2.雨
坂を上りきると、生け垣の向こうに家屋が見えた。この地方では当たり前の、赤い瓦が目印だ。
今まで通って来た道は、丁度、家の前で細くなって消えていた。なるほど、確かに行きつく所まで行った感がある。終点、と言ったところか。
「えーと、鍵は…」
ゴソゴソと、肩に掛けたザックの中を探る。先ほど出会った、松岡のぎっちり詰まったザックと比べると、まるで子どもサイズだ。
鍵は母親の親戚、祖母の従兄弟の弟の奥さん──以降、おばちゃんで──が管理していて、港に着いた時、手渡されていた。
家の中には、寝具も、当面、必要になりそうな食料も用意してあるからと言われている。至れり尽くせりだ。
足りなくなれば、商店街まで買いに出るか、週に三回、トラックで回って来る出張スーパーで買えばいいらしい。
「あったあった…」
探った内ポケットに、鍵を見つける。鈴と共にイルカのキャラクターのキーホルダーが付いていた。
この島の周囲には、イルカが住んでいて、沖まで行かなくとも周辺で見られるらしい。
見たいな…。
都会では水族館以外で見たことはない。おばちゃんが、知り合いの漁師に頼めばいつでも見られるから、と言ってくれた。
せっかくだから、見ない手はない。ここでは、何もやることがないのだから。
まあ、何もしない為の休養だしな。
その為にここへ来たのだ。
仕事のことはすっかり忘れて、ボーッと過ごすため。でも、規則正しく生活を送るようにとは言われている。
幾らのんびりと言っても、夜更かしして、昼夜逆転しては意味が無いのだ。
向こうでは、なかなか寝付けなかったため、医師から睡眠導入剤を処方されている。あっちにいた時は、これがないと眠れなかった。
ここに来て、薬なしで眠れたらいいんだけど…。
薫は鍵を手に、玄関へ向かった。
昔ながらの引き戸の玄関で、ガラスの格子戸となっている。鍵穴へ、鍵をガチャガチャと何度か入れたり、抜いたり、また挿したりして、ようやく開いた。
「よっと…」
引き戸に手をかけて横に引くと、ガラガラ言うものの、思いのほか軽く動いた。拍子抜けする。きちんと管理されているからだろう。
玄関のたたきは、まあるい石が敷きつめられていて、なんだか可愛らしい。
どこかに、ネコの足あとも残っていると、幼い頃、母暁子が言っていたのを思い出す。塗ったばかりのコンクリの上を歩いてしまったのだ。
それはあとで探すとして──。
そこから、室内を見渡した。正面は壁だったが、横には廊下が奥まで繋がっている。その廊下を挟んで、居間やら客間、台所が付随していた。建具の多さに、部屋の広さがうかがえる。
広いな…。
記憶には残っていないため、初めて見るのと一緒だ。
カーテンを引いたままのため薄暗いが、奥行きはかなりある。大家族ならまだしも、たったひとりで過ごすのには躊躇われる広さだ。
薫の実家は、父母姉の家族構成だが、ここと比べればかなり手狭になるだろう。
ここでひとり、か。
玄関先で腕を組む。リラックスどころか、逆に緊張しそうだった。
が、とにかく、ここで立っていても先へは進まない。上がって中をみてみよう。
──と、スニーカーを脱ぎ、上がりかまちに足をかけたとたん、ぎしときしむ音がした。
これは。
かなり年季が入っている。小柄とは言えない薫が乗れば、穴でも空きそうな勢いだ。
それ以上、足を乗せるのをためらったが、このままでは部屋に入れない。えいやと勢いをつけて上がった。
ギシギシと歩く度に鳴ったが、もう仕方ない。気にせず中へと進む。
手前の障子を開ければ、居間となっていた。
板の間で、中央が四角く切り取られたように板が張られている。そう言えば、母が昔は囲炉裏があったと言っていた。その名残りだろう。
二間続きの部屋の奥に、仏間があったが、今はすっかり片付けられていた。
左手、すぐ隣は台所となっている。キッチンの方が響きはいいが、ここでは台所の方がよく合っていた。引き戸を開け放てば、居間とひと続きの、かなり広い空間となるだろう。
その居間には縁側があり、外には適度に手入れされた庭が広がっていた。
植えられているのは、ヤマブキ、レンギョウ、ジャスミンにアジサイ。モミジ。その他もろもろ。それぞれの季節が楽しめる様になっているらしい。すべて母からの受け売りだ。
春になればヤマブキや、レンギョウが。夏になれば、ジャスミンが白い小さな花をつける。
秋になると、モミジが葉を真っ赤に染め、冬には花の代わりに、わずかに積もった雪が花のように庭を彩って。
母が高校生まで過ごした実家は、いつも何かしらの季節の色に包まれていたと言う。
今は、夏。
流れてくる甘い香りを吸い込んだ。ジャスミンだ。この香りは、幼い頃、母から教わった。見た目は派手ではないが、その存在を知らせてくる香り。
意外に、のんびりできるかも。
縁側の網戸も開け放って、大きく息を吸い込んだ。
寝室は廊下を挟んで反対側。ふすまの向こうに畳敷きの部屋があった。こちらも縁側があって、部屋を半分囲んでいる。玄関側にもあるから、来訪者がよく見えた。
脇に置かれた布団も新しいのを用意してくれてある。干してくれたのか、ふかふかだ。
なんか、新鮮だな。
今、親元から離れ住んでいるマンションは、すべてフローリングで。畳の匂いなどまずしない。
事務所が選んだ、セキュリティ万全の部屋だ。
住み心地はそれなりにいいが、窓を開けても緑が目に入ることはまずない。
と言うか、ベランダには立つなと言われていて──もしかして、誰かに撮られる可能性があるからだ──立てば、そこから緑が見えたかも知れないが、とりあえず、見える範囲にはなかった。
けれど、ここは嫌というほど緑が溢れていて、隠れなければならない人の目もない。
誰も気にしなくっていいって、気楽だな…。
畳に足を投げ出しぺたりと座って、庭を眺める。ひんやりとした畳が心地いい。
網戸越しに涼やかな風が通り抜けて行って、薫の前髪をかき上げて行った。
ここでひと月──。
のんびりしすぎて、都会に帰れなくなる気がした。
と、居間にある時計が午後四時を知らせる。夕食にするにはまだ早い。
ちなみに、高校生と言えども、ひとり暮らしは長い。親元を離れて過ごすうち、家事炊事はそれなりに出来るようになった。
とは言っても、かなり適当で。調理方法は、焼く、炒める。以上。だ。
あとで、冷蔵庫の中を確認しておかないとな。
作っても、野菜炒めか、肉を焼くくらい。簡単なそれは、そう時間もかからない。
それまで散歩ついでに、見て回るか。
この周辺はまだ良く分からない。走り回ったのは遠い昔で記憶もなく。家がまばらなのは確かだ。家の隣は畑になっていて、夏野菜が植えてある。おばちゃんの畑だ。
ナスにキュウリにピーマン、トマト。トウモロコシにオクラ。キャベツにブルーベリーもある。
好きなだけ、採っていいと言われていた。これなら、生鮮食品以外、当分、買い物は必要なさそうだ。
その生鮮食品を買う、港の商店街までは四キロほど。歩いて一時間はかからない。しかも下りだ。ゆっくり歩いても、四十分くらいだろう。いい運動になる。それに加え。
朝か夕方、走ろうかな?
それまでは、ジムに通っていた。何かしないと、身体も緩むし体力も落ちる。日焼けは厳禁と言われているから、できるだけ、日が昇らない時間か、落ちてからがいいだろう。
ちなみに、危険な動物はいないと言われていたから──熊やイノシシ、毒蛇など──そこは安心していい。
帰ってきたら、太ってたなんて、目もあてられない。
マネージャーの蒼木が鬼のように怒るだろう。
と、そこで端末の存在を思い出した。蒼木から返事が返ってきているはずだ。
手を伸ばしかけて──やめた。
もうしばらく、現実から離れて過ごしたかったのだ。
それから、薫は長旅の疲れが若干見えるスニーカーを履き直して、家を出た。
とりあえず、まず、家の周囲をぐるりと巡る。
周囲に塀はなく、生け垣が植わっていて、その向こうに畑が広がっていた。家の裏手は森になっていて、その先に岩肌の剥き出しになった小高い山がある。
よくある田舎の風景だ。
家が建つ場所は、山裾、丘の中腹。畑を手前に眼下には、真っ直ぐな水平線が広がる海が見える。
その海の向こうに、雲が湧き上がり、雨柱が立っていた。雲はこちらに向かって流れて来ている。
もしかしたら、こちらもじきに雨が降るかも知れない。降ったとしても、あの分だと通り雨だろう。母もよくスコールがあると言っていた。
なんだか、自然が濃いな…。
鈍色の海原には、雲の合間から、所々日がさしていて、スポットライトが当たっているよう。
そうして、時間の許すまま、土手の端に座って、ぼんやり海を眺めていた。
家に帰って、夕食の支度を始めた所で、ポツポツと雨が振り始めた。台所から見える紫陽花の艷やかな葉が、雨粒に揺れ始める。
そこから、一気にザァッととつぜん、大降りになった。雨のカーテンだ。
風は殆どないから、家の中へ吹き込むことはないが、代わりにひんやりとした空気が流れ込んでくる。
なんか、降り方。南国っぽい。
そこまで、南国とは言えない位置にある島なのだが、降り方は負けていない。かなりの土砂降りだ。
窓の外の様子を気にしつつ、出来たばかりの、豚コマとキャベツ、タマネギの焼肉だれ野菜炒めを台所のテーブルの中央に置いた。
他にご飯と味噌汁、冷や奴にタッパーに入って冷蔵庫にあったキュウリの漬け物。
シンプルだが、量は多い。
少し作りすぎたか?
久しぶりの旅行に、テンションが上がっているのかも知れない。そういう時は、目測を誤る。
「いただきます…」
ひとり、手を合わせる。広い部屋には雨音と時計の秒針の音のみ。
静かだな。
車の音も、人の騒ぐ声も聞こえない。静かなのはいいが、少し寂しい。テレビは居間にあるのみ。つけてもいいが、つけた所でここからは見えない。
仕方ない──。
そうして、目の前の野菜炒めに箸を伸ばそうとすれば。ガシャンガシャン、と、玄関の戸が叩かれるような音がした。
なんだ?
風で揺れているにしては、不自然だ。第一、風はそう強くない。
と、もう一度、同じ音がする。聞き間違いではない。誰かが戸を叩いているのだ。こんなへんぴな場所へ訪れるものがいるとは。しかも、時刻は夜七時近い。
おばちゃんか?
でも、こんな雨の中、しかも日が落ち辺りは真っ暗。訪れるとは思えなかった。
誰だ?
首を傾げつつ、廊下を踏み鳴らしながら玄関へと向かい、電灯をつける。格子のガラス戸の向こう、小柄な人影が浮かび上がった。
やっぱり、おばちゃんか?
「…どちら様ですか?」
警戒心満々で尋ねれば。
「オレ、松岡です!」
「松岡さん? どうしたんですか?」
薫はホッと息をついて、緊張を解くと、急いで傍にあったサンダルをつっかけ、玄関の差し込み式の鍵を開ける。
おばちゃんには、鍵をかけなくても変な人は来ないと言われていたが、それでも癖でかけてしまう。
ガラガラと引き戸を開ければ、そこには、まさにずぶ濡れ、濡れ鼠と化した松岡がいた。茶色っぽい髪はしとどに濡れて、ポタポタ毛先から滴を落とす。
「いや、つい夢中になって採取してたら、バスの時間、逃して…。したら、スコールが来て。慌てて木の下で雨宿りして。じきにやむかと思ったけどやまなくて。それで、仕方なく歩き出したんだけど、荷物は重くなるし、まだ街まであるし。それで、薫くんがここにいたのを思い出して、雨宿りさせてもらおうかと…」
そこで、松岡の腹の虫がグルルと鳴る。
「…よかったら、メシも食ってきます? とりあえず、身体拭いて着替えてください。あ、シャワーがいいか? とにかく、中入って──」
「…ありがとう。夕食時にごめんな。あー、けど、ホント、助かったぁ」
薫は松岡の背中にある、雨に濡れてすっかり重くなったザックを、引き受ける為に手をかけるが。
「うっわ、おもっ!」
松岡の肩から外したザックはかなりの重量だ。濡れたせいばかりではない。
松岡はたたきに腰掛け、ぐっしょり水を含んだトレッキングシューズを脱ぐと。
「ああそれ、中に岩が入ってるからさ。採取して後で調べるんだ。それ、ここに置いといていいかな? あとで片付けるから」
「もちろん」
「よかった」
ニカと笑ってそう言うと、松岡はザックを薫から受け取り、たたきへ直に置く。
中からタオルとビニール袋に包まれたカメラ類だけ取り出し、上がりかまちへ置いた。それから、よっと声をあげて立ち上がり。
「…じゃ、お言葉に甘えてシャワー借りても?」
「もちろん。廊下の突き当たりを左に行けばあります。トイレもその横に」
「了解。…ついでに申し訳ないんだけど、何でもいいから、服、かりられるかな? 着替えなくって…」
「ぜんぜん、いいですよ。下着も新品あるんで。サイズは合わないかも知れないですけど…」
「気にしないよ。下着は買って返すから」
「それは、気にしないでください。着替えあとで持ってくんで。タオルは脱衣場の適当に使ってください」
ありがとー! と、歩きながら手を振って返した、松岡の小柄な背が廊下の先に消えた所でふうと息をつく。
玄関のたたきには、ぐっしょり濡れたザックが、途方にくれた様にそこあった。
触らない方がいいよな?
台所にあった、要らなくなった新聞紙を下に敷き、残りは同じくびしょ濡れの靴の中に丸めて突っ込んだ。
こうすると、乾きが早いと祖母に教わったのを思い出したのだ。
足、俺よりは小さいな。
横に並んだ薫の靴と比べると、大人と子どもの差がある。もちろん、松岡のサイズも二十五センチはあったが。薫の方が長身な分、大きいのだ。
小ぶりな靴は、人の良さそうな松岡に合っている気がした。
「はぁー、生き返った…。ホント、ごめんな? 食事中だったのに…」
シャワーを浴び終えた虎太郎が戻って来た所で、夕飯となる。
食卓には、温め直した野菜炒めと、味噌汁らが、ご飯と共に置かれていた。冷や奴も漬け物も追加済。
二人分のいただきます、が響いて夕飯の開始だ。先ほどまでしんとしていた空間が、一気に賑やかになる。
「気にしないで下さい。作り過ぎちゃったんで。松岡さん来てくれて、丁度良かったです」
「あー、その、松岡さんやめて、虎太郎でいいよー」
松岡は肩をすくめてみせる。
サイズが合っていないせいで、貸したボートネックのTシャツが首から肩にかけてずり落ちそうになっていた。
下はハーフパンツを貸したが、こちらもダボッとしていて、ひざ下くらいまで丈がある。それをゴムでは止まらず、ついている紐をきつく絞ることでずり落ちないよう調整していた。
全体的にオーバーサイズだ。それが、松岡の小柄な体形を余計に強調させる。
「じゃ、俺のことは呼び捨てにしてくださいよ。『薫』で」
「ん。わかった」
「──じゃ、さっそく虎太郎さん。あのザック、岩以外の中身って何です?」
「えーと、撮影機材とか、採取用のハンマーとかタガとか。すぐ帰るつもりだったから、食料詰めてなくてさ…。お腹、グーグー」
薫の作った焼き肉だれの野菜炒めを、美味しそうに口いっぱいに頬張る。まるで、エサを頬袋いっぱいに詰め込んだリスの様だ。
なんか、かわいいな。
手のひら乗せて、眺めていたい気がする。すると、こちらの視線に気がついた虎太郎が、ん? と眉を上げ。
「なに?」
「いや…。なんでも。てか、味、濃くないですか? 自分用に適当に作ったから」
「いや? ぜんぜん。だいたい、ちょっと濃いほうが、ご飯進むし。てか、俺、食いすぎ?」
既によそったご飯、二杯目が終わりかけている。びっくりだ。小柄だから、あまり食べないのかと思ったが。
「いや。多めに炊いたんで。遠慮せず、どうぞ」
本当は、多めに炊いて、余れば冷凍しようと思っていたのだ。
けれど、また、炊けばいいだけのこと。美味しそうに食べてくれるなら、それで満足だった。
もぐもぐ、もしゃもしゃと音が聞こえてきそうなくらい、元気いっぱい食べる虎太郎を前に、これは、作り甲斐があるかも、そう思った。
夕飯が終わりいっぷく後、虎太郎は、ちょっと道具広げいいい? と尋ねてきた。
薫がオーケーを出すと、すっかり湿気を含んだ道具の類を、縁側の板の間に並べ出す。
外ではまだ雨音がする。雨が降ったお陰で気温が下がって、網戸にすれば、扇風機だけで十分過ごせた。
ぐっしょりと濡れそぼったザックは、玄関のたたきから、他の道具と同じく、縁側の端っこに移動している。それでも撥水性がいいため、あらかた乾き出してはいた。
そのザックに入っていたのは、ハンマーにタガネ。ルーペに地図、方位磁石。採取した岩の入った大量のビニールパックに、筆記用具にノートの類。その他、採取に必要な雑多なものが入っていた。
ビニールパックには、白い布テープが貼られ、番号と採った箇所が書かれている。
採取した岩の大きさは数センチ程度。小さいものもあるが、それを大量に採取したため、かなりの重量となっていた。
もちろん、許可を得て採取しているとの事で。
「あちこちの島や本土も行ってさ。どんなに離れてても調べると繋がりが見えて面白いよ? ああ、ここはあそこと繋がっているんだとか、こうやって盛り上がったのかとか。動きが見えてさ」
「ふーん…」
そう言うふうに見たことがなかった。すると、虎太郎はそれまで熱心に見ていた岩石からぱっと顔を上げ。
「あ、興味なさげな返事!」
「え? って、興味ないって言うか、別世界で…」
薫はしどろもどろになるが。
「…いいって。冗談だって。こんなの、好きじゃなきゃ興味ないって。それ、素直な反応だよ」
でも、と続けた虎太郎は、袋から取り出した鉱物を指で挟んでかざすと。
「面白いんだよね…。こいつら、色々語りかけてくるんだ。オレはこうなったからこうなったんだ、これがあったからこうなってる、って。それを、探るのが楽しくてさ…」
虎太郎の目はキラキラ輝く。いい顔だ。それまで、どこか幼さも含まれていた横顔が、熱っぽい夢を語る、大人のそれになった。
「…好きなんですね」
その言葉に、ひょっとこちらに顔を向けて。
「うん。スゲー好き!」
そう言って、ニカっと笑った顔が忘れられなかった。
その後、もう遅いからと、泊まる様にすすめた。雨は止んでいたが、すっかり闇夜に包まれ、幾ら一本道とも言えども、歩いて帰るのは危険に思われ。
虎太郎は遠慮したものの、さすがに固辞はせず、薫の申し出を受け入れた。
寝室用の部屋に並べて布団を敷く。布団は二組用意されていて、押し入れに入れてあったそれも、きちんと干されてふかふかだった。
布団に胡座をかいた虎太郎は、申し訳なさそうにうなだれると。
「なんか、悪いね。ホント。迷惑かけて…」
「気にしないで下さいよ。てか、実際、ここでひとりで寝るの、ちょっと心細くて…」
「ああ、確かに。静かだからなぁ。音、なんにもしないもんね。俺、港近くの公民館の空き地でテン泊しててさ。許可はもらって、自炊してるんだ。お風呂は町営の銭湯使ってて。楽しいし気楽だけど、夜は確かに虫の鳴き声以外何の音もしなくて。都会から来てればなおのこと…だな?」
「テン泊って、テントで寝泊まり…?」
「そう。ここ、旅館とか民宿なくってさ。研究のためならって、テント泊許可してくれたんだ。あー、しかし、こんなふかふか布団久しぶり!」
嬉しー! そう言って、ボフリと布団の上にダイブする。まるで、修学旅行の学生の様だ。薫は思わず笑ってしまう。
「その…良かったら、明日からも、ここで寝泊まりしてもいいですよ?」
「──え?」
虎太郎は、布団に伏せていた顔を上げる。
「俺、ひと月近くいるし、俺がいなくなった後も、母さんいいって言えば使ってもらっても。誰か人が住んでいた方が傷まないって聞いたことあるし…。蔵田のおばちゃんとも顔見知りなんでしょ?」
「…うん。けど──」
「遠慮はいいですって。俺だって、ここにいてくれれば、ありがたいし…」
正直、ひとりは寂しかったのだ。
それでも、虎太郎は頭をかきつつ、悩んでいる様だったが。ふかふかの布団を睨みつけた後、ガシガシと頭をかいて、今度は天井を睨みつけ悩み。
そうして、暫く自分の中で葛藤していたようだったが、最後は覚悟を決めたように。
「──わかった。…じゃ、頼んでも?」
「やった! 良かった。じゃ、よろしく。母さんにも聞いとくんで」
これで、ここにいる間は楽しく過ごせる。虎太郎の方はと言えば、答えてからも、どこか悩んでいるふうで。きっと申し訳ないと思っているのだろうと理解した。
「本当に気にしないで下さいよ。あーでも…」
「なにっ?」
虎太郎が弾かれた様に顔を上げた。
「…メシ。かなり適当なんで。日替わりで同じメニューになるかも」
すると、虎太郎はあからさまにホッとして、
「…そんなこと。てか、ここにいる間は、一緒に作るよ。作らせてよ。俺だって、焼くか炒めるかで、メニューは一緒だけどさ…」
「本当に? やった! なんか、楽しくなりそう。誰かとそんな風に生活するの、初めてで」
寮生活さえしたことがない。親元を離れてすぐひとり暮らし突入したのだ。今思えば、よく高校生にやらせたものだと思うが。
とにかく、ひとりでなんでもできる子を育てる、と言う、事務所の方針だったらしい。
まあ、余りに酷い奴は、下宿させたようだが。メンバーの一人は寝坊が酷く、大家付きの下宿に放り込まれていた。
事務所も、できる人間とできない人間は判別していたようで。薫はひとりでもできる子、と判断されたらしい。もちろん、まだ未成年。まるっきり放っておくわけではなく、定期的にマネージャーの蒼木が、他のマネージャーも借りだして、一人暮らし連中の家を回っていた。
蒼木にはそのころから世話になっている。見た目は真面目そのものでとっつきにくいが、心根は優しく心配性らしく。
薫にかぎらず、メンバー全てにあれやこれやと、仕事以外でも世話を焼いていた。食事の支度から、勉強まで。仕事のないときも必ず顔を見せていた気がする。
その蒼木には、夕食を作る前に端末を確認し、今日の報告を終えていた。
『これから、夕飯。野菜炒めメイン。あとは寝るだけ。以上』
そっけないが、これだけ付き合いが長いと、もうこれだけで十分だった。気をつかうのも面倒で。が、返す蒼木もそっけない。
『了解。明日も七時には起床するように。おやすみ』
それでも、マメに連絡をさせる、するのは、気遣っている証拠だろう。
虎太郎は腕組みしつつ。
「…まあ、そう言ってくれるなら。薫は、まだ、高校生だっけ?」
「はい。デカいから、成人してると思われがちですけど。でも、高校は今年卒業だし、そうなれば、立派な大人です」
「…そだね」
虎太郎は、曖昧に笑ってみせた。
枕元に持ってきた電気スタンドを消すと、消灯となる。しばらくして、虎太郎の寝息が聞こえてきた。
虎太郎は最後まで躊躇いを見せていたが。そこまで遠慮せずとも、気を使うような事は何もないのだ。
虎太郎さんがいれば、きっと退屈しない。
それだけは分かっていた。