迷車両で行こう40
うP主:どうも。うP主の永島光です。今回はネタでしかないと思ったので、こういうことを書いてみました。今回のゲストは布引電気鉄道さんです。
布:どうも。布引電気鉄道です。
うP主:今日はよろしくお願いします。
布:ではまず最初に。私たちの会社名を聞いたことがないと思うので、簡単に会社のことを解説します。私たちが持つ鉄道事業は1926年に全通をしました。えっ。そもそも、どこを走っているのかって。私たちは長野県の小諸から島川と言うところまで走っていました。目的は沿線にあった神社への初もうで客の輸送や沿線住民の輸送です。
うP主:んっ。ウィキペディア様で見たら・・・。
布:それは言っちゃいけないお約束。私が言うものなんだけど、私たちは残念すぎた鉄道だったわ。これを言っちゃったら、そこらへんにごろごろ転がっている、廃業になった鉄道会社よりはすごい迷要素を持っているわ。
うP主:・・・。
布:まぁ、皆さん。今の会話で、私たちがどうなったのかわかった方もいると思います。結局は私たちは廃業にまで追い込まれました。しかし、廃業の仕方が半分意味不明でした。(私たちにはわかっていたのだけど・・・)
もともと、沿線人口の少ないところを通っていた鉄道路線。必然的に乗車する沿線住民は少なかった。しかし、初もうでの時や近くで行われる花火大会の時は私たちが運行していた車両にお客が乗りきらなかったりと大変だったわ。でも、所詮人口の少ない場所を通っている路線。普段は40人乗りの電車の中には客がほとんど乗っていなかった。それもあってか、当時の大きなお兄さんたちからは「シジュウカラの小鳥電車」とか呼ばれたりもしたわ。でも、事実だから、反論できなかったんだけどね。
その後。近くにできる予定のダム建設で、私たちの鉄道は貨物で大いににぎわったわ。その時はお客様ではなく、貨物が乗りきらないほどの盛況。途中で私たちの車両が「もう動けないから、ここに荷物をちょっとだけ置いてくね」とか言って、運んでいる途中で、荷物を放り投げて、どっかに行ってしまうこともあったぐらいだった。しかし、ダムの建設が終わると私たちのその盛況っぷりは一転した。私たちに待っていたのはほんのわずかな収入源だけだったのである。
うP主:・・・悲しいですね。運炭、運炭、運炭。もとい、運炭路線も石炭輸送が盛況だったときは黒字バンバンのドル箱路線だったのと同じですね。
布:・・・あんまり同じにしてくれても困るんだけど・・・。まぁ、いいや。私たちに残ったのは少ない収入源と、雪みたいに降り積もっていく赤字。私たちの赤字はどんどん膨れ上がり続けて、ついには電気代まで支払えないほどに追い込まれたわ。
うP主:はっ。電気代が支払えない。過去にそんな鉄道会社あったんですか。
布:でなきゃ、あなたはここに。私を呼ばないでしょう。
私たちは電気代が払えなかったということで、今の東京電力から、
「お前ら。電気代が払えないんなら、電気止めるぞ。」
とまぁ、当然のことをされて、電気を止められた。このままでは電車を運転することができない。しかし、普段からほとんど利用者のいない鉄道。電気を止められ、列車が動かなくても、ほとんどの人は生活に困ることはなかった。
結局、私たちにとってはこの東京電力の逆ギレがとどめになって、1934年。開業からわずか8年後に全線廃止に追い込まれたの。まぁ、廃線の許可を出したのは当時のお国だけど。
うP主:そんな鉄道会社もあったんだな。すごいなぁ。電気代が払えないから、廃止って。
布:うん。でも、もっとかわいそうなこともあった。私たちが廃線になった後、当時のお国の偉い人に聞いてみたら、
「お前ら。あってもなくても変わらないんだろう。だったらさっさと廃止にしちゃえ。」
と言うことを言われて、今の国土交通省に廃止していいですか、なんて言わせることなく、私たちはとどめを刺されたの。いわゆる、今のJRが。昨日まで動いていたのに、今日になったら列車が一本も来なくなったのと同じよ。しかも、ストライキじゃないからね。数日前からニュースなんていうのも流さずに突然廃止になることなのよ。
うP主:・・・。そんなになってくれたら、私たちが困ります。
布:・・・自分で見ても本当に哀れな鉄道だったわねぇ。みんな―。鉄道会社がちゃんと電気代を払わないとこういう風になることもあるのよ。みんな。それちゃんと覚えといてね。
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