスの希望通りに進んでいる。一つの憂いを除いて。
その憂いが消え去れば、ウィリアムに命じることが出来る。だが、到着を待つしかない。
数分の沈黙の後――部下が手紙を持って、執務室に飛び込んできた。
すぐに手紙を開け、ルイスはウィリアムに向かって頷く。
「絶対に妻を守るんだな?」
「ああ、必ず」
「妻の護衛をお前に任せる。だが…これに行くことが条件だ」
手紙に同封されていた何枚もの入場券をウィリアムに手渡した。
「美術展に、名品展…? 何だよこれ?」
「お前の腕だけは信頼しているが、価値観を磨き直す必要があるからな。式典までに直せ」
「は?」
「俺の美しい妻を違う人間と勘違いされては困る。女神像をしっかり見て、価値観を磨いてこい」
「はぁ!?」
「お前との話は以上だ。さて、待たせて悪かったな…人事のもう一点だが――」
「い、いいんですか?」
「構わない」
ふざけんな! 俺の価値観は正常だ! 聞けよ! と喚くウィリアムを相手にせず、部下との話を進めていった。
式典などに関して決まっていく書類を眺め、ぼんやりとアリシアを想う。
絶妙なタイミングでの返事。そして、見事な選択の券。
『急な話で申し訳ないのだが、あなたは美術品や絵画の展覧会に詳しいだろうか? もし、都合が良ければ入場券の手配をあなたにお願いしたい。本来なら俺が用意すべきなのだが、執務室と宿舎を往復する日々で時間も厳しく、恥ずかしながらあまり詳しくない。もちろん、費用はこちらで支払う。どんな人間でも美しいと理解できるような内容だとありがたい』
無理を言ったというのに、素晴らしいものを返してくれた。
ルイスは手紙に添えられていた一輪の花を手に取る。
アリシアがわざわざ庭で摘んできてくれたそうだ。少しでも安らげるように、と。
優しい気遣いは初めてで、ルイスの心にあたたかいものがじわりと広がる。
(本当に俺にはもったいない人だな…)
一輪の花とアリシアを重ね合わせ、ルイスは目を閉じた。




