11-3.それから
息を切らし、そこへたどり着いたのはもう日も落ちかけた頃。
自分の呼吸音がうっとうしいくらい。汗は滝のように流れて、Tシャツがじっとり張り付いて気持ち悪い。
──らしくない。
いつもクールな薫はそこにはなかった。ただ、虎太郎に会いたくて。それだけで。
「虎太郎、さん…?」
神社の裏手に回って、木立を抜けて。
けもの道を進むと、そこにぽっかり口を開ける洞窟を見つけた。ひんやりとした空気が流れてくる。知らなければ躊躇う暗さだ。
だが、その先が開けていることを薫は知っている。足元に気をつけながら、岩場を通り抜ける。まだ新しい足跡が幾つかあった。虎太郎だろうか。
あんなふうに置き手紙をして。例の男に乗せられているのは、感じていた。
でも──。
乗せられていたっていい。虎太郎さんに会えるなら。
そうして、たどり着いた先。
波の打ち寄せる岩場のひとつに、ちょこんと、虎太郎が座っていたのだ。向こうを向いているから見えるのは背中だけ。
でも、シルエットでそれとすぐ知れた。
その虎太郎の向こうには海が見える。いつもなら青く見える海が、傾きかけた夕日に照らされて、空の雲と共にサーモンピンクに染まって見えた。息を飲むような景色だ。
シルエットがびくりと揺れて、こちらを振り返る。
「──薫? んで? どうして、ここに…」
「そんなこと、いいから…。俺、どうしても、諦められなくて──」
そう言うと、なんとか呼吸を整え、すっくと背筋を伸ばすと。
「俺は──虎太郎さんが、好きです。…別れたくない。本気でずっと付き合いたいと思ってます。誰かのものになるとか、考えたくない…」
「薫…でも──」
「俺のことが、顔も見たくないくらい嫌いなら、嫌いって言ってください! ──でも、少しでも気持ちがあるなら、俺と付き合ってください。一ミリでも、気持ちがあるなら…」
「……」
「俺にとって、虎太郎さんは唯一無二の存在で。代わりは誰もいない…。虎太郎さんがいない人生なんて、考えられない。なくしたら、きっと二度と立ち直れない…。──だから、俺のことを思うなら、付き合って欲しい。大好きになれなくても、僅かでも思ってくれるだけで俺は──」
「…わかった」
「虎太郎さん?」
「わかったよ…。もう、諦める…」
「え? 諦めるって?!」
思わず、詰め寄った薫に、虎太郎は岩場から降りて笑うと。
「違う…。諦めるのを、やめる…。本当は、ずっと好きだった…。初めから、俺は…」
「──!」
心臓が爆発するほど、なんて、たとえもある。まさにその通り。
どくりと音を立てた心臓は、それから早鐘を打ち出し。
薫は恐る恐る腕を伸ばすと、見上げてくる虎太郎の肩に手を置き。
「その…それって…」
「薫が──好きだ。…離れるのは──いやだ…」
泣きそうにその顔がゆがむ。
「!」
薫は思わず、虎太郎をきつく抱きしめていた。がっしりと頭を抱え、背中を抱きしめて。
夢、みたいだ──。
今まで、人を好きになって、こんなに嬉しかったことはない。
虎太郎の鼓動も早くなってるが、もはや、どちらがどちらのかわからないくらい。
「薫…。苦しいって」
「ごめん!」
慌てて腕の力を緩めた。虎太郎は頭を振ると、
「いや…。いいよ。──ってか、照れ臭いな? なんか、どうしたら──」
すると、薫は虎太郎の肩に手をおくと向かい合い。
「──とりあえず、まずは」
「まずは?」
そう言って、首をかしげて見せた虎太郎の唇に、そっと触れるだけのキスを落とし。
「──キスさせてください」
「てか、もうしたじゃんか…」
「ですね?」
そうして、二人笑いあった。
その向こう、ふたつ並んだ岩の間から、夕日が差し込み、すっかり赤くなった薫と虎太郎の頬を照らし出していった。
「──それで、明日帰るって?」
虎太郎は茶碗片手に、向かいに座った薫を見てくる。
「そうです。二日しかもらえなくって。でも、それでも良かった。あと半月じゃ、どうなってたか…」
そう言って、薫はおなじ食卓を囲む匠に目を向けた。
今晩は匠が最後だからと腕を振るってくれた。
魚を主役に、刺身から煮魚、カマ焼きに天ぷらに、カルパッチョにパスタに。タイの炊き込みご飯に潮汁。どれもふんだんに海鮮が使われている。
が、いくら料理の腕はうなるほどでも、今回の橋渡しをしてくれたからと言っても、虎太郎にちょっかいを出したのはいただけない。それに過去の話もある。
こんな男と、これ以上いたなら、何が起こっていたかわからない。
虎太郎の昔の想い人らしいが、成就しなくて良かったと心から思った。当時の匠に万歳だ。
虎太郎を辛い目にあわせたのは気に食わないが。
「どうもこうも。出来上がってたことは間違いないな。煽ってやったのに、それも分からず、半月も何のんびり構えている様な奴に、虎太郎はたくせないだろう?」
薫はむっとして、匠を睨みつければ、横から虎太郎が。
「煽ったってより、こじらせて面白がろうとしただけでしょ? 今回の事だって…。匠先輩のことはよくわかってます。──そう言う人だから…」
「おいおい。過去を蒸し返すなよ。それに、俺だって成長を見せたから、こうしておまえらの間に入ってやったんだぜ? 蒼木にそいつの予定を聞いて、お膳立てして。──ありがたく思えよ」
「そこは、まあ、認めますけど。でもやり方が、強引というか乱暴というか…」
神社に着いたあと、匠は虎太郎と洞窟の先まで来ると、端末連絡が入ったからと、すぐ戻るからそこで待てと言い消えたのだと言う。
しばらくして、匠が戻って来たのかと思えば、現れたのは薫で。
「なんだ、キスしただけだろ? ああでもしなきゃ、他に手はなかっただろ。だいたい、お前らの会話を聞いて思いついた案だったからな? 即席にしては上出来だ」
「即席って…。じゃあ、もともと船に乗るつもりもなかったんですか?」
虎太郎は橋を手に身を乗り出す勢いで、匠に詰め寄る。
「──いや、島には渡るつもりでいたさ。蒼木から一緒に住んでるってのを聞いてな。虎太郎がこいつの事を意識してるってのは、予想がついた。で、お前と一緒にいると分かれば、こいつが目の色を変えて追っかけてくるんじゃないか──と思ってな。それに少し色をつけてやっただけだ。まあ、罪滅ぼしだ。それでこいつが来なければ──本気で落そうと思ってた…」
「匠先輩…。諦め悪いですよ」
そこへ、薫は割って入る。
「あー! 良かった。これでもう、虎太郎さんは俺だけのですから。あなたはとっととアラスカだろうがアフリカだろうが、どこへでも帰ってくださって結構です。役目は終わりです」
「…ったく。邪魔者扱いか」
「それ以外に何がありますか? ──明日は一緒の便ですからね」
「はいはい。わかってるって。虎太郎にもう手はださねぇよ。…まあだが、こいつに愛想が尽きたら、いつでも連絡をよこせ。──ここにな」
そう言うと、名刺の裏にサラサラと自身の個人的な連絡先を書き記した。虎太郎は受け取ると、それに目を落し。
「…新年のあいさつくらいは送らせてもらいます」
「そっけねぇな。ま、上手くやれよ」
「そこ、あんまり見つめ合わないでくれます?」
薫は隣の匠をジロリと睨んだ。
「なんか、へんなことになっちゃったな。明日、大丈夫か?」
ようやく寝る段となって、各々の寝室に戻り。
とは言っても、薫と虎太郎は同じ部屋だ。匠のみ他の客間となっている。
外からは虫の音が聞こえた。山の中だけあって、かなり賑やかだ。コロコロ、じーじー、リーンリーン、と鳴く。
薫はごろんと横になって、隣の虎太郎に顔を向けると。
「大丈夫です。それより──」
薫は身体をずらすと、虎太郎の方へと寄った。布団はすでに隙間なく、寄せてある。
「手、つないでくれません? 他はにもしないんで…。あとひと月近くは戻らないんでしょ?」
「うん。まだ最後のつめの作業があるからさ。──手、貸して」
虎太郎もこちらに寄ると、手を差し伸べてきた。薫は嬉しくなって、その手をぎゅっと握り返す。
虎太郎の手を握ったのは、これが初めてかもしれない。
採取の時も見て思っていたが、意外に小さくはない。細いけれどがっしりもしている。それを胸元まで引き寄せると。
「あー良かった…。この手、二度と離さないんで。──覚悟しておいてください」
にっと笑んでそう口にすれば。
虎太郎は暗闇でも頬が染まるのが分かるほど、照れて視線をそらし。
「…そこで、アイドルのキメ顔すんなよ。もう」
「あはは。すみません──って、そろそろ寝ますね」
薫はそう言うと、上半身を起こし、手を握りしめたまま、虎太郎の唇にキスを落とした。
そうして、見下ろすと。
「…おやすみ」
甘いと評される、表情になっているのは分かっている。もちろん、作りものじゃない。
「──っ…、おやすみっ!」
虎太郎には、効果てきめんだったようで。
真っ赤になった虎太郎に満足すると、薫は手を握ったまま眠りについた。
こんなこと、あるんだな。
虎太郎は眠る薫を見つめる。
もとより、諦めていた恋なのに。
紆余曲折、あったにしろ、こうして薫がここにいる。普通とか、普通じゃないとか。薫は一つもそんなこと、気にしていなかった。
ただ、好きなのだと告白した。
真っ直ぐ、なんだな…。
ひたすら、虎太郎が好きだと伝えてくる薫に、ごちゃごちゃ気にしている自分がバカらしくなった。
俺も、薫の様に強くなりたい──。
薫の思いを守れる様に。
虎太郎はもう少しだけ、薫の傍に寄って、ほのかに伝わってくる、薫の体温を感じながら眠りについた。