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十センチの空、君の海

掲載日:2026/02/21

 日曜日、朝の公園はひんやりとしていた。


 公園に満ちる緑の匂いが体を包み込んでくれている。

 周囲にはちらほらと散歩中の人がいるだけ。多すぎず、少なすぎず、それぞれが絶妙な距離感を保って思い思いに過ごしている。俺も、そのうちの一人として風景に溶け込んでいる。

 ベンチに腰を下ろし、ふわふわと浮かぶ立方体に目をやった。

 今日の立方体は青空。日曜日になるたび現れる見慣れた光景だった。


 一辺十センチほどの不思議な立方体。

 透明な外枠に、空を四角に切り取ったように閉じ込めている。公園の木々や街灯をすり抜け、宙を漂っている。


「謎だなぁ」


 あらためてしみじみとつぶやいた。

 これが何なのか、何年たってもわからない。

 中学生のころから、日曜日にだけ姿を見せるこの立方体について、両親や医者に訴えたこともあった。だが、俺以外の誰にも見えない。見えないのだから嘘か幻覚かの二択にしかならない。

 こんな得体の知れない存在を信じてもらうことなんて不可能だと早々に諦め、自分の心にしまい込むようになった。

 いつの間にかもう二十五歳。

 平日は仕事して、土曜日は遊んで、日曜日はのんびりする。というか、だらだら無為に時間を過ごすことが多い。


「朝は散歩。健康的だね」


 皮肉を込めて独り言を呟き、スマホに視線を落とす。ぼんやりとSNSを眺める時間が嫌いじゃない。

 十センチの空がその存在をアピールするかのように顔の周りをくるくる回るが気にしない。今はSNSの時間だ。


「――岡田君?」


 突然、名前を呼ばれて顔を上げる。


「……え、鹿島?」


 思わず口から漏れた名前は、七年前まで毎日のように心の中で繰り返していたものだった。高校の廊下ですれ違うたびに、教室の窓際で座る姿を見るたびに、何度も呼んだ名前。


 高校時代の同級生、鹿島優愛が目の前に立っていた。


 落ち着いたベージュのワンピースを着た小柄な女性。高校の頃とは違う大人の女性だ。だけど、すぐにわかった。

 大きな茶色い瞳と整った鼻筋が澄んだ顔立ちを形作り、笑うと八重歯が少しだけ見える。肌は白く透明感がある。声は高すぎず低すぎない、穏やかな中音域で、話すときに少し前かがみになる癖がある。

 髪型は黒髪のボブカット。短くなった髪は以前より大人っぽさを感じさせたが、それでも彼女特有の柔らかさを失っていない

 あの頃と変わらない。清楚で親しみやすい女性。

 彼女は俺の顔をまじまじと覗き込んで、そして笑った。高校の頃と同じ仕草、表情。変わらぬ彼女の笑顔が目の前にあった。


「えっと、本当に岡田君だ。すごい偶然」

「や、本当に。え? すごいな」


 地元から遠く離れた東京での約七年ぶりの再会で、驚きのあまり言葉が出てこない。

 鹿島はよく俺に気付いたな。そう思ったけれど、俺だって彼女を見た瞬間すぐに分かった。


 あの頃の感情が一気に押し寄せてきた。

 教室の後ろから彼女を見つめていた日々、文化祭の準備で偶然二人きりになった教室、卒業式の日――。


 懐かしさとフラッシュバックする思い出に包まれる。

 そんな俺を、彼女は見て――いなかった。俺ではなく、俺の少しだけ右斜め上の方向を見つめている。きょとんとした表情で。


 何を見てるんだ?

 疑問を抱いた次の瞬間、俺も彼女の少し後ろにそれを見つけて、目をしばたかせた。

 約七年ぶりの再会の直後、俺たちはたっぷり十秒ほど沈黙した。


 先に口を開いたのは彼女だった。


「ねえ、岡田君。ちょっと変なこと言ってもいい?」

「あ、俺も変なこと言うかも」


 再び、僅かな沈黙の時間が流れ、俺と鹿島は同時に口を開いた。


「海が浮いてる?」

「空が浮いてる?」


 ◆


「本当にびっくりした。空に空が浮かんでいるのが見えたんだもん」

「俺もびっくりしたよ。七年ぶりに会った同級生に四角い海がまとわりついてて」


 俺には立方体の空、鹿島には立方体の海。

 確認した限り、空と海はほぼ同じもののようだった。

 日曜日にだけ見えること。他の人には見えないこと。触れないこと。だから、ずっと幻覚だと思っていたことも。

 ふと気付いたら現れていて、そしていつの間にか消えている。


「コレ、何だろうな」

「なんだろう……私は幻覚だと思ってた」

「俺も。でも違うみたいだ」

「お互いに見えてるんだもんね」


 鹿島の声が震えている。俺もただ頷くことしかできなかった。立方体が見え始めた中学の頃から数えて十年以上、一人で抱えてきた奇妙な存在。それが自分だけのものではなかったと知るだけで胸の奥がざわつく。


「岡田君はいつからコレが見えてるの?」

「中二から。鹿島は?」

「私は中一から」

「一年先輩だな」


 ぎこちない言葉を返しながら、隣に座る彼女をちらりと見る。近況を交わし、互いの変化を知るうちに、七年の空白がじわじわと実感される。

 彼女のことが好きだった。普通の同級生で、特別な出来事があったわけじゃない。ただ、彼女に惹かれていた。

 彼女ももしかしたら、と思ったこともある。だけど何もないままに卒業して、そして疎遠になった。


「もう七年か……なんか不思議だな」

「ほんとにね」


 少し間をおいて、鹿島はためらいがちに口を開いた。


「高校、同じだったのにね。岡田君がずっと怪しげな立方体に付きまとわれてたなんて知らなかったな」


 それは少しふざけた物言いで、俺は思わず笑ってしまった。

 鹿島のそういうところは昔と変わらず、好ましく感じる。


「いや、そうだな。俺も鹿島が小さな水族館を持ち歩いているだなんてまったく知らなかった」

「そうね、早く気付いていれば水族館の入場料が浮いたかもしれないのに。日曜日は海が見放題なの。ちょっと小さいけど」

「もったいないことしたな」


 高校時代に彼女と共有できたかもしれない時間を思って俺はそう返した。


「ほんとにね。三年間同じクラスだったのに気付かなかったなんて」


 鹿島はどこか寂し気な顔をしていた。少し沈黙した後、彼女は腕時計を見て声を上げた。


「あ、もうこんな時間」

「予定?」

「うん、お昼から……」


 名残惜しい。もう少し話していたい。誰にも話せずにいた自分の空、鹿島の海。

 彼女はゆっくりと立ち上がる。持ち物もカバン一つなのに忘れ物がないかベンチの周りを確認していた。ああ、そうか。たぶん彼女もそうなんだ。


「鹿島! また話さないか? 空と海について」


 こういう誘いは慣れておらず、上ずった声になってしまった。羞恥心で顔が赤くなる。


「もちろん。また話そ!」


 彼女は笑った。やっぱり高校生の時と同じ笑顔だ。さっきからずっと顔が熱い。恥ずかしくて、懐かしくて。

 連絡先を交換して彼女を見送った後、俺はベンチの背にもたれかかった。

 何だよ『空と海について』って。

 その日の午後、俺は立方体の空を何度も見つめ、その向こうにあるはずの海を思って過ごした。


 ◆


 翌週の日曜日、公園には淡い光が差し込んでいた。俺はやや緊張しながらベンチに座り、スマホで時間をちらりと確認する。先週交わした約束が、ふと不安になる。


「岡田君、おはよう」


 肩越しに声がして、振り向くと鹿島が立っていた。先週と同じ笑顔だ。


「おはよう。海、出てるな」

「そっちも。空が出てるね。遠くからでもすぐわかったよ」


 互いの立方体を互いに見つめて、そして二人で苦笑した。

 並んで座り、共通の知人が結婚をしただとか、最近の仕事だとか、近況を話したり、思い出話をしたり、なんてことのない雑談をしばらく続けていると、鹿島はぼんやりと遠くを見つめて口を開いた。


「高校かぁ……あの頃は絵の仕事をしたいって思ってた」

「そうなんだ? 知らなかったな」


 彼女がなりたいことすらも知らなかった。

 高校生の頃の自分は今よりも随分と子供で、彼女との会話の一つ一つに必死だった。必死だったから、話したいことも、聞きたいことも、何もかもが思うようにいかなかった。何にあんなに必死だったんだろう――そうだ、自分をよく見せようと必死だったのかもしれない。


「恥ずかしくて人には言えなかったの。中途半端だったんだと思う。結局、続けられなくて。今は生活するのに精一杯」


 鹿島は笑って言ったが、その声にかすかに後悔がにじんだように感じられた。


「俺も生活に精一杯だよ。ただ仕事をこなしてるだけで、やりたいこともないし」


 俺も鹿島もしばし沈黙し、どちらともなく笑う。


「似た者同士だね」

「かもな」


 小さく笑って鹿島は立方体を指さした。


「ね、コレなんで日曜日だけなんだろうね?」

「そこだよな。意味不明すぎる」

「最初は好きだったんだけど、いつからか憎たらしくなっちゃった」

「わかる。でも、こうして誰かと共有できて、なんというか……安心した」


 鹿島がうなずく。誰にも話せなかったことを共有できることが、妙に心強かった。


「また来週も会える?」

「もちろん」


 鹿島にそう聞かれたことがうれしくて、俺は即答した。

 笑顔で約束を交わし、俺たちはベンチを立つ。

 ふたつの立方体は静かに俺たちの周りを漂っていた。


 ◆


 偶然の再会から何度かの日曜日を経た。


 今日も日曜日。俺は鹿島とふたりで公園のいつものベンチに座っている。

 ペットボトルのお茶を手に持つ彼女を見つめながら、俺は自分の心の変化を感じていた。最初の驚きと懐かしさは、いつしか穏やかな期待へと変わっている。


「それで、あの後先生はどうしたの?」

「どうだったっけ。その辺の記憶が曖昧なんだよな」

「残念。長年の謎が解けるかと期待したのに」


 なんてことない高校時代の思い出話。こうして互いの記憶を紡ぎ合わせるうちに、七年という時間の隔たりが少しずつ埋まっていくのを感じる。

 偶然の再会から三度目、四度目と会うたびに会話は自然に流れるようになり、沈黙さえ心地よく感じられるようになっていた。

 彼女が笑うとき、目元に刻まれる小さなしわ。彼女が考え事をするとき、口元に添えられる人差し指。高校時代には気づかなかった彼女の仕草や表情の一つ一つが、今はしっかりと目に映る。

 憧れに近かったかつての感情は、今やたしかな想いへと変わっていた。


「空と海をさ……くっつけるとどうなるんだろうね?」


 唐突に鹿島がそんな事を言った。


「考えてもみなかったな」

「動かせる?」

「多少はね。『こっちだ』って強く念じれば」


 触ることはできないが、強く集中すれば移動させることができた。逆に、集中していなければふわふわと周りを漂ってしまうので、何かしているときは邪魔でしょうがない。特に運転中は危険だ。集中すれば視界をふさがないよう制御できるが、運転がおろそかになってしまうし、運転に集中すれば立方体に視界をふさがれてしまう可能性がある。


「念じる、ね。私もそんな感じ。やってみる?」

「爆発……いや、無いとは思うけど大丈夫かな」


 ずっと観察をしていたが何もわかっていない未知の存在だ。もしかしたら爆発ぐらいはするかもしれない。鹿島は爆発という言葉を聞いて少し顔を強張らせた。


「じゃあ、並べるのはどうかな。くっつけるまではしなくても、私の海を下にして、岡田君の空を上にしたらきれいなんじゃないかな?」

「なるほど。いいアイデアだ」


 今日の俺の空は都合よく快晴で、鹿島の海は綺麗なブルーだ。並べると一つの映像のようになるかもしれない。


「じゃ、この辺に動かそ。こっち、こっち……」


 鹿島はさっそく動かし始めたようだ。集中しながらも小さく声が漏れている姿は、何だか彼女らしくて微笑ましい。俺も彼女に遅れないように空に意識を集中した。

 数分ののち、空と海は上下に位置した。

 気を抜くと立方体が勝手に動いて鹿島の海にぶつかりそうになる。俺たちは立方体がぶつからないよう位置の固定に気を配りながらその光景を楽しんだ。


「おー……綺麗だね」

「ああ、思った以上に」


 何が起こるかわからなくてちょっと怖い。だけどそれは確かに美しい光景だった。

 空と海の小さな世界がたしかにそこにあった。二つの立方体じゃない。一つの連続した世界であるかのように。

 水面を通して差し込む太陽の光が青い海中に筋を描き、まるで自然の舞台照明のように海底を照らしている。その光の中を、色とりどりの魚たちが躍るように泳ぎ回っている。赤や黄色の熱帯魚が小さな群れを作りながら珊瑚の間を滑るように移動し、時折、青と銀色に輝くやや大きな魚が立方体の海を横切った。

 もしかしたら、この海に注いでいる太陽の光は俺の空を通してやってきたのかもしれない。そんなことを思っていたからだろうか。


「あっ!」


 立方体が揺れて、俺の空は鹿島の海へと吸い込まれるように下がり、衝突した。

 爆発はしなかった。だが、二つの立方体は現れた時と同じように何の音もなく、ふっと消えてしまった。


「消えた……」

「ごめん、俺が動かした」

「ううん、いいよ。最初はくっつけようと思ってたんだし。爆発もしなかったしね」


 彼女はいたずらっぽく笑う。俺は気を取り直して会話を続けた。


「それにしても、消えるんだな」

「うん。消えるとは思ってなかった」


 正直、爆発はしないと思っていたが、すり抜けて重なって見えるか、ぶつかって重ならないかのどちらかだと思っていた。消えるというのは予想外の結果だ。


「もう一回やってみようよ」

「そうだな」


 そうしてしばらく待ってみるが、立方体は出てこなかった。いつもならちょっと待てばすぐに出てくるのに。

 なんだか落ち着かない。このまま出なかったらどうしよう。そんな不安を振り払うように俺は軽口を叩いた。


「どうしたんだろうな。普段と違うことをしたから機嫌を損ねたかな?」

「ちょっとぶつかっただけだよ? 繊細な立方体だね」


 冗談を言い合って、二人で笑った。


 前は、別に出なくなっても構わないと思っていた。だけど、もしこのまま二度と出なかったら鹿島との時間は終わってしまうのだろうか。表面は取り繕いながらも、俺は内心ひどく焦っていた。

 この時間はすでに俺に不可欠なものになっているから。


 その日はもう、立方体は現れなかった。


 ◆


「なんだ、出るじゃん……」


 立方体が消失するという人生初の事態からちょうど一週間後の日曜日の朝。立方体は何事もなかったかのように現れた。安堵から深いため息がでる。


 俺ははやる気持ちを抑えきれず早朝に家を出た。

 今日の天気は雨だった。弱くも強くもない普通の雨だが視界は非常に悪い。というのも立方体が雷雨だからだ。立方体は雨や傘をすり抜けふわふわと俺の周りを漂う。稲光がチカチカして鬱陶しい。


「おはよう」


 いつものベンチにたどりつくと、背後から声をかけられた。振り返ると彼女だった。

 彼女は透明な傘を軽く回しながら立っていた。子供っぽい仕草に思わず微笑んでしまう。


「おはよう。今日はそっちからなんだ?」

「うん、雨の日は苦手なんだ。視界が悪くなるから。なるべく広い道を通って来たら回り道になっちゃった」


 いつもの彼女はベンチからよく見える公園の裏口から現れるのだが、今日は大通りに面した正面の入口を通ってきたようだ。

 雨粒が土を叩く音が少しずつ増して、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。


 俺は屋根のある東屋を指さして「今日はあっちで」と彼女に言う。

 水たまりを避けて十メートルほど歩いて東屋に入ると、雨音が木の屋根を叩く優しい音色に変わった。傘をたたんで水を払う。


 一息ついて俺は彼女のそれを確認する。


「……出てるな」


 彼女の立方体もちゃんと存在していた。


「うん、岡田君のも」

「なんだったんだろうな」

「そうだね、もう一回、やってみる?」


 そう言って、彼女はいつものように笑った。先週は何が起きるかとおっかなびっくりだったのに、一回やって問題がなかったとわかるとコレだ。なかなか大胆で面白い。

 ただ、これがどういうものなのか、それを紐解く一助になりそうな気もする。大胆な彼女の提案に乗ってみるのも一興かもしれない。


「ああ、でもその前にもう少し様子を見てみよう。今日の海はなんだか暗いな」


 魚を見るに深海ではなさそうだ。天気が悪いのかもしれない。


「うん、海面に近いところな気がするんだけど……雨なのかな? あ、岡田君の空は雨だね」


 彼女はそれぞれの立方体を見比べながら、顎に手を当ててつぶやいた。


「ふーん……もしかして、近付いた?」

「え?」

「立方体の中の場所。海が暗いのは空が雷雨だからってことはないかな?」

「……なくはない、かもな」

「もう一回やってみる?」

「だな。やってみよう」


 先週と同じように俺と鹿島は立方体の動きに集中した。少しずつ、少しずつ近づいていく海と空。

 そして、触れた。結果は先週と同じだった。


「消えたな」


 そして、二人して沈黙した。


――近付いた?


 ふと、さっきの彼女の言葉が頭をよぎる。立方体の正体はわからないけれど、少しずつ変わっていく自分を感じている。いや、彼女もきっと。

 あの時、高校の三年間。ずっと動かなかった時間。動きそうで動かないままに終わってしまった時間。そして、それから七年間ずっと動かなかった時間。

 それが偶然の再会から、今やっと動き始めている。動かしたいと、今なら動かせると。そう思っている。


「鹿島」「岡田君」


 俺が言葉を発すると同時に彼女も俺を呼んでいた。彼女は驚いた顔をしている。俺もそうだろう。少し慌てて彼女に続きを促した。


「え、あ。鹿島、先にどうぞ」

「ううん。岡田君が先に」

「じゃあ、その、カフェ……カフェにでも行かないか? コーヒー飲もう」


 彼女は驚いた顔をそのままに、少し大きめの声で答えてくれた。


「私も! そう言おうと思ってた。ね、おすすめのお店あるから連れてってあげる!」


 いつにもまして強引な様子の彼女がおかしくて、笑いながら俺は了承した。


 雨の中、傘をさして二人で歩きながら『立方体がないと視界がいいね』とか些細なことに共感しあう。自分の周りを十センチの立方体がふわふわ浮いている人間はそう多くはいないだろう。貴重な共感だ。こんな共感を得られる人は他にいない。


 カフェでは立方体の話はほとんどしなかった。高校の頃の思い出話もしない。好きな映画や小説、興味があること……鹿島と一緒にできたら楽しそうなことをたくさん話した。ふたりで笑いあって、時間は過ぎていく。


 昼になり、違う店でランチして、また話す。そして、気付けば夕方になっていた。さすがにそろそろお開きにした方がいいだろう。


「また来週」

「うん、またね」


 彼女の笑顔をもっと見ていたい。もっと近づきたい。心の底からそう思った。


 ◆


 梅雨が終わろうとしていた。相変わらず日曜日に二人で会う関係のまま。でもまったく変わっていないわけじゃない。一緒に食事をしたり、本を交換したり、映画を見たり、少しずつだけどやることが増えていた。

 立方体については、その正体を考察しながら多くのことを試していたのだけれど、結局はくっつけて消すことが多かった。

 会うたびにふたつの世界を近づけ消していく。そんな時間を繰り返していた。


 そして、ある日曜日の朝。

 彼女は俺に会うなり立方体の海を指さして言った。


「岡田君、上の方に海面が見えるようになったよ」

「本当だ。俺の空も下の方で水が跳ねてる。たぶん波だと思う」

「これは、やっぱり間違いないんじゃない?」

「海の色、明るさ、波の動き……たぶん俺の立方体が映す空と、鹿島の立方体が映す海はすぐそばにある」

「くっつけてるから、かな?」

「そうだと思うが……」

「……もう一回、やるとどうなるかな」

「どうだろう。同じ場所になるのかな?」


 これまでの変化から予想するに、たぶんあと一回くっつければ二つの立方体が映す場所に隙間はなくなるだろう。

 そしたら、次はどうなるんだろう。まったく同じ場所を映すようになるんだろうか。次、次は……あれ? 次があるのだろうか?

 突然、不安がよぎる。もしかしたら消えてしまって、もう二度と出てこない、なんてこともあり得るかもしれない。

 思考は一気に不安に塗りつぶされた。このままくっつけていいのだろうか。


 彼女を見ると、彼女はどこか強張った表情で立方体を見つめていた。彼女も不安に思ったのだろうか。


「ねえ、なんで私たちにはコレが見えるのかな?」


 俺の視線を感じたのか、鹿島が小さな声で疑問を口にした。その疑問はこれまでに何度も話してきたことで、毎回答えが出ないものでもあった。だけど今日はいつもと違い、その声は妙に静かで、どことなく緊張感が漂っていた。


「何だろう、やっぱりわからないけど……」

「私もわからない」


 彼女の口から漏れ出た声は、蒸し暑い梅雨の風にかき消された。

 不安を消すことはできず、けれど何もしないままでいることもできず、俺たちは静かに立方体をくっつけた。


 ◆


 次の日曜日、立方体は出なかった。


 長年ずっとそばにあったものがない。

 ずっと邪魔だったはずなのに、出ないとなると恐怖でしかない。

 なぜでない? 不安と混乱のまま、手をかざしたり、跳ねたり、止まったり、集中したり。何をやっても出ない。立方体が出てこない。

 先週、鹿島の海とくっつけたことが影響しているのだろうか。落ち着かない気持ちをどうにもできないまま俺は家を出た。

 立方体を伴わずに公園のいつものベンチに行く。そして彼女を待った。


 だが、彼女は現れなかった。


 俺は何もせずにしばらく公園で過ごした。彼女には連絡をしなかった。

 いや、連絡はしようと思った。だけど、気軽に連絡をすることができなかった。

 うっすらと感じていた。あの立方体が鹿島と俺を繋いでいる。

 だからこそ鹿島の海がどうなったのか気になったし、だからこそ確認することを躊躇った。

 俺の立方体が出ない。つながりが失われている。

 彼女に何かあったんじゃないか。そんな予感が頭をよぎり、すぐに振り払った。

 ただ急用ができただけだ。待ってれば連絡が来るだろう。


 自分から確認する勇気がなかった。


 立方体も彼女も現れない。その理由を考える事が恐ろしい。

 七年もたって、何も変わっていない。高校生の頃と同じ自分が今ここにいた。


 それから一週間。いつものように過ごそうと心掛けた。だが、そんなことできるわけがない。焦燥感だけが募る。

 彼女に連絡をすればいい。簡単なことだ。なのに何をこんなに躊躇っているんだろう。自分は何を恐れているのだろう。


――似た者同士だね。


 ふと彼女の言葉を思い出した。


「あ、そうか」


 ああ、あの時、俺たちは。

 唐突に自分の心の奥底にあるものに気が付いた。それは彼女と近づいていく喜びの陰にあったもの。

 ずっと恐れていたこと。中学生の頃からずっと恐れていたことだった。

 俺も、彼女も、未来を恐れていた。どこまでも広がる可能性を、それと同じだけの不安を。


 気付いた瞬間、自分の情けなさに腹が立ち、同時に彼女のことを思った。彼女はどうだろうか。俺と同じように、恐怖を抱いているのだろうか。

 自分のことなんかどうでもいい。彼女はどうしているのだろう。

 ただ彼女のことが気になって、気付けば電話をかけていた。


 ◆


「おはよう」

「……おはよう」


 日曜日、いつもの公園で会うことが出来た。

 彼女の顔は曇っていた。

 そんな彼女に向かって、俺は努めて平然と何でもないことのように話を切り出した。


「立方体が出ないんだ」

「やっぱり、岡田君も?」

「やっぱりってことは鹿島も?」

「うん……怖くなっちゃってさ」


 俺が何を言うべきか迷っていると、鹿島が先に話し出した。彼女もずっと考えていて、何かを決心したのかもしれない。


「私さ、イラストレーターになりたかったの。小学生の頃は楽しく絵を描けてた。でもね、だんだん人と比較するようになって、自分なんかダメだって、プロになれないって。そう思って。結局、何年か前に描くのやめちゃったの。やりたかったはずなのに、怖くてやらなくなった。やれなくなっちゃった。それからずっと息苦しい。ずっと、海の中で溺れてるみたい」


 彼女はまっすぐに俺を見ながら続きを話す。


「あの日、海が出なくなって思ったの。私はずっとあの小さな箱の中にいたんだ。なんで出ようとしなかったんだろう。何をしてたんだろうって。気付いたら怖くなった」


 そこまで言って、鹿島はうつむいた。


「俺もさ、思い出したんだ」


 自分の手のひらを見る。昔とは違う。大人になった自分の手を。


「あの頃、俺は全力でやりたかったんだ。具体的にこれってのはないんだけど、ただ目いっぱいやりたかった。でもさ、本気になれることがなかったんだよ」


 そして、鹿島を見る。彼女は俺を見ていた。


「甘えてたのかもしれないけど、見つからなかった。それで、ずるずると大人になった。本気になるのが怖かったんだ。ずっと、ふわふわと浮いてるみたいな、地に足がつかない感じ」


 俺の話を聞いて、彼女はぽつりと言った。


「焦燥感だけが募って、少しも進んでない」


 俺は頷く。


「そう、そんな感じ」


 少しだけ、二人で沈黙する。

 先に動いたのは鹿島だった。

 彼女は深く息を吸って、吐き出すように言葉を放った。


「もう迷ってられなくなっちゃった。私ね、仕事辞めて地元に帰って、もう一度頑張ってみる。だから、この公園で会うのはこれで最後」


 彼女はちょっとだけ泣きそうな顔で、俺に笑いかけていた。

 彼女の言葉に、彼女の表情に、俺の心臓が跳ねる。鼓動が早くなる。だけど、言いたかったことを言わなければならない。


「俺も気付いた。自分の人生とちゃんと向き合わなきゃいけない」

「じゃあ――」

「違う、鹿島――」


 彼女の言葉を遮って俺は話す。


「――俺、君が好きだ」

「うぇっ!?」


 彼女は一気に顔を赤くする。この数か月では見れなかった顔。そして高校時代を思い返しても見たことがない顔。


「今更なんだけどさ、高校の時から好きだった。立方体がどんなものなのかなんてどうでもよくて、ただ俺はちゃんと自分の気持ちに素直になるべきだって思ったんだ」

「え、あの……え?」


 鹿島はあたふたしている。俺の気持ちに気付いていなかったのだろうか。


「地元に帰るなら遠距離でもいい。なんなら、その、一緒に住まないか? いや、早すぎるか」


 気が急いてわけのわからないことを口走ってしまった。

 彼女は少しだけ目を丸くして、そして口を押えて大きく笑った。


「……ぷっ……あははは」


 屈託のない笑顔にさっきまで張り詰めていた何かがとかされていくようで、俺もつられて笑ってしまった。

 しばらく笑って、彼女は目尻の涙をぬぐいながら話す。


「ねえ、岡田君」

「ん?」


「私も、あなたが好き」


 不意打ちで返事をもらって体が硬直した。顔が赤くなるのがわかる。そんな俺の手を、鹿島がそっと握った。


――その時。


「海?」「空?」


 慣れ親しんだソレがいつものように音もなく、そこに現れた。

 ただし、一つだ。


 空と海。


 一辺二十センチほどの立方体がひとつ。まばらに雲が見える綺麗な青空に、エメラルドグリーンの海。美しいソレはふわふわと俺たちの周りを漂っていた。

 しばらく俺たちはただ呆然とそれを見つめていた。


「ふたりでつくった立方体ってこと?」

「どういうことなんだよ」


 意味がわからなすぎて二人で笑ってしまった。


「これってどこかが映ってるのかな? それともこの中に世界があるのかな?」

「さあ、どうだろうな」


「ねえ、こんな風にも思えてこない? もしかしたら、いま私たちが生きているこの世界も誰かと誰かと……たくさんの誰かが重ねてつくった世界なのかもって」


 謎の立方体。未来を恐れて本気になれない俺と鹿島に見えた小さな世界。これがどういう意味を持つものなのかはわからない。これが俺を閉じ込めるものなのか、守るものなのか、それともまったく違う意味を持つものなのか。


 意味はわからないけれど、コレのおかげで俺と鹿島は繋がった。それは間違いない。


「ねえ、岡田君」

「ん?」

「一緒に住むのもいいかもね」


 彼女は少し八重歯をのぞかせて、イタズラっぽく笑って言った。


おわり

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