オヤグモ
蜘蛛の糸が垂れていた――
いつもそこに巣くう蜘蛛の糸だ。
少女が毎朝通学に利用する駅の駐輪場。少女の駐輪場所にだけ蜘蛛が巣くい、屋根から糸が垂れてくる。
少女は近くで聞いたけたたましいブレーキ音に、耳を塞ぎ目を閉じた。
駅に入った電車が急停車をしたのだろう。
ここまで乗ってきた自転車を止めると、少女は突然の不協和音に襲われた。とても大きな音だった。その甲高いブレーキ音は、まるで金切り声のように少女の鼓膜を手の甲越しに震わせた。
少女は恐る恐る目を開ける。
悲鳴とざわめきが駅の向こうから聞こえてくる。
少女には何が起こったのか分からない。
決められた駐輪場所にいつも巣くう蜘蛛。その屋根から垂れてくる蜘蛛の糸。
それを払って少女は少し離れた駅に振り返った。もちろん何があったかは分からない。
蜘蛛の糸はあっさりと払われ、しばし少女にまといつくと何処かに飛んでいった。
だがまた一本蜘蛛の糸が垂れてきた。
しつこい――
少女は内心苛立ちながら、その蜘蛛の糸を払う。
丁度その時蜘蛛の子が数匹、転がるように少女の足下を彷徨った。丸い体に細い足を放射状に伸ばしたその小さな蜘蛛。
愉快なものではない。
少女はそれを慌てて避ける。
少女が駐輪場から駅に向かうと、人だかりができていた。
電車が止まっている。おかしな位置だ。駅をはみ出している。
人垣の間から見えるその先頭車両。少女はとっさに目を背けた。
べっとりと血糊が着いていた。車両前面に一度丸く広がり、細い筋を伸ばして血が着いている。
そうその様はまるで蜘蛛のよう――
少女は口元を押さえて、慌ててその場を離れた。
少女は駐輪場に舞い戻った。少し遠いが学校には自転車でいくしかない。何よりあの場所に長く居られる訳がない。
蜘蛛の糸がまた垂れていた。
少女は少々苛立たしげに蜘蛛の糸を払った。
蜘蛛の糸はやはりしばし少女に絡みつくと、何処かに飛んでいった。
学校は事故の話で持ち切りだった。
被害者は女の人らしい。それも身重の女性だ。そして体の一部と、もう一つがまだ見つかってないらしい。
少女は血の跡を思い出す。あの赤が具体的な意味を持ってもう一度甦ってくる。
級友達は興奮しきりだ。電車通学をしない者程、声だかに噂を口にする。
少女は耳を塞ぎ噂話を聞くまいとする。
だが声は蜘蛛の糸のように少女にまといつき、絡みつく。
足下にも子蜘蛛がちらついたような気がして、少女は何度か上履きを苛立たしげに踏みつけた。
電車はその日の内に復旧していた。
更に翌日には普通に運行されていた。
人一人ひいても電車は――いや、日常は通常運行を求められるのだろう。
少女はそのことに少しだけ身震いする。
かくいう少女も翌日にはまた電車に乗った。やはり自転車でいくには学校は遠い。血にまみれた電車を見た場所も、通学には反対側の方向だ。我慢できる。
少女はいつもの駐輪場で蜘蛛の糸を払う。蜘蛛の糸はやはり少し少女にまといつくと、何処かに飛んでいく。
今日も子蜘蛛が少女の足下を彷徨った。親を捜しているのだろうか。少女には蜘蛛の詳しい生態は分からない。
事故現場を避け、少女は駅のホームの端に立つ。電車がくる方は見ない。そちらの端で事故が起きたからだ。
可哀想にね――
楽しみだったでしょうにね――
体調が急に崩れたみたいですって――
ホームは静かな興奮に浸されていた。無責任でそれでいて同情を装った好奇心で、利用客たちの耳と口は噂話を紡いでいく。
まだ、見つかってないんですって――
駅の近くにはなかったって――
厭な話よね――
少女は耳を塞ぐ代わりに、心を閉ざそうとした。
母親が執念で連れていったとか言われてるわよ――
だかその噂は少女の心に、蜘蛛の糸のようにまといついた。
事故から幾日か過ぎた。
駐輪場の蜘蛛の糸は、未だに少女の上にだけ垂れてきた。
少女は蜘蛛の糸を振り払う。蜘蛛の子は少女の足下を彷徨う。
蜘蛛の糸は長く少女に絡みつくようになった。
まるで何かを訴えるかのように、蜘蛛の糸は少女にまといつく。
少女はその苛立ちを、足下の子蜘蛛にあたろうとした。
だが少女が足を踏みつけんと持ち上げると、蜘蛛の糸が面前に垂れてくる。
そう、まるで親が子を守ろうとしたかのように。
少女は蜘蛛の糸を漠とした不安とともに引っ張った。
少女に髪を引かれ落ちてきたそれ――
それはごとっという音ともに地に落ちる。
地に転がったそれは、まだそこに何かあると訴えるかのように、屋根の上を虚ろに見上げた。