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婚約破棄された悪役令嬢ですが、失われたのは私ではなく王国でした

作者: カワカン
掲載日:2026/07/15

 王城の朝は、いつも慌ただしい。


「急いで! シャロン様がお通りになるわ!」


 侍女たちは銀食器を抱えて廊下を行き交い、文官たちは腕いっぱいの書類を抱えて各部署へと急ぐ。窓から差し込む朝日が白い大理石の床を照らし、忙しく働く人々の影を長く伸ばしていた。


 そんな喧騒の中、新人侍女のエマは、先輩侍女の後ろを小走りで追いかけていた。


「急いで、エマ。午前の会議まで時間がないわ。」


「は、はい!」


 慣れない王城での仕事は覚えることばかりだ。


 廊下を曲がるたびに見知らぬ貴族とすれ違い、そのたびに礼をしなければならない。


 息を切らしながら歩いていると、ふと前方から数人の文官が足早に駆けてきた。


「まずい、急げ!」


「会議開始まで十分しかない!」


「資料を落とすなよ!」


 皆、切羽詰まった表情をしている。


 エマは思わず首を傾げた。


「今日は何か特別な日なんですか?」


 先輩侍女は苦笑した。


「毎月の改革会議よ。」


「改革会議……ですか?」


「ええ。」


 少しだけ声を潜める。


「シャロン様がお出になられる日。」


 その名前を聞いた瞬間だった。


 すれ違っていた文官たちの表情が、さらに強張る。


「急げ。遅れたら終わりだ。」


「昨日も財務局の方が叱られたそうだぞ。」


「伯爵様まで言い返せなかったらしい。」


 そんな声が聞こえてくる。


 エマは思わず尋ねた。


「シャロン様って、本当にそんなに怖い方なんですか?」


 先輩侍女は困ったように笑った。


「怖い、なんて言葉じゃ足りないわね。」


「え?」


「あの方は笑わない。誰が相手でも態度を変えないし、言うべきことは容赦なく言う。」


 少し考えるように視線を上げる。


「王太子殿下にも遠慮なく意見するし、大貴族だって泣かされた人は何人もいるわ。」


「そんな……。」


「商人たちも同じよ。契約違反があれば、その場で違約金を請求される。『公爵令嬢との交渉は命が縮む』なんて冗談まであるくらい。」


 エマは思わず唾を飲み込んだ。


 まだ会ったこともない人物なのに、その話だけで胸がざわつく。


「どうして、そんな方が……。」


 そこまで口にした時だった。


 先輩侍女の表情が変わる。


「静かに。」


 その一言と同時に、廊下の空気が変わった。


 つい先ほどまで聞こえていた話し声が、波が引くように消えていく。


 侍女たちは壁際へ寄り、文官たちは抱えていた書類を胸に抱き直して頭を下げた。


 誰も何も言わない。


 規則正しい靴音だけが、静かな廊下に響く。


 カツ……。


 カツ……。


 カツ……。


 やがて、一人の女性が姿を現した。


 陽の光を受けて輝く白銀の髪。


 深い紺色のドレスには、公爵家の紋章が刺繍されている。


 まだ二十歳にも満たないはずなのに、その姿には王城中の空気を支配するような張り詰めた威厳があった。


 シャロン・アルヴェイン。


 王太子エドワードの婚約者であり、公爵家の令嬢。


 彼女は左右を見ることなく廊下を歩いていく。


 途中、一人の若い文官が慌てて駆け寄った。


「し、失礼いたします! 改革会議の資料ですが、港湾収支の報告書だけ、あと五分ほど――」


 シャロンは歩みを止めた。


 文官は肩を震わせながら顔を上げる。


「会議開始は九時です。」


 落ち着いた声だった。


 怒鳴っているわけではない。


 だが、その場にいた全員が背筋を伸ばす。


「はい……。」


「開始時刻は変更されておりません。」


 それだけ言うと、シャロンは再び歩き始めた。


 文官は青ざめた顔で何度も頭を下げる。


「す、すぐに準備いたします!」


 彼が走り去ると、張りつめていた空気がようやく緩んだ。


 誰かが小さく息を吐く。


「助かった……。」


「今日は怒られなかっただけ運が良かったな。」


「いや、会議で覚悟した方がいい。」


 そんな囁きが聞こえる。


 エマは呆然とその背中を見つめていた。


 美しい人だと思った。


 けれど、それ以上に近寄りがたい。


 まるで氷でできた彫像が、そのまま歩いているようだった。


 先輩侍女が小さく呟く。


「だから皆、あの方を『悪役令嬢』って呼ぶのよ。」


 その言葉を否定する者は、一人もいなかった。


 改革会議は、定刻ぴったりに始まった。


 王城中央棟、第一会議室。


 この国の財政、税制、街道整備、港湾運営など、王国の根幹を決める者たちが一堂に会している。


 王太子エドワードをはじめ、宰相、財務卿、各地を治める伯爵や侯爵たち。


 そして、その中央にシャロンが座っていた。


 机の上には山のような資料が積まれている。


 彼女は一枚ずつ静かに目を通し、時折、小さく印を付けるだけだった。


 やがて議長が口を開く。


「それでは次の議題、北部領税制改革について。」


 一人の伯爵がゆっくり立ち上がった。


 年配の男だった。


 その表情には疲労の色が濃い。


「お願いがございます。」


 会議室が静まり返る。


「今年は北部一帯が冷害に見舞われました。収穫も例年を大きく下回っております。」


 伯爵は深く頭を下げた。


「どうか改革だけは一年、お待ちいただけないでしょうか。」


 重臣たちの間に、小さなざわめきが走る。


 同情するように頷く者も少なくなかった。


 伯爵は続ける。


「領民は疲弊しております。」


「今、新たな負担を求めれば混乱は避けられません。」


「どうか、ご再考を。」


 その声は真剣だった。


 領民を思う気持ちに嘘はない。


 エドワードも腕を組み、小さく頷く。


「……確かに。」


 その時だった。


 シャロンが一枚の資料を閉じる。


「却下いたします。」


 静かな声だった。


 それだけで会議室の空気が変わる。


 伯爵は目を見開いた。


「なっ……。」


「改革は予定通り実施します。」


「お、お待ちください!」


 伯爵は思わず机へ身を乗り出した。


「どうか、もう一度お考えください!」


「領民は苦しんでいるのです!」


 シャロンは伯爵を見つめる。


 その表情は少しも変わらない。


「それで?」


 たった二文字だった。


 会議室が凍りつく。


 伯爵は口を開く。


 だが、言葉が出てこない。


 シャロンは静かに続けた。


「感情だけで政策は決められません。」


「必要な資料はすべて提出されています。」


「予定通り実施します。」


 それだけだった。


 怒鳴ったわけではない。


 机を叩いたわけでもない。


 しかし、その一言一言には反論を許さない重さがあった。


 伯爵はゆっくりとうつむく。


「……承知いたしました。」


 力なく席へ戻る姿は、十歳ほど老け込んだようにも見えた。


 会議終了後。


 廊下では、いつものように噂が広がっていた。


「聞いたか?」


「北部伯爵様が、またやり込められたそうだ。」


「領民のために頭を下げたというのに……。」


「少しは情けを掛けてもよさそうなものだ。」


 若い文官がため息をつく。


「あの方には、人の心というものがないのでしょうか。」


 その言葉に、誰も反論しなかった。


     ◇


 午後。


 今度は王都最大の商会との契約更新が行われる。


 応接室には、高価な香木の香りが漂っていた。


 王都でも名の知れた大商会の主人が、満面の笑みで契約書を差し出す。


「こちらが更新契約書でございます。」


 シャロンは礼も言わず、静かに書類を受け取った。


 一枚。


 また一枚。


 最後のページまで読み終えると、その中の一枚だけを机へ戻す。


「契約違反です。」


 商人の笑顔が凍る。


「……え?」


「納品日が変更されています。」


「い、いえ、十日ほどですので……。」


「契約では十五日後です。」


 商人は慌てて身を乗り出した。


「どうか今回はご容赦を。」


「港の都合もございまして……。」


 シャロンは契約書を閉じる。


「違約金を請求いたします。」


 それだけだった。


 商人は言葉を失う。


 周囲の役人たちも顔を見合わせる。


「異議がおありでしたら契約書をご確認ください。」


 冷静な声だけが応接室に響く。


 商人は肩を落とし、深く頭を下げた。


「……承知いたしました。」


 部屋を出た役人の一人が、小さく呟く。


「やっぱり恐ろしい方だ。」


「商人が一番会いたくない相手らしいぞ。」


「悪役令嬢って呼ばれるのも仕方ないよ。」


 その噂は、その日のうちに王城中へ広まっていった。


     ◇


 夕暮れが近づき、王城の庭園は柔らかな橙色に染まり始めていた。


 季節の花々が咲き誇る花壇の前で、王太子エドワードは穏やかな笑みを浮かべていた。


 その隣には、純白の衣をまとった聖女リリアがいる。


「今日は東門の診療所へ行ってまいりました。」


 リリアは嬉しそうに微笑んだ。


「子どもたちも元気になって、皆さん本当に喜んでくださいました。」


「そうか。」


 エドワードも自然と笑顔になる。


「君は王都中の人気者だな。」


「そんな……私は当然のことをしているだけです。」


 照れくさそうに俯く姿に、エドワードは思わず笑みを深くした。


 その時だった。


「殿下。」


 静かな声が庭園に響く。


 二人が振り返る。


 そこにはシャロンが立っていた。


「本日の政務が終了しておりません。」


「外交会議の開始まで十分です。」


 その言葉に、エドワードは苦笑する。


「シャロン。」


「今日はこのくらい、少し休んでもいいだろう。」


「本日は朝より会議が続いていたんだ。」


 シャロンは静かに首を振った。


「予定に変更はございません。」


「外交使節団は、すでに会議室へ到着しております。」


 リリアが困ったように口を開く。


「シャロン様。殿下もお疲れですし、少しお休みになられてからでもよろしいのではありませんか。」


「休憩時間は三十分確保しております。」


 シャロンは表情を変えない。


「会議開始まで十分です。」


 それだけ告げると、一礼して踵を返した。


 最後まで振り返ることはなかった。


 エドワードは深いため息をつく。


「昔から、ああなんだ。」


「予定通り。規則通り。」


「間違ってはいない。」


 少しだけ寂しそうに笑う。


「だけど……。」


 リリアは何も言わず、その横顔を見つめていた。


     ◇


 その日の夕方。


 王都の中央広場では、小さな人だかりができていた。


「聖女様だ!」


 誰かが叫ぶ。


 市場で転んだ子どもが膝を擦りむき、泣き出していた。


 リリアは迷うことなく駆け寄る。


「大丈夫ですよ。」


 優しい光が子どもの膝を包み込む。


 傷はみるみる消え、子どもは驚いたように目を丸くした。


「痛くない!」


 母親は何度も頭を下げる。


「ありがとうございます、本当にありがとうございます。」


 近くで見ていた老人が笑う。


「聖女様がおられるだけで、この町は明るくなる。」


 市場の商人も大きく頷いた。


「未来の王妃様は、やっぱり聖女様がよろしいな。」


「そうだそうだ。」


 笑い声が広場へ広がる。


 その時、一台の馬車が静かに通り過ぎた。


 窓の向こうには、書類へ目を落とすシャロンの姿が見える。


 誰も手を振らない。


 歓声も起きない。


 人々は道を開けるだけだった。


「あれは……。」


「公爵令嬢様か。」


 そう呟いた男は、小さく肩をすくめる。


「綺麗な方だけど、怖いからな。」


 その言葉に、誰も異を唱えなかった。


     ◇


 夜。


 王城の執務室には、まだ明かりが灯っていた。


 山積みになった書類へ、シャロンは静かに目を通している。


 一枚読み終えるたびに印を付け、次の書類へ手を伸ばす。


 時計の針は、とっくに夜を告げていた。


 一方、窓の外ではリリアが帰路につく子どもたちへ手を振っている。


 その笑顔は、夜になっても変わらない。


 エドワードは二つの光景を交互に見つめた。


 一人は、人々を笑顔にする女性。


 一人は、誰にも笑顔を見せない女性。


 どちらも国のために働いている。


 だが、人々が求めているのはどちらなのか。


 その答えは、もう決まっているように思えた。


 エドワードは静かに呟く。


「国に必要なのは、人を安心させる者ではないか。」


 窓の外では、リリアの笑い声が夜風に乗って聞こえてくる。


 隣の執務室では、紙をめくる音だけが静かに響いていた。


 誰もが口をそろえて言う。


 未来の王妃にふさわしいのは、聖女リリアだと。


 そして、公爵令嬢シャロンは――。


 王都で最も恐れられる、悪役令嬢だった。



第二話 婚約破棄


 卒業記念舞踏会。


 王都でもっとも華やかな夜会が開かれる日だった。


 王城の大広間には無数の燭台が灯され、磨き上げられた大理石の床には、色鮮やかなドレスと礼装に身を包んだ貴族たちの姿が映し出されている。


 若き令息や令嬢たちは、この日を境にそれぞれの道を歩み始める。


 貴族社会では、新たな時代の始まりを告げる特別な夜だった。


 しかし今夜、人々の関心は卒業ではない。


 誰もが、ある二人の行方を見つめていた。


「ご覧になりましたか。」


「ああ、公爵令嬢シャロン様だ。」


「今日も近寄り難いご様子ですな。」


 会場の片隅では、いつものように小さな囁きが交わされる。


 白銀の髪を美しく結い上げたシャロン・アルヴェインは、王太子の婚約者として定められた席に静かに立っていた。


 姿勢は美しく、一分の隙もない。


 だが、その表情に笑みはない。


 誰かと談笑することもなく、ただ周囲を静かに見渡している。


「あのお方は、夜会でも仕事をしているように見える。」


「肩が凝りそうだ。」


「少しは笑えばよろしいのに。」


 そんな声が聞こえてくる。


 一方、大広間の反対側では、小さな人だかりができていた。


「聖女様!」


「こちらへどうぞ。」


 純白のドレスに身を包んだリリアが、招かれた子どもたちへ優しく話しかけている。


 緊張していた少女の手をそっと握り、目線を合わせて微笑む。


「綺麗なお花の髪飾りですね。」


「えっ……。」


 少女は恥ずかしそうに俯き、それから嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます!」


 その様子を見ていた母親が深く頭を下げる。


「聖女様は、本当にお優しい方ですね。」


 周囲の貴族たちも自然と笑顔になる。


 その輪の中へ、王太子エドワードが歩み寄った。


「皆、楽しんでいるようだな。」


「殿下。」


 リリアは柔らかく一礼する。


「卒業生の皆様が素敵な一日を過ごせるよう、お祈りしておりました。」


「君らしいな。」


 エドワードは穏やかに笑った。


 その笑顔は、第一話で政務に追われていた時とはまるで違う。


 心から安らいでいるようだった。


     ◇


 楽団の演奏が静かに止む。


 広間の中央へ国王が姿を現し、卒業生へ向けて短い祝辞を述べた。


 乾杯が終わると、再び音楽が流れ始める。


 だが、エドワードはその場を動かなかった。


 静かにグラスを置き、大広間の中央へ歩き出す。


 その表情は、どこか決意に満ちていた。


 周囲の貴族たちも異変を察し、自然と道を開ける。


 ざわめいていた会場が少しずつ静まり返っていく。


「……殿下?」


 リリアが不安そうに見つめる。


 エドワードは振り返らず、真っ直ぐ前だけを見ていた。


「公爵令嬢シャロン・アルヴェイン。」


 その名が響いた瞬間、大広間から音が消えた。


 シャロンは静かに一礼し、ゆっくりと歩み出る。


 その姿はいつも通り落ち着いていた。


 まるで何が起こるのか、すべて分かっているかのように。


 エドワードは深く息を吸う。


「私は、本日をもって君との婚約を破棄する。」


 一瞬、誰も言葉を発せなかった。


 そして次の瞬間、大広間は大きなどよめきに包まれる。


「婚約破棄だと……!」


「まさか、本当に。」


「こんな公の場で。」


 驚きと動揺が広がる中、エドワードは続けた。


「そして私は、聖女リリアを新たな妃として迎えることを、ここに宣言する。」


 突然名を呼ばれたリリアは、驚きに目を見開いた。


「殿下……。」


 戸惑いが隠せない。


 しかしエドワードは優しく微笑み、小さく頷いた。


     ◇


「理由は明白だ。」


 エドワードは静かにシャロンを見つめる。


「君は、この国のために多くのことをしてきた。」


 その言葉に、会場は少しざわめく。


「私はそれを否定するつもりはない。」


「だが。」


 一拍置く。


「君はあまりにも厳しすぎた。」


 シャロンは何も答えない。


「民は君を恐れている。」


「貴族も商人も、君の名を聞けば身を固くする。」


「国を治めるには規律も必要だ。」


「しかし、人は恐怖だけではついてこない。」


 エドワードはゆっくりとリリアへ視線を向ける。


「私は、この一年で多くのものを見てきた。」


「病に苦しむ者へ寄り添う姿。」


「子どもたちの笑顔。」


「民の声へ耳を傾ける姿。」


 そして、少しだけ寂しそうに笑った。


「一方で、私は君と婚約して十年になる。」


「だが、一度でも二人で町を歩いたことがあっただろうか。」


 会場が静まり返る。


「誕生日を祝ったことも。」


「祭りを見に行ったことも。」


「ゆっくり話をしたことさえない。」


 シャロンは静かにその言葉を聞いている。


「君が見ていたのは、いつも書類だった。」


「国のためだということは分かっている。」


「だが私は……。」


 そこで言葉を切る。


「国を導く者には、人を安心させる温かさも必要だと思う。」


 その言葉に、会場のあちこちで小さく頷く者がいた。


 誰もエドワードを責めなかった。


 それは、多くの者が心のどこかで抱いていた思いでもあったからだ。


 エドワードの言葉が終わると、大広間は静まり返った。


 誰も口を開かない。


 楽団の演奏も止み、聞こえるのは燭台の炎が揺れるかすかな音だけだった。


 すべての視線が、シャロンへ集まる。


 怒るだろう。


 婚約破棄など受け入れるはずがない。


 そう思っていた者は少なくなかった。


 しかし、シャロンはゆっくりと一礼した。


「承知いたしました。」


 それだけだった。


 怒声もない。


 涙もない。


 取り乱すことさえない。


 その落ち着きが、かえって会場をざわつかせる。


「公爵令嬢様が……受け入れた。」


「反論なさらないのか。」


 囁きが広がる中、シャロンは静かに顔を上げた。


「殿下。」


「最後に、一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか。」


 エドワードは小さく頷く。


「何だ。」


 シャロンは真っ直ぐにエドワードを見つめた。


「殿下は、なぜ私と婚約していたのか、ご存じですか。」


 その問いに、会場の空気がわずかに揺らぐ。


 責めるような口調ではない。


 悲しみも怒りも感じられない。


 ただ、確認するような静かな問いだった。


 エドワードは迷うことなく答える。


「王家と公爵家の縁を結ぶためだ。」


「幼い頃から決められていた政略結婚。」


「それ以外に理由があるとは思わない。」


 シャロンは静かに目を伏せた。


「……そうですか。」


 短い返事だった。


 それ以上は何も言わない。


 何かを諦めたようにも、納得したようにも聞こえるその一言に、会場には言いようのない違和感だけが残った。


     ◇


 玉座の上では、国王が険しい表情で成り行きを見つめていた。


 隣に立つ宰相も、固く口を結んでいる。


 何度か口を開きかけるものの、結局何も言わない。


 その沈黙を破ったのは、エドワードだった。


「父上。」


 国王はゆっくりと息子を見る。


「これは私自身が考え、決めたことです。」


「誰の指図でもありません。」


「どうか、お認めください。」


 国王は長く息を吐いた。


 その表情は苦く、どこか疲れて見えた。


「……お前が決めたことであれば、今さら覆すことはできぬ。」


 その言葉は賛成でも反対でもない。


 ただ、静かに受け入れる響きを持っていた。


 宰相は目を閉じ、小さく頭を垂れる。


 誰も、その沈黙の意味を口にはしなかった。


     ◇


 リリアは不安そうにシャロンを見つめていた。


「シャロン様……。」


 小さく呼びかける。


 だが、言葉は続かなかった。


 自分が何を言えばいいのか分からなかったのだ。


 エドワードはそんなリリアへ穏やかな笑みを向ける。


「心配はいらない。」


「殿下……。」


「この国は、多くの優秀な者たちによって支えられている。」


 そう言ってから、エドワードは静かに続けた。


「シャロンがいなくとも、国は回る。」


 その言葉を聞いたリリアは、小さく頷いた。


 だが、その胸のざわめきだけは消えなかった。


     ◇


 シャロンは国王へ向かって深く一礼する。


「陛下。」


「これまで、お世話になりました。」


 それだけを告げると、踵を返した。


 裾を引く深紅のドレスが静かに揺れる。


 誰も引き止めない。


 誰も声を掛けない。


 左右へ分かれた貴族たちの間を、シャロンはまっすぐ歩いていく。


 その背中を見送りながら、若い貴族が小さく呟いた。


「これで……良かったのだろうか。」


 隣にいた男は肩をすくめる。


「殿下がお決めになったことだ。」


「それに、聖女様の方が王妃にはふさわしい。」


 そう言う者は多かった。


 だが、その輪の外で、宰相だけは静かに目を閉じていた。


 まるで、取り返しのつかない何かを見送るように。


     ◇


 夜空には、無数の星が瞬いていた。


 王城を離れた馬車の中は静まり返っている。


 向かいに座る侍女は、唇を噛み締めながら涙をこらえていた。


「お嬢様……。」


 震える声が漏れる。


「申し訳ございません。」


 シャロンは窓の外へ目を向けたまま、穏やかに首を横へ振る。


「あなたが謝ることではありません。」


 その声音は、王城で聞かせていた冷たさとは少し違っていた。


 疲れを隠すような、静かな優しさが滲んでいる。


 侍女は目を潤ませたまま尋ねる。


「これから……どうなさるのですか。」


 シャロンは夜の街を流れていく灯を見つめ、小さく息をついた。


「帰りましょう。」


 その一言のあと、少しだけ間を置いて続ける。


「お父様がお待ちです。」


 馬車は王都を離れ、公爵領への街道を静かに走り始める。


 その後ろでは、王城の灯がいつまでも夜空を照らしていた。



第三話 大公の怒り


 卒業記念舞踏会が終わる頃、公爵家の屋敷は静かな夜に包まれていた。


 広大な屋敷の執務室では、なお数人の文官が帳簿を広げ、大公アルヴェインは一日の報告に目を通している。


「北方街道の工事は予定通りか。」


「はい。今月中には第三工区まで完了する見込みです。」


「南方の交易船は。」


「予定より二日早く到着しております。」


 大公は短く頷き、次の書類へ手を伸ばいた。


 時計の針は、まもなく十時を指そうとしている。


 そろそろ舞踏会も終わる頃だ。


 娘も王城で最後の挨拶を済ませ、帰路についているだろう。


 そう思った、その時だった。


 執務室の扉が勢いよく開かれる。


「旦那様!」


 執事が息を切らせて飛び込んできた。


 普段はどんな時でも冷静な男が、ここまで取り乱す姿は珍しい。


 大公はゆっくりと顔を上げる。


「何事だ。」


「お、お嬢様が……!」


 一度息を整え、執事は続けた。


「お戻りになりました。」


 大公は思わず時計へ目を向けた。


「もう戻ったのか。」


 舞踏会が終わるには早すぎる。


 それに、帰宅の知らせが届く前に執事が飛び込んでくることもない。


 胸の奥に、小さな違和感が走った。


「一人か。」


 執事は一瞬だけ言葉に詰まる。


「……はい。」


 その短い返事だけで十分だった。


 大公は椅子から立ち上がる。


「応接室か。」


「はい。」


 それ以上は聞かなかった。


 長年、国政の中枢で生きてきた勘が告げている。


 何かが起きた。


 しかも、決して良いことではない。


     ◇


 応接室の扉を開ける。


 そこには、舞踏会で着ていた深紅のドレスのまま静かに座るシャロンの姿があった。


 姿勢は乱れていない。


 髪も美しく結い上げられたまま。


 しかし、その整いすぎた姿が、かえって父の胸を締めつける。


「お帰り。」


 大公は努めて穏やかな声で言った。


「ただいま戻りました、お父様。」


 いつもと変わらない返事。


 だが、それがいつも以上に遠く感じられた。


 大公は向かいの席へ腰を下ろす。


 侍女が静かに茶を置き、部屋を辞した。


 残されたのは父娘だけだった。


 しばらく沈黙が続く。


 やがて大公は静かに口を開いた。


「何があった。」


 問いは、それだけだった。


 シャロンは父の目をまっすぐ見つめる。


 そして、ゆっくりと頭を下げた。


「本日をもちまして、王太子殿下との婚約は解消となりました。」


 応接室から音が消えた。


 窓の外で揺れる木々の葉擦れだけが、小さく耳に届く。


 大公は娘を見つめたまま、しばらく何も言わない。


 やがて低い声で尋ねた。


「理由を聞こう。」


「殿下は、聖女リリア様を妃として迎えられるそうです。」


 シャロンの声は静かだった。


 責める響きも、悲しみもない。


 事実だけを伝えている。


 そのことが、かえって父の胸を痛めた。


「……陛下は。」


 一拍置いて続ける。


「ご存じだったのか。」


「はい。」


「止められなかったのか。」


「王太子殿下ご自身のお決めになったことだと、おっしゃいました。」


 その瞬間だった。


 鈍い音が部屋中に響く。


 大公の拳が、重厚な樫の机を叩いたのである。


 茶器が揺れ、中の茶が静かに波打つ。


「愚かな……。」


 低く押し殺した声だった。


 だが、その一言には燃え上がるような怒りが込められていた。


「愚か者どもが……!」


 シャロンは何も言わない。


 ただ静かに父を見つめていた。


 大公は立ち上がると、窓際まで歩き、夜空を見上げる。


 握り締めた拳は、小刻みに震えていた。


「シャロン。」


「はい。」


「お前は……何か言わなかったのか。」


 娘は静かに首を横へ振る。


「申し上げるべきことは申し上げました。」


 それ以上は何も語らない。


 大公には、その意味が痛いほど分かっていた。


 娘は説明したのではない。


 理解してもらうことを、諦めたのだ。


 その事実が、大公の怒りにさらに火を注いだ。


 やがて彼は静かに振り返る。


 その目には、先ほどまでの父親の顔はなかった。


 国を支えてきた大公としての、鋭い眼差しが宿っている。


「執事を呼べ。」


 低い声で命じる。


「家臣を全員、応接室へ集めろ。」


 執事は一礼すると、慌ただしく部屋を飛び出していった。


 その背中を見送りながら、大公は静かに呟く。


「どうやら……。」


「王家は、自ら国の柱を折ったらしい。」


 その言葉の意味を、この場で理解できた者は、まだ誰もいなかった。


 ほどなくして、執事に呼ばれた家臣たちが応接室へ集まった。


 財務を預かる文官。


 港湾を任される家臣。


 外交を担当する老臣。


 皆、大公の険しい表情を見て、ただならぬ事態を悟る。


「旦那様、お集まりいただきました。」


 執事が告げると、大公はゆっくりと頷いた。


 そして、部屋の中央へ立つ。


「先ほど、王太子殿下よりシャロンとの婚約解消が告げられた。」


 一瞬、部屋が静まり返る。


「なっ……。」


「婚約解消……。」


 驚きの声が漏れる。


 しかし、大公はそれを制するように静かに続けた。


「理由は、聖女リリア殿を王妃に迎えるためだ。」


 家臣たちは互いに顔を見合わせた。


 若い文官が、おずおずと口を開く。


「ですが……王妃が変わるだけではありませんか。」


 その言葉を聞いた瞬間、大公の目が鋭く光る。


「変わるだけ、だと?」


 低い声だった。


 怒鳴ってはいない。


 だが、その場の空気が張り詰める。


「お前たちも、そう思っていたのか。」


 誰も答えられない。


 大公はゆっくりとシャロンへ視線を向け、それから家臣たちを見回した。


「あの子は、王妃になるために育てたのではない。」


 その一言に、部屋の空気が変わる。


「王国を支えるために育てたのだ。」


 大公は静かに語り始めた。


「十歳になる頃には王国全土の収支を覚えさせた。」


「十二歳で穀物備蓄を管理させた。」


「十五歳からは貴族同士の利害調整に同席させ、商会との契約も任せた。」


 家臣たちは目を見開く。


 知らなかったわけではない。


 だが、それほどまでとは思っていなかった。


「第一港の整備。」


「北部街道の改修。」


「隣国との交易協定。」


「各地の税制改革。」


「王都の備蓄計画。」


 一つ一つ挙げられるたび、部屋の空気が重くなっていく。


 そして、大公は静かに言った。


「王太子教育も、あの子の役目だった。」


 その場にいた全員が息を呑んだ。


「殿下に必要なのは剣術だけではない。」


「国の見方を教え、政を支える者が必要だった。」


「それがシャロンだ。」


 若い家臣が震える声で尋ねる。


「では……婚約とは。」


 大公はゆっくりと頷いた。


「婚約とは、恋愛の約束ではない。」


「王家と公爵家が、未来の国政をともに担うという契約だ。」


「王家は王権を、公爵家は知恵と人材を差し出す。」


「その証として結ばれた婚約だった。」


 その言葉に、誰も声を出せなかった。


 第二話、シャロンが問いかけた言葉がよみがえる。


『殿下は、なぜ私と婚約していたのか、ご存じですか。』


 あの問いの意味が、今ようやく明らかになった。


     ◇


 大公は静かに机の上の鈴を鳴らした。


 執事が一歩前へ出る。


「命じる。」


 その声は、怒りよりも冷たかった。


「王家へ貸与している人材を、すべて引き揚げろ。」


「港湾運営の担当官もだ。」


「商会との共同契約も停止する。」


「隣国との交易協定は、公爵家名義へ切り替えろ。」


 家臣たちの顔色が一斉に変わる。


「お、お待ちください!」


 港湾を任される家臣が思わず声を上げた。


「それでは王都の物流が止まります!」


「税制改革も滞ります!」


「各地との調整役がおりません!」


 大公は静かにその男を見る。


「契約を終えるだけだ。」


「しかし、それでは王国が――」


「王太子殿下は仰った。」


 大公の声が、その言葉を遮る。


「娘がいなくとも、国は回ると。」


 部屋が静まり返る。


 大公はゆっくりと全員を見渡した。


「ならば、回していただこう。」


 その一言は、怒鳴り声よりも重く響いた。


 誰も反論できない。


 契約を終えるだけ。


 法も約束も破ってはいない。


 それでも、その決断が王国に何をもたらすのか、ここにいる誰もが理解していた。


     ◇


 家臣たちが退出し、応接室には父娘だけが残った。


 しばらく沈黙が続く。


 やがてシャロンは、静かに頭を下げた。


「申し訳ございません、お父様。」


 その言葉に、大公はゆっくりと首を横へ振る。


「謝るな。」


 娘の前まで歩み寄り、その肩へそっと手を置く。


「謝るべきは、お前ではない。」


 シャロンは何も言わない。


 大公は少しだけ目を伏せた。


「十年間だったな。」


「遊びたいとも言わなかった。」


「友と旅をしたいとも言わなかった。」


「恋をしたいとも言わなかった。」


 一つ一つの言葉が、父としての後悔を滲ませる。


「すべては王家のためだった。」


「王妃となり、この国を支えるためだけに、お前は生きてきた。」


 その声が、わずかに震える。


「……なのに。」


 それ以上、言葉は続かなかった。


 シャロンは静かに父を見つめる。


 大公は小さく息を吐き、いつもの穏やかな表情へ戻った。


「もう十分だ。」


「今日からは王家のためではない。」


 優しく娘の肩を叩く。


「これからは、公爵家のために働いてくれ。」


 シャロンは、ほんの少しだけ目を細めた。


「はい、お父様。」


 その微笑みは、王城では誰一人として見たことのない、娘としての穏やかな笑顔だった。



第四話 止まらない歯車


 婚約破棄から三か月。


 王都は初夏を迎え、朝市には色とりどりの野菜や果物が並んでいた。


 市場はいつものように賑わっている。


 行き交う人々の笑い声も変わらない。


 だが、その中で一人の主婦が首を傾げた。


「……あれ?」


 手に取ったパンを見つめる。


「昨日まで銅貨三枚だったわよね?」


 店主は申し訳なさそうに肩をすくめた。


「悪いな。」


「小麦が入ってこねぇ。」


「船が遅れてるんだ。」


「またですか?」


「ああ。」


 店主は困ったように笑う。


「来るには来るんだが、予定通りにゃ来ねぇ。」


 主婦は財布を見つめ、小さくため息をついた。


「今日は一つ減らそうかしら……。」


 その会話を、誰も気に留めなかった。


 王都では、よくある出来事だったからだ。


     ◇


 王都第一港。


 いつもなら朝早くから響く鐘の音は、まだ鳴っていなかった。


 岸壁には荷役人たちが腰を下ろし、海を眺めている。


「今日も来ねぇな。」


「昼前には着くって話だったろ。」


「風は悪くねぇのにな。」


 誰かが空を見上げる。


 雲ひとつない青空だった。


 やがて一隻の商船がゆっくりと姿を現す。


「来たぞ!」


 歓声が上がる。


 しかし船が接岸すると、荷役人の一人が眉をひそめた。


「荷が少ねぇ。」


 荷台には空いた場所が目立つ。


「予定の半分も積んでねぇぞ。」


 船頭は申し訳なさそうに頭を掻いた。


「向こうも品が集まらなかったんだ。」


「勘弁してくれ。」


 荷役人たちは顔を見合わせる。


「最近、こんなのばっかりだな。」


 誰も答えなかった。


     ◇


「工事を止めろ。」


 北部街道。


 現場監督の声が響く。


「石材が届かねぇ。」


「次の荷はいつです?」


「分からん。」


 職人たちは黙って道具を置いた。


 昼過ぎには終わるはずだった工事が、その日も延期になる。


「最近、多いな。」


「港が止まってるらしい。」


「困ったもんだ。」


 ぼやきながら、皆それぞれ家路につく。


     ◇


 王城では、朝から重臣会議が開かれていた。


「第一港の入港が遅れております。」


「穀物価格も上昇傾向です。」


「街道工事も遅延しております。」


 次々と報告が積み重なる。


 エドワードは書類を閉じ、静かに尋ねた。


「原因は。」


 部屋が静まり返る。


 財務官が立ち上がった。


「現在、調査中でございます。」


「港は?」


「原因不明です。」


「商会は?」


「契約更新を保留しております。」


「理由は。」


「……確認中です。」


 誰も原因を説明できない。


 いや、正確には――誰も原因を掴めていなかった。


 エドワードは窓の外へ目を向ける。


 王都は今日も穏やかだ。


 人々は笑い、馬車は行き交い、街はいつも通り動いている。


 それなのに。


 何かが、少しずつ狂い始めている。


     ◇


 その日の午後。


 王都最大の商会、ローゼン商会の主人が王城へ呼ばれた。


 壮年の商人は応接室へ通されると、深々と頭を下げる。


「お呼びいただき、ありがとうございます。」


 エドワードは挨拶もそこそこに切り出した。


「契約更新を保留していると聞いた。」


「はい。」


「理由を聞こう。」


 商人はしばらく黙っていた。


 部屋には重苦しい沈黙だけが流れる。


 やがて商人はゆっくりと顔を上げた。


「殿下。」


「我々が信用しておりましたのは――」


 そこで言葉を切る。


 その一瞬の沈黙が、応接室を張り詰めた空気で満たした。


 商人はゆっくりと顔を上げた。


「殿下。」


「我々が信用しておりましたのは――公爵令嬢シャロン様でございます。」


 応接室が静まり返る。


 エドワードは眉をひそめた。


「シャロン……?」


「契約書には王家の名がある。」


「それでも足りぬというのか。」


 商人は静かに頭を下げた。


「契約書だけでは商いはできません。」


 それ以上は語らない。


 しかし、その一言だけで十分だった。


     ◇


 数日後。


 隣国からの使者もまた、王城を訪れていた。


「現在の交易協定は、一度終了させていただきたく存じます。」


 使者は穏やかに告げる。


「担当者が替わられた以上、改めて信用を築く必要がございます。」


 その言葉に責める色はない。


 ただ、当たり前のことを述べているだけだった。


 エドワードは返す言葉を失う。


     ◇


 王都では、さらに小さな変化が続いていた。


「パンがまた値上がりだ。」


 市場で店主が肩をすくめる。


「悪いな。」


「船が来ねぇ。」


 隣の露店では干し魚が消え、酒場では客が減った。


 北部街道では工事が止まり、職人たちが積み上げた石材を眺めている。


「荷はまだか。」


「まだだ。」


 誰も怒鳴らない。


 誰も騒がない。


 ただ、小さな「いつも通り」が、一つずつ消えていった。


     ◇


 夜。


 王城の執務室。


 机には報告書が積み上がっていた。


 エドワードは一枚を閉じる。


「どうして……。」


 誰に向けた言葉でもなかった。


「どうして、私は何も知らなかった。」


 宰相は静かに答える。


「殿下は、お聞きになりませんでした。」


 短い言葉だった。


 それだけで十分だった。


 沈黙が部屋を満たす。


 やがてエドワードは目を閉じた。


 卒業記念舞踏会。


 静まり返った大広間。


 シャロンが最後に尋ねた言葉が、鮮明によみがえる。


『殿下は、なぜ私と婚約していたのか、ご存じですか。』


 あの時、自分は迷いなく答えた。


『政略結婚だからだ。』


 シャロンは少しだけ目を伏せ、


『……そうですか。』


 ただ、それだけを言った。


 あの一言に込められていた意味を、今になってようやく理解する。


 理解したところで、もう遅かった。


     ◇


 一方、公爵領。


 朝の港には鐘が鳴り響く。


 商船が岸壁へ着き、人夫たちが声を掛け合いながら荷を運ぶ。


 街道には荷馬車が列をなし、市場には新しい品々が並んでいた。


 シャロンは港を一望できる執務室の窓辺に立ち、その様子を静かに見守っている。


 執事から受け取った契約書へ目を通し、迷いなく署名した。


 大公は穏やかにうなずく。


「これで北方との交易も滞りなく進む。」


「はい。」


 シャロンは静かに書類を閉じた。


 王都を振り返ることはない。


 ただ、自らの務めを果たすだけだった。


     ◇


 夕暮れ。


 王都第一港。


 岸壁には人影がまばらだった。


 荷役人たちは海を眺め、帰るべきか、それとも船を待つべきか迷っている。


 鐘は鳴らない。


 鳴らす船が来ないからだ。


 エドワードは一人、高台から港を見下ろしていた。


 潮風が静かに吹き抜ける。


 ふと、朝焼けの埠頭を歩く一人の少女の姿が脳裏に浮かぶ。


 誰よりも早く港へ来て。


 誰よりも遅く城へ戻る。


 あの日も。


 その前の日も。


 きっと、そのさらに前の日も。


 彼女は、そこにいた。


 それなのに。


 自分は一度も、その背中を見ようとはしなかった。


 波が静かに岸壁を打つ。


 港の鐘は、その日も鳴らなかった。


  第五話 王太子の資格


 婚約破棄から半年。


 王宮には、目には見えない重苦しい空気が漂っていた。


 廊下を行き交う文官たちの足取りは以前より早く、誰もが手にした書類を胸へ抱きしめるように歩いている。


 以前なら朝早くから聞こえていた商人たちの訪問を告げる鐘も、最近では鳴る日が少なくなった。


 王都は変わらず賑わっている。


 市場には人が集まり、街には笑い声もある。


 それでも、この国を支えてきた者たちだけは知っていた。


 王国は、少しずつ確実に衰え始めていることを。


     ◇


 王宮執務室。


 国王の前には重臣たちが整列し、宰相が静かに報告書を開いた。


「北方との交易協定につきまして、ご報告申し上げます。」


 部屋中の視線が宰相へ集まる。


「本日付をもちまして、正式に終了いたしました。」


 国王は何も言わない。


 ただ静かに頷くだけだった。


 宰相は淡々と次の報告へ移る。


「西方諸侯三家は、公爵家との軍事同盟を締結。」


「王都商会の半数が公爵領へ拠点を移しました。」


「港湾収入は前年同期比三割減。」


「税収は二割減少。」


「穀物価格は依然として上昇傾向にあります。」


 一つ一つは報告に過ぎない。


 しかし、それらが積み重なるたびに、王国という大樹の根が少しずつ腐っていくようだった。


 誰も口を開かない。


 重苦しい沈黙だけが部屋を支配していた。


 やがて、その沈黙を破るように椅子が鳴った。


 エドワードだった。


「まだ終わってはいません。」


 王太子の声は力強かった。


「商人が去ろうと、港が止まろうと、この国には聖女リリアがいます。」


「民は彼女を慕っています。」


「人の心は失っていません。」


 その言葉には、自らを奮い立たせる響きも混じっていた。


 宰相はゆっくりと頭を下げる。


「おっしゃる通りでございます。」


「聖女様は多くの命を救っておられます。病人は癒やされ、民もまた感謝しております。」


 エドワードは安堵したように頷いた。


 しかし、宰相は静かに言葉を続ける。


「ですが……。」


 一瞬、空気が張り詰めた。


「契約は結べません。」


「税は集まりません。」


「港は動きません。」


「交易は成り立ちません。」


「国は、治まりません。」


 静かな声だった。


 それだけに、その言葉は鋭く胸へ突き刺さる。


 エドワードは思わず拳を握り締めた。


「では、どうしろというのだ!」


 思わず声を荒げる。


「リリアは国のために尽くしている!」


「民は彼女を支持している!」


「それでも足りないというのか!」


 宰相は視線を落としたまま答える。


「聖女様は民を救うことがお出来になります。」


「ですが、国を治めることは別の話でございます。」


 誰も続く言葉を口にできなかった。


 その意味を、この部屋にいる全員が理解していたからだ。


     ◇


 国王は静かに席を立つと、大きな窓の前まで歩いた。


 眼下には王都第一港が見える。


 かつては夜明け前から船が列をなし、鐘が鳴り、人々の掛け声が響いていた港。


 今は静かだった。


 岸壁には空いたままの荷場が目立ち、停泊する船もまばらである。


 国王はその光景をしばらく見つめ、小さく息を吐いた。


「余は……。」


 誰へ向けた言葉でもない。


「王を育てることに失敗したのかもしれぬ。」


 部屋の空気が凍りつく。


 誰も顔を上げられない。


 その時、執務室の扉が勢いよく開いた。


「陛下!」


 近衛騎士が息を切らしながら駆け込んでくる。


「西方より急報です!」


 宰相は書状を受け取ると、一読しただけで目を閉じた。


「……そうか。」


 国王は静かに問いかける。


「読め。」


 宰相はゆっくりと書状を開いた。


「公爵領への人口流出が止まりません。」


「商人のみならず、職人、学者、役人まで移住しております。」


「さらに隣国は、公爵家との新たな交易協定を締結。」


「我が国を経由する商隊は半減いたしました。」


 報告が終わる。


 部屋は再び沈黙に包まれた。


 国王は窓の外から視線を外さない。


 婚約破棄。


 公爵家との決裂。


 交易の停止。


 商人の離反。


 そして、王国の衰退。


 今となっては、すべてが一本の線で繋がって見えた。


 宰相は静かに一歩前へ進み、深く頭を下げる。


「陛下。」


「これ以上、国を危険に晒すわけにはまいりません。」


 国王はゆっくりと目を閉じた。


 その表情には、父としての苦しみと、王としての決意が入り混じっていた。


 やがて静かに口を開く。


「……分かっている。」


 そして、ゆっくりとエドワードへ向き直った。


「エドワード。」


「お前は、この半年で何を学んだ。」


 王太子は答えられない。


「何を見てきた。」


 静かな問いが、部屋に重く響いた。



 王太子は答えられない。


「何を見てきた。」


 静かな問いが、部屋に重く響いた。


 エドワードは俯いたまま拳を握り締める。


 頭の中には、この半年の出来事が次々と浮かんでは消えていった。


 止まる港。


 商人たちの離反。


 工事の延期。


 物価の上昇。


 そして、誰も口にはしなかった一つの名前。


 シャロン。


 婚約破棄の日、彼女は最後にこう尋ねた。


 ――殿下は、なぜ私と婚約していたのか、ご存じですか。


 あの時は意味が分からなかった。


 いや、分かろうともしなかった。


 政略結婚。


 それだけだと思っていた。


 だが今なら分かる。


 あの婚約は、公爵家と王家を結ぶためだけのものではなかった。


 国そのものを支えるための約束だったのだ。


 エドワードはゆっくりと顔を上げた。


「私は……。」


 言葉が続かない。


 何か言わなければならない。


 そう思うほど、何も言えなかった。


 国王は静かに息子を見つめていた。


「余は、お前に剣術だけを学ばせた覚えはない。」


「政を学ばせ、人を学ばせ、国を見ることを教えてきた。」


 その声は穏やかだった。


 怒鳴ることも、責め立てることもない。


 だからこそ、一言一言が重く響く。


「だが、お前は一番大切なものを見落とした。」


 国王はゆっくりと窓の外へ目を向ける。


 静まり返った港。


 荷の積まれていない岸壁。


 潮風だけが吹き抜けていく。


「王とは、人気者になる者ではない。」


「民に迎合する者でもない。」


「国を残す者だ。」


 部屋にいた誰もが、その言葉を胸に刻むように聞いていた。


 国王は再びエドワードへ視線を戻す。


「お前は民を愛していた。」


「それは疑わぬ。」


「だが、国を支える者を理解しようとはしなかった。」


 エドワードの肩が震える。


 ようやく、自分が失ったものの大きさを理解したのだ。


 しかし、その理解はあまりにも遅かった。


 国王はゆっくりと玉座の前へ歩み出る。


 その姿は父ではない。


 一国を背負う王だった。


「王国の混乱は、もはや看過できぬ。」


 誰も息をすることさえ忘れる。


 国王は静かに宣言した。


「本日をもって、王太子エドワードを廃嫡する。」


 言葉が響いた瞬間、部屋の空気が止まった。


 重臣たちは目を見開き、近衛騎士たちは思わず姿勢を正す。


 エドワードは膝から崩れ落ちた。


「お待ちください……!」


「どうか、もう一度だけ機会を。」


 国王は目を閉じる。


「父上……!」


 その呼びかけに、国王はゆっくりと首を振った。


「今ここにいるのは父ではない。」


「王だ。」


 その一言だけで十分だった。


 エドワードは俯き、床へ手をつく。


 国は、王が成長するのを待ってはくれない。


 その現実だけが、静かに彼へ突きつけられた。


     ◇


 同じ頃、公爵領。


 朝日を浴びた港には、今日も鐘の音が響いていた。


 大型商船が次々と入港し、荷役人たちが威勢よく声を掛け合う。


 荷車は街道へ向かい、商人たちは笑顔で契約書を交わしている。


 人の流れ。


 物の流れ。


 金の流れ。


 すべてが滞ることなく動いていた。


 港を見下ろす執務室で、シャロンは一枚の契約書へ静かに署名する。


 大公アルヴェインはその様子を見届けると、小さく頷いた。


「北方との契約もこれでまとまる。」


「はい。」


 シャロンは書類を閉じる。


 父は娘へ穏やかな視線を向けた。


「王都は、ずいぶん騒がしいそうだ。」


 シャロンは窓の外へ目を向ける。


 海の向こうから、新たな商船がゆっくりと近づいてくる。


「そうですか。」


 その返事だけで十分だった。


 彼女は王都を恨んでいない。


 復讐しようとも思っていない。


 ただ、自らの務めを果たしているだけだった。


     ◇


 その日の夕暮れ。


 王都第一港では、鐘は鳴らなかった。


 荷役人たちは岸壁へ腰を下ろし、静かな海を眺めている。


「今日も船は来ねぇな。」


 誰かが呟く。


 返事をする者はいない。


 波だけが静かに岸壁を打ち続けていた。


 王城の高台から、その港を見下ろす一人の老人がいた。


 国王である。


 静かな港を見つめながら、小さく目を閉じる。


 失われたのは、一人の婚約者ではない。


 失われたのは、一人の公爵令嬢でもない。


 長い年月をかけて築き上げられた信用であり、人と人を結ぶ絆であり、この国を支えてきた見えない礎だった。


 その価値に気づいた時には、もう取り戻すことはできなかった。


 港を渡る風だけが、静かに吹いていた。


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― 新着の感想 ―
あの聖女はどう思ってんのかが気になった。 笑顔だけじゃご飯食べられへんってね。
父でなく王だ。 この言葉に、自分の世代で終わりゆく国の王であると、息子も自分自身も見限っていたんでしょうか。 だから何もしなかったと。 あれこれなぁなぁと使者を向けたり、言い訳したり、傲慢な王命を出…
一つの家に国政を担わせすぎましたね。シャロンは正しく、有能な女性だったのでしょうが、根回しや感情面の説得は不得手なように感じました。その辺りを理解できていない王太子の教育も失敗しましたね。
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