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「僕…ハンナを好きになってしまったんだ」
罪悪感の欠片もなく、アリシアの目の前にいる男は残酷に言い放った。
アリシアは瞠目して天を仰ぐ。ついさっきまで新鋭作家の彫刻品について楽しく語り合っていたのは、最後のお情けとでも言うつもりだろうか?
相手が別れの切り出し方を考えている間、自分はこの男との将来を夢見ていたなんて、馬鹿馬鹿しくて泣きたくなる。数日前から男がよそよそしいのは感じ取っていたけれど、今日家に招いてくれたから油断しきっていた。ショックは隠せない。
(またこの終わり…)
こうやって婚約者たちに振られるのは、もう何度目だろう。いつからか振られた回数を数えることもやめてしまった。婚約者はみんな違う人物なのに、毎度同じ理由しか言わないなんて、呆れるしかない。男って、それしか言えないの?
心が麻痺してしまったかのように、責める言葉も涙も出てこない。
今度こそ大丈夫だと信じていたのに。
初めて会った時から男は誠実だったし、君の家庭的なところが良いよと笑みを見せてくれた。この人とならきっとうまくいくと、信じていた。
――しかし、またハンナだ。
アリシアは口角を上げ、自嘲気味に笑う。
揃いも揃って妹のハンナを好きになるなんて。最初は順調でも、婚約者がハンナと知り合ってしまった途端、だめになる。婚約者に妹を紹介しないわけにもいかず、これは避けられない。思いを寄せられた妹が相手に何の興味も持たないのが、また切ないところだ。
妹のハンナは姉の目から見ても、見目麗しく素敵な女性だ。金色の髪に雪のように白い肌。十七歳とは思えないほど、女性らしい体つき。天使と褒め称えられるのは見た目だけではなく、内面ももちろんのことだった。いつもにこにこ笑っていて、怒ったところや悪口を言っているところなんて一度も見たことがない。
「君には悪いと思っているよ。でも、ハンナを好きだという気持ちに嘘をついて、君のそばにはいられない」
頬を紅潮させながら高らかに言う男を、アリシアは冷めた目で見つめる。自分といる時は、頬を赤らめることなんて一度もなかったなと、思い出したのだ。
完璧な妹に比べて、自分は並み。本音は並みと言えるかどうかも怪しい。
アリシアの真っ黒な髪はこの国には多く、社交界でも目立たない。容姿が良ければ目立つだろうが、そういえばそんな人いたなぁ…と思い出してもらえるか際どいレベルだ。せめて魅惑的な体つきをしていれば良かったのだが、こちらも平均値。
年齢は二十四。これは唯一平均越えで、貴族ならとっくに結婚していなければおかしい年齢だ。だから焦っているのに――またこの結果だ。
これといった魅力のない姉と見目麗しい妹を比べたら、妹を選ぶのは当然の話だが、はいそうですかと納得できるわけがない。
「だからごめん、アリシア。君とは結婚できない」
「…分かったわ。さようなら、失礼するわ」
アリシアは物分りよく別れを告げ、足早に男の前から姿を消した。
本当は怒鳴りつけて、引っぱたいてやりたい。「無駄にした時間を返せ!」となじってやりたい。でも、そんなことをすれば、アリシアが今以上に不利な状況になってしまう。だから、ぐっと堪えたのだ。
男を非難し、殴るような女だ――そういった噂が流れてしまえば、本当に終わりなのだ。どうしてアリシアが叩かなければいけなかったのか、という物事の本質は置き去りにされてしまう。
(今回もこんな結果じゃ…みんな、がっかりするわ…)
自分が一番ショックを受けているはずなのに、思い浮かぶのは自分よりも落胆した家族の顔だった。
アリシアの家、バックス家は貴族の階級で言えば、中の下あたりに分類される。といっても、現代の社会で貴族とは単なる肩書きに過ぎない。貴族というだけで暮らしていけるのはほんの一握りで、大半は庶民とほとんど変わらぬ生活をしている。勉強は家庭教師ではなく、学校で。学校を卒業したら働く。着替えやお風呂など、自分のことは自分でやる。
違う点と言えば、使用人を雇っている場合があったり、社交界に行ったりするくらいだ。その社交界もこの国を治めている王家の意向で、庶民の出入りは可能になった。
正直なところ、裕福な庶民の方がそこら辺の貴族よりもいい生活を送っている。
それなのに、面倒なことに、嫌な慣習だけは残されていた。そう、結婚だ。
貴族には結婚の厳しい適齢期がある。女性は十代の内に嫁ぎ、男性は三十代の時には妻を持っていなければならない。学生の間に、婚約してしまう女性も多い。
しかし、アリシアは二十四で、独身だ。風当たりが強い。
今回の婚約者と別れた話はあっという間に近所や社交界に広がるだろう。近所には庶民が多く、「バックス家の上のお嬢さん、可哀想に…」と陰で囁かれるだけだが、社交界はそうはいかない。色眼鏡で見られる上に、人の不幸話で盛り上がる輩が多い。ただ、アリシアには位の高い親しい友人がいるため、面と向かって馬鹿にされたことはない。
だが、さらに風当たりが強くなるのは間違いない。
(結婚も同じになれば良いのに…)
王は庶民と貴族の身分差をなくす努力をしているが、貴族の結婚に関してはまだ口出ししていない。結婚も自由!と取り決めてくれれば、アリシアの苦悩はなくなるのに。
恨みがましく王の顔を思い浮かべようとするが、残念ながら、王は滅多に姿を現さないので分からない。名前も何だったか記憶が定かじゃない。
画期的な取り組みを進める王だが、おとぎ話と化した大昔の魔術に関心があるという、一国の王としてあまりよくない噂も耳にする。
この国にも、昔は魔女がいたとか、魔術があったとか、語り継がれる物語があるとかは学校で習ったけれど、真実味がない。幼い頃は絵本に出てくる騎士に憧れたものだが、どんな騎士だったかさえ覚えていないのが現実だ。
もしも魔術が使えるなら、好かれる魔術を使いたいものだ。
「……あーあ、いつになったら前に進めるのかな」
はしたないと叱られそうだが、足元の小石を蹴飛ばした。
バックス家は、自分のこと以外ではほとんど順調だ。贅沢は出来ないけれど、料理人を雇える財政的な余裕もある。目下の悩みは、二人姉妹の姉が結婚に至れないことだった。
両親はあまりにも同じ理由で断られる娘を不憫に思い、段々と結婚には口出しをしなくなっていた。
貴族の娘としては珍しく、二十四になっても結婚していないのは、本人だけの問題ではないのだ。いずれは素敵な誰かと結婚して、今の悔しさを忘れられれば良い――そう家族は願っていた。
「ただいま戻りました」
涙を堪えて帰宅したアリシアを家族が気遣わしげに迎えてくれた。
帰宅した時間と、自分の浮かない顔を見れば、どうなったのかは言わずとも分かるだろう。それに、アリシアがこうやって帰ってくるのは、初めてじゃない。
心配する家族の中に、妹の顔を見つけたが、直視できなかった。
俯いて顔を隠しながら、アリシアは階段の一段目に足をかける。
「……しばらく結婚のお話はいらないから。またちゃんと頑張るから…」
「アリシア…お前の気の済むようにすると良い。ゆっくり休みなさい」
父親がしんみりと言い、他の家族も同じ気持ちだと頷いてくれた。それがまた切なさを増して、アリシアは申し訳なくなった。
階段を上る途中で、涙が込み上げてきてしまい、慌てて自室に飛び込む。泣いたら泣いただけ、惨めになる。泣きたくないのに、悔しくてたまらない。
――――いつもみんな妹を好きになってしまう。
でも、妹は何も悪くない。悪いのは好きになってしまう男。
あの子はあの子なりに、姉を立てて気遣ってくれるいい子なのだ。我先にというタイプではなく、まず姉を先に…という気持ちを常に持っていてくれる。私の婚約者が家族と顔合わせをする時、ハンナは必ず私の長所やエピソードを誇らしげに話すのだ。心の底から嬉しそうに話す姿が、きっと周囲を魅了するのだろう。
(……ハンナは悪くない。何も…そう、何も…)
だから余計につらい。私に足りないものを持っている妹が羨ましい。
社交的になるために頑張って社交界に出てみても、会う人すべてに妹について尋ねられる。男性と親しくなったつもりでも、次第に妹のことを聞き出され、私に近づいた目的が分かってしまう。
「どうして…どうして、私じゃダメなの……!」
むせび泣いて、悲痛な胸の内を曝け出す。
こんなこと友人にも打ち明けられない。誰にも言えない。
答えなんて誰に聞かなくても分かっている――妹の方に魅力があって、姉の私には何の魅力もないからだ。子供の頃から、ずっと。
みんなハンナが好きなんだ。私はハンナの姉というだけ。
どうしたら、私を好きになってくれるの? どうしたら、次うまくいくの? どうやったら、終わるの? どうしたら、ハンナのようになれるの?
好かれる妹を羨ましいと思い、妬む自分が恥ずかしくて、自己嫌悪に陥った。
(誰か私を、私だけを必要だと言って…)
もう何回も断られ、アリシアの心は悲鳴を上げていた。