4-1.海
家に帰ると、有無を言わさず、水着に着替えさせられた。
「水着着終わったら、上、Tシャツな。下もなんか履くように。水着のまま出歩くの禁止だから」
「了解」
寝室に使っている客間で着替えていれば、すっかり着替え終えた虎太郎が、それだけ言い残し、他に持っていくものがあるからと、部屋を出て行った。
いったい、何が起こるのか。とりあえず、海に行くことだけは分かる。
釣り、なのか?
でも釣りにしては、水着にわざわざ着替えるのも。
海水浴は時々していた。採取が一段落したあと、クールダウンも兼ねて泳ぐ事はあって。それとは、違うのだろうか。
とにかく、言われた通り、上からTシャツを羽織って、下はハーフパンツを履き終えた頃、ザックを背負った虎太郎が現れた。
「うん、準備完了な。行こ!」
「あ、はいっ…」
手を引かれ、急かされるように家を飛び出す。背負うザックは軽そうで。いつものように、ガチャガチャ音もしない。
そうしてバスに乗って港に到着すると、虎太郎は待っていたおばちゃんに手を振る。その背後には一艘の船があった。漁船だ。
白塗りの船体に黒字で『勝太丸』とある。後で知ったが、船長の息子の名前らしい。
「今日はありがとうございます! ──これ、そうですか?」
「そうだよー。小さい漁船だから、気をつけてね?」
「はい!」
そう言って、元気よく返事をした。
それから、船の舳先にいた六十代後半くらいの男性に近寄って、何事か話しかけている。にこにこと笑い、楽しそうだ。どうやら、知り合いらしい。
薫は、話を終えてこちらに戻ってきた虎太郎の袖をひく。
「なんですか? 漁船、乗るんですか?」
やはり釣りだろうかと思えば。
「そう。漁船に乗って──ジャジャーン! なんとイルカを見に行く! そして、運がよければ一緒に泳ぐ!」
「…イルカ、一緒に泳げるんですか?」
「もちろん! けど、泳がせてもらう、が正しいな。あと、その前に浅瀬で泳ぎの練習はするぞ? 薫、シュノーケル、したことは?」
「あ…。いや。ちゃんとやったことは…」
子どもの頃、遊びでつけた記憶があるくらいだ。いつか、ダイビングの免許が欲しいとはぼんやり思っていたけれど、実現できてはいない。
「じゃ、さっそく練習! 練習もしないで突然、海に出ると危ないからな。下手すると溺れるぞ? 出発はそれからだ」
「え? 練習?」
虎太郎は、とまどう薫の腕を掴むと傍の東屋に行き、服を脱ぎだす。薫も下のハーフパンツだけを脱いだ。
ラッシュガードも持ってきていないため、素肌だと日焼けしてしまう。流石にこれ以上、焼けては、帰ってから蒼木にどやされるだろう。
薫が脱ぎ終わると、虎太郎はザックからフィンとシュノーケル、マスクを二組取り出した。
そうして薫を振り返り。
「予備で持って来てるんだ。丁度、良かった。で、さっそく浅瀬で使い方の練習な? まずはフィンの履き方と、マスクのつけ方からだ」
そう言って、二人分のマスク、シュノーケル、フィンを抱え砂浜に来ると、指導を開始した。まるで教官のようだ。
虎太郎はまず、マスクを手渡すと。
「取り敢えず、つけてみて。髪は巻き込まないように──そうそう。あまりきつくし過ぎないようにな。水圧で押し付けられることも考えて、適度にな? 緩くても外れるから、初めのうちは、入りながら調節すればいい。で、フィンは、こう、かかとをひっくり返して──そうそう。で履いて。で、歩き方は正面じゃなく、横かバックで──うん。そう!」
もう、言われるがままだ。突然はじまった虎太郎の講義に、薫は必死でついていく。
マスクのレンズ面には曇り止めがつけられている。つけると少しきついくらい。もう少し、緩くてもいいのかもしれないが、今はこれで行こうと思った。
「マスクはあんまりきつくし過ぎると、水中でカマキリみたいになるからな?」
「カマキリ?」
「そ。水圧でマスクが押されて、目がこうきゅっとつり上がって細くなっちゃう。それで水中写真撮られると、ちょっと後で恥ずかしい…。仮にもアイドルなら、それは嫌だろう?」
仮にも──ではないが、誰にも見られないとは言え、確かにアイドルを職業としている者が、そんな姿はさらせない。
「今はこれくらいで?」
「──そうだな。うん、とりあえずこれくらいで。じゃ、俺の手につかまって顔つけてみて。それでバタ足な?」
「うん…」
薫は虎太郎の後に続いて、波打ち際から海水に入る。水はヒンヤリとした。けれど日差しが強いせいで、そこまで冷たさを感じない。
「バタ足もばちゃばちゃ水面を叩かないように。水中でゆっくり大きく、かくような気持で。さ、いってみよう!」
「……」
すっかり、先生だ。
薫は言われた通り、伸ばされた虎太郎の手につかまり、シュノーケルを咥えると、足を伸ばし顔をつけバタ足をする。
水中には岩があり、砂があり。海藻や小魚が泳ぐ。透明度はいいほうだと虎太郎が言っていた。
「な? 楽しいだろ?」
薫は頷く。シュノーケルを咥えているお陰で返事はできないのだ。
もう少し見たくて、顔を突っ込んだ所で、突然、塩辛い海水がシュノーケルから入り込んできた。
「っ?!」
若干飲み込んだ上に、息ができなくなる。
慌ててそこに立ち上がった。立てば、ひざ上くらいの深さだ。手を放した虎太郎は笑っている。
「そう。シュノーケル、水がそうやって入って来るだろ? そういう時は──」
虎太郎は海水を口に含む。それから俺を見た後、それをまた吐き出した。
「これ、海水飲んでないだろ? それと同じだ。口に入ってきても、飲まない。で、息を勢いよく、吐く──で、海水がシュノーケルから出ていくんだ。ようはクジラとかのイラストと一緒だよ。よく、頭から水はいてる絵があるだろ? あれ、本当は鼻なんだけど、とにかく、イメージはあんな感じ。海水が入ってきたら、飲まずに喉で止めて、残ってる息を強く吐く。それで吹き飛ばす。わざと海水いれてやってみよう!」
「…なんだか、すっごく楽しそうですね?」
「うん! 俺、運動音痴だけど、海水の中だとそれ関係ないだろ? これだけは薫に勝ててる気がする!」
だからか。はりきってるのは。
意気揚々としている。内心、苦笑をもらしつつ、先ほどのようにワザと海水をシュノーケルに入れて、吹き飛ばす練習をした。
幾度か繰り返すうちに、だんだんとコツを掴み、海水も飲み込まず、息も吐き出せるようになった。確かに、クジラが水を吐き出すのと同じだ。
「よっし。じゃ早速行きますか?」
それが出航の合図となった。
イルカは島の周辺に住んでいるため、そこまで沖にでなくてもいい。顔をあげれば、島が見えた。
「波の間に、背びれが見えるんだ。それで、イルカを探す。よーく見てないと見逃すし、波と間違えやすいから」
「ふーん…。背びれ、か…」
サングラスをした目で海面を見渡すが、確かに波と背びれとは判別がつきにくい。きっと見慣れればすぐにわかるのだろうけれど。
虎太郎もサングラスをかけていた。日に焼けた虎太郎にはよく似合っている。羽織ったシャツが風にはためき、潮風が髪をなびかせた。
いつもは年齢以上に幼く見えるのに、ふとした瞬間、大人になる。
かっこいいな。
素直にそう思った。
「あ! いた! ほら──」
「どこ、どこ」
虎太郎の傍に立って、指をさす方向を見た。
「ほら、あそこ──」
丁度、船首から二時の方向に、浮かんでは沈む背びれが見えた。ゆっくり移動している様で。
興奮した虎太郎の頬が、薫の屈んだ顔に寄せられる。触れんばかりに近いのに気づいて、ドキリとした。
「虎太郎! これなら見られると思うぞ! 入るか? 薫は浮かんで上から見るだけだけど」
「もちろん!」
「よし。じゃ、船長よろしくお願いします!」
「おう!」
そう言うと船長は、船を大きく迂回させイルカの進む方向へと転じた。その間に虎太郎は船の横のへりに手をかけ。
「エンジンきったら、入るから。慣れないうちは波が怖いと思う。とにかく力を抜いて浮かぶこと。そうしていれば、絶対沈まないから。シュノーケルに水が入ったらさっきの要領で吹き飛ばす。俺がすぐ横にいるから」
「わかった」
それで、マスクをつけて、フィンを履いて。
虎太郎と同じようにヘリに座る。薫にはライフジャケットが装着されていた。慣れない海では溺れる可能性が十分あるからだ。
「上がるときは梯子、だしてもらえるから。船にはエンジン切ったら近づくように」
「了解」
「よし」
「虎太郎!」
船長が声をかけ、エンジンが切られる。そのすぐ後に、
「じゃ、行くぞ!」
そう言って、虎太郎は海に飛び込んだ。──とは言っても、水泳のように頭からドボンではない。ヘリから降りてそっと入った。同じようにそれにつづく。