第1話 「知ってるよ」の壁(春休み直前)
春休みを目前に控えた大学キャンパスは、どこか浮き立った空気に包まれていた。講義棟の前では友人たちが旅行の予定を語り合い、海風に似た湿った空気が、季節の変わり目を静かに知らせている。鎌倉育ちの相沢湊は、そのざわめきの中でひとり、胸の奥に小さな緊張を抱えていた。
今日は教育実習の事前指導。五月には母校の中学校で日本史の授業を担当する予定だ。地元の歴史を教えるなんて、これ以上の適任はいない――そう思っていた。……いや、思い込もうとしていたのかもしれない。
「では、相沢くん。自己紹介と、実習でどんな授業をしたいか話してみて」
教授の穏やかな声に、湊は立ち上がった。
「はい。僕は鎌倉生まれの鎌倉育ちです。小さい頃から八幡宮や大仏に親しんできましたし、鎌倉時代については自信があります。なので教育実習では、その経験を踏まえて教えていきたいと思います」
言いながら、胸の奥にほんの少し誇らしさがあった。同時に、ほんの少しの不安もあった。――本当に自分に授業ができるのか。――母校の先生たちに見られるのが怖い。そんな弱さを、湊は自分でも認めきれていなかった。
教授はふっと笑みを浮かべた。
「うん、地元の強みを活かすのはいいね。ただ……君が教える相手も、鎌倉生まれの鎌倉育ちだよね」
湊の胸に、冷たい風が吹き抜けた。
「え……まあ、そうですね」
「彼らは、八幡宮も大仏も、遠足で何度も行っている。“鎌倉時代?ああ、あれね”って顔をする子も多いはずだ。歴史が日常に溶けすぎている街では、“わざわざ習うものじゃない”“知ってるよ、もう”と思われやすい」
湊は言葉を失った。
教授は続ける。
「鎌倉は歴史が“ありすぎる”街なんだよ。知識が空気みたいに漂っている。でもね、空気は、意識しないと見えない。そこで君は、どうやって“学ぶ意味”を示すつもりなんだい」
湊の喉が、きゅっと締まった。
どうやって――そんなこと、考えたこともなかった。
自分は鎌倉を知っている。だから教えられる。そう思っていた。
でも、生徒たちも同じように鎌倉を知っている。いや、むしろ“知っているつもり”のまま、興味を失っているかもしれない。
教授は窓の外の桜を見ながら、静かに言った。
「歴史を“知識”として扱うと、すぐに飽和する。でも、歴史を“発見”として扱えば、どれだけ知っていても面白くなる。君自身が、鎌倉を学び直す旅をしてみるといい。知っているつもりの街が、どれだけ深いか。それを体験した人間だけが、生徒に“学ぶ意味”を伝えられる」
湊はゆっくりとうなずいた。胸の奥に、静かだけれど確かな火が灯る。
――僕は、本当に鎌倉を知っているのか。
教室を出ると、春の風が頬を撫でた。遠くで江ノ電のベルが鳴り、観光客が鳩サブレーの袋を揺らしながら歩いていく。その光景が、急に違って見えた。
湊はスマホを取り出し、メモアプリを開いた。タイトルを打ち込む。
『鎌倉フィールドワーク — “知ってるよ”を越えるために —』
画面に浮かぶ文字が、冒険の旗印のように見えた。胸の奥が熱くなり、指先がわずかに震える。
春休みが始まったら、鎌倉を歩き直そう。散歩でもいい。気になった場所に立ち寄るだけでもいい。“知ってるつもり”の街を、もう一度、自分の足で確かめてみよう。
そう思った瞬間、湊の中で、鎌倉という街が“冒険の舞台”に変わった。
春休みは、もうすぐ始まる。




