ルースの受難
ディヴァンを駅舎で見送ったルース・レインはひとりディヴァンの家でチェス版に向かっていた。
タバコをくゆらせながら、長考する。
ディヴァンは新刊販促のサイン会だそうで、担当の編集者と所謂どさ回りだ。とりあえずの予定は一月で、その間、レインは彼の執着に満ちた視線から解放される。
レイン自身チェスの腕前はそこそこだと思うが、本来のレインは、ツキに左右されるカード・ゲームのほうが性に合っている。
盤上に白と黒のコマが並ぶ。
それは、昨夜のディヴァンとの盤上の攻防の名残である。
部屋のドアをノックする音が、レインの盤上の思索を破った。
しかたなく立ち上がったレインは、自分の判断を後悔する破目になった。なぜなら、ドアの外には、満面の笑みを湛えたオリー・ワードの姿があったからだ。
「レインさんっ!」
飼い主を見つけて嬉しさのあまり飛び掛ってくる犬のような、自分の力も何もかも斟酌しない迫力で、飛びかかってこられたのだ。
「うわっ」
一見軽そうに見えるオリーだが、そこは成長期の少年のものである。持ち重りするようなずっしりとした体重が、なんの準備も覚悟もしていなかったレインの首っ玉にかかってくる。踏ん張り堪えようとするレインだったが、ぐいぐいと全身を押しつけてくるオリーに、忘れたはずになっていた感覚を思い出してしまい、その場に尻餅をついた。
「いっ…」
したたかに腰を打ちうめくレインの耳元では、
「レインさん、とっても会いたかったよ!」
と、オリーが悪びれずに言う。
「まったく」
全身の力を抜きつぶやいたレインだった。
「レインさんってば冷たい。」
顔を上げたオリーが、レインの緑のまなざしの奥を覗き込もうとする。どこまでもまっすぐな空色の瞳。惑わされてしまいそうで、レインは、
「こら、オリー。わかったから、わかったから。いつまでドアを塞いでるつもりだ」
首に回されたままのオリーの腕を軽く叩く。
「あっ、ごめんなさい。つい、嬉しくて」
全開のオリーの笑顔に、なぜかしら心の奥深くが締めつけられるような感覚があった。
「ほら」
声とともにレインがはいってくると同時に芳しい紅茶の香が室内に広がった。
「おかまいなく」
ぴょこんと頭を下げたオリーに、
「今更だろう」
と、応じる。
テーブルの上に、かすかな陶器の音を立てながら並べられたのは、ケーキと飲み物だった。カップを取り上げたオリーは、
「コーヒーじゃないんだ?」
「そう。最近ちょっと転んでる」
クキクキと肩と首とをストレッチしながら、レインが答えた。
二人の間にはチェス盤。盤上には投了したばかりの一戦が。オリーの負けのようである。
興味深げに昨夜の対戦の名残を見ていたオリーが、チェスに興味を覚えたらしく、教えてくれと、レインにねだったのだった。
「レインさん」
「ん~?」
紅茶に口をつけたばかりのレインが目だけで返す。オリーが落ち着いたからだろう、レインは先ほどの慌てぶりが噓のようにゆったりとなごんでいる。
「もう一局!」
オリーの要求に、ティーカップの上に見えるレインの目が笑った。一気に紅茶の残りを呷ったレインが、カチンとかすかな音をたててカップをソーサーに戻した。
「いいぞ」
「そうこなくっちゃね!」
しばらくはコマを分ける音だけが部屋に響いた。
「今度は負けないからね」
「それはどうかな」
余裕のレインに、オリーは不安を覚えた。そこに、今更ながらレインとの歳の差を感じたような気がしたのだ。
レインより九つ年下と言うのは、実はオリーの密かなコンプレックスだった。
どうにもならない年令の差である。
どんなに頑張っても自分がレインより年上になることは不可能なことでしかない。
レインと対等なような気がするのは、レインが譲ってくれているからに他ならない。第一、自分はどこにでもいる普通のガキでしかない。そのうえ、自分と同じく彼に惚れているあの忌々しいディヴァンが、大人気なく彼を隠すのだ。だから、彼が不在の今日は、実にタイムリーだったりする。けれど、一月くらい前に会ったときと、レインはどこかが変わっているような気がしてしかたがなかった。
「さん……」
「ん~?」
「賭けしない?」
「いいけど、何を賭ける」
レインがのってきたことに、オリーは内心でほくそえむ。
「レインさん」
「はい?」
盤上に据えられていたレインの視線がオリーを捕らえた。あかるい緑色の瞳が、戸惑っている。だから、オリーは両の口端をゆっくりと引き上げて不敵な笑みを作って見せたのだ。
「だ~か~らっ、レインさんを賭けようって!」
ポトン。
レインの口から火のついていないタバコが転がり落ちた。
「レインさんが勝ったら、今日は何もしない。帰るよ。けど、オレが勝ったら、ルース・レインをオレにちょうだい」
盤上に上体を乗り出して、琥珀のまなざしがレインの瞳を覗きこむ。
赤い舌が、ちろりとレインのかすかに開いたままのくちびるをくすぐった。とたん、レインの意識がめまぐるしく状況判断を開始しはじめる。
「そんな、賭けにはのれないな」
黒いシャツの襟から伸びる首が、赤く染まっている。
「レインさん勝つ自信ないんだ?!」
「そんなことは言ってない。ただ……俺のほうの条件が悪すぎるだろうが」
「どうして?」
逃げようとするレインの肩を捕らえ、引き寄せるように抱きしめる。耳に息を吹きかけるように囁く。
「ど、どうしてって……いや、それよりなんだって、突然そんなことを言い出したんだ。俺は男で、おまえも男だろう」
耳がウィークポイントだったのだろう、もがくレインの声はひずみ、逞しい首筋がいっそう紅潮し、顔や耳までもが真っ赤に染まる。
「そんな今更なこと。別に気にしなくても」
思わず苦笑したオリーに、
「するわっ!」
真っ赤になってあまつさえ涙で目をうるうるさせてレインが怒鳴る。それが、オリーのツボに嵌まってしまうなどとは、レインには思いも寄らないことだ。
(あと一押しかな、二押しくらいいるかな)
もはやオリーの頭からは、賭けのことも対局中のゲームのことも綺麗さっぱり消えている。壊さないように気をつけていた盤上のコマ運び。邪魔だとばかりにオリーはスライドさせた。
音を立てて白と黒のコマが床に転がり落ちた。
弾かれたように、オリーの腕の中のレインが震える。
「レインさんっ! レインさんをオレにちょうだい。ずっとずっと我慢してたんだ。レインさんのことが気になって気になってたまらなくって。でも、いっつも、ディヴァンさんがじゃましてさ、顔見たいって思っても、いないんだもんな。オレ、レインさんに触れたい。レインさんとキスしたい。レインさんを抱きたい。レインさんの中に入ってメチャクチャにしたいっ!」
イヤイヤと声をなくしてレインが首を振る。しかし、レインは既にオリーに抱き込まれている。小さなからだのどこにそんな力があるんだろうというほどの強い力に、背中を駆け上がるのは、まがうことのない怖気だ。そうして、脳裏によみがえるのは、二週間ばかり前の一方的なディヴァンのピロウ・トーク。
『ルース、お前も知っているだろうが、私は存外独占欲が強い。私以外の誰の誘いにものらないように。特に、あのひよっこの誘いなどにはな』
せっかく、忘れていたというのに。
(お、俺は、男なんだぞ!)
ディヴァンよりもオリーよりも、背も高いし、ガタイもしっかりしていると思う。なのに、いったい。
背中に脂汗を流しながら逃げ場を探すが、もとより逃げ場も救いも現われない。
「ね。いいでしょう」
真っ青になって引きつるレインの視界いっぱいのオリーの笑顔が、ディヴァンに重なる。
それが、レインには、逃れようのない宿業と見えた。
「オ、リ……もう」
レインは疾うに精根尽き果てているというのに、オリーの動きはやまない。
どれだけ翻弄されたのか。オリーは掻き口説いたとおり、レインにありったけの情熱を注ぎ込んでいた。
底なし沼に嵌まってしまったかのように、動くこともできない。やっとしぼり出せた言葉さえも、オリーのくちびるに吸い取られた。
降りそそぐ火の粉にも似たキスの雨。やむことのない生々しい感覚。幾度目になるのか、ひときわ激しいオリーの動きに、レインの意識は焼き切れた。
「さん……」
目の前に、今にも泣き出してしまいそうな、心配そうなオリーの顔。笑いかけようとして、レインの表情が強張る。かすかに身じろいだ瞬間に全身を貫いた激痛。それが、オリーの表情の謎を解いたからだった。
じくじくと、からだの内側から爛れてゆくかのような、疼く痛み。
(なんだかな………)
泣きたかった。
年上のディヴァンに抱かれたときとは違う。年下のオリーに、抵抗もままならずいいようにされてしまった自分に対する自己嫌悪だった。
年上の自分がもっと毅然と拒んでいれば。
(このままじゃダメになる………)
自分はまだいい。が、まだ成長途中の少年がダメになるのは、見たくなかった。
「ごめんなさい」
頭を下げるオリー。しかし、
「オリー。二度と俺は、会わない」
レインの口から思いも寄らないことばが転がり落ちる。力も張りもない。かすれてさえいる声。けれど、まなざしは真剣で。
「!」
恐ろしいくらいに真剣で。
「わかったな。このことは、忘れる。忘れるように努力する。だから、たった今俺の前から消えてくれ」
絶叫に近い宣告だった。
しかし、オリーだとて、ここで退くわけにはゆかないのだ。どんなに詰られようと謗られようと、自分にとってレインは唯一無二の、なくしたくない存在なのだ。いったいどうすれば、自分の思いの丈をレインに理解してもらえることができるのか。
それに、レインのあかるい緑のまなざしからは、憎しみを見出すことはできなかった。
「レインさん」
「聞こえなかったのか」
冷ややかな口調だった。だからといってここで退いてはいけない。退いてしまえば、なくしてしまう。それだけが、オリーにわかっているすべてだった。
「聞こえない」
「帰れ」
「聞こえない」
「帰れと言っているだろうっ!」
「聞こえない聞こえない聞こえないっ!」
「オリーっ!」
レインの声をかぎりの叫びに負けじと、
「オレは、さんを愛してるんだっ!」
オリーの声がかぶさる。
沈黙。
そうして、
「愛しているんです」
しばらく沈黙が続いた後にオリーはもう一度口にした。
「俺は……愛していない」
「オレが愛しています」
「愛してなんかない。おまえのそれは、愛じゃないだろ」
「違います」
「違わない。おまえの感情は、ただの独占欲だ」
「だったら、独占欲だってかまいません。オレは、レインさんが、レインさんだけが欲しいんだ。オレのものにしたい。ディヴァンにだって、他の誰にもやらない! レインさんがオレから逃げたって、どこまででも追いかけてって、捕まえてやる。レインさんがオレのこと大嫌いだって言うなら、レインさんがオレのことしか考えられないようにしてやる」
「!」
オリーのエゴイスティックなことばに、レインが絶句する。
それはやはり、ディヴァンのそれと重なるものだった。
そう気づいて、背筋が震える。
空色のまなざしが、レインの緑色の瞳を覗き込む。
「嫌だからね。オレは、絶対にレインさんからはなれないから」
捕食者めいた、空色の瞳。まだ少年少年しているオリーが、レインには自分よりもいっぱしの男に見えた。ぞわりと背筋を這い上がったのは、悪寒だったのかそれとも………。
目を見開いたままで固まってしまったレインを見て、オリーがクスリと笑った。それは、勝利者の笑だった。
「もう帰れなんて言わないよね」
問いかけの口調を借りた確信。
近づいて来るオリーの顔。
我に返ったレインが顔を手で覆おうとして、間にあわなかった。何しろレインは起き上がれないままなのだから。
「イヤがらないでよ。オレレインさんとキスするの一番好きなんだ」
どうしてこうなるんだろう。どうして、自分は、オリーもディヴァンも拒みきれないのだろう。拒もうとの決意は、脆くも砕けてしまった。あれだけ強固に言い張ったのに、どうして、オリーもディヴァンも、自分の言い分を聞いてくれないのだろう。
(結局俺は、勝てないのか?)
決して力の強さなどではなく、それは、執着の強さだ。他人に対する思い込みの激しさとでも言い換えればいいだろうか。問題は、それがレインには理解できないということだ。
(そういや、なりふりかまわずひとを好きになったことってなかったな)
それを意識した途端、激情に駆られることで忘れられていた疲れや痛みが一気にぶり返し、レインを挫けさせた。
それでも! せめてもの意地として、そんなに簡単にオリーに勝ちを譲りたくはなくて。目の前で余裕の笑みを顔に貼りつけているオリーに、どうにかして一矢なりと報いたかった。いくつも年下のオリーを見知らぬ男のように恐ろしいと思ってしまう自分を鼓舞するためにも、
「俺は、嫌いだ」
そう返したのだ。
みるみるオリーの笑顔がこわばりつく。
「なんで? オレのキス、下手?」
どうしてキス限定なんだと突っ込みながらも、少しだけ溜飲を下げたような感じを味わいながら、
「おまえのキスって、下手」
と、できるだけ軽く告げる。
「うそだっ! だって、レインさんのファースト、オレがもらったんじゃないの? レインさんって、オレ以外の誰かとキスしたことあったの?」
「なんなんだ、それは」
ここまで思い込みが強くないと、他人を好きにはなれないのかもしれない。痛いくらいにそれを感じながら、脱力するレインだった。
「……俺のファースト・キスの相手は……少なくともおまえじゃない。それに、おまえのほうが下手だ」
どうにかオリーにとどめを刺すことに成功したレインだった。
ちょっと雰囲気がズレてるんですけどね。
なにか変です。