8-3.存在
その日、虎太郎はいつものように大学の研究室に立ち寄った後、構内の図書館で調べ物をしていた。
授業中とあって、館内は静かだ。脇に積み上げた本の山に囲まれながら、パソコンで作業をしていれば。
「…隣、いいか」
ん──?
イスの引かれる音と共に、聞き覚えのある声。忘れたくても忘れられない、この声の主は──。
はっとして顔を上げた。
「…匠、先輩」
「かわんねーな。虎太郎」
ニッと笑って見せる。日に焼けた顔。適当にかきあげただけの黒髪。
以前と変わらないが、大人びた分、色気が増した様だ。──しかし。
訳がわからない。ここは大学構内で。
この人はアラスカにいて──いや、今帰ってきてるって、蒼木先輩が…。
動揺する自分を隠せなかった。
「どうしてって顔してるが。ここは俺の母校でもあるし、親しい教授もまだご健在だ。挨拶がてら、ここふらふらしてたって、おかしくないだろ?」
「…でも」
どうして、俺の所にまで。
虎太郎は睨むようにこの男、匠直匡を見た。すると、そんな虎太郎に匠は苦笑し。
「そんな顔で見るなって。ラウンジに移らないか? ここだと話せない…」
確かにここは図書館で。私語は慎むべきだろう。それに、断ったからと言って、匠が引き下がるとは思えなかった。
「…わかりました」
それで荷物をまとめると、匠のあとについて図書館を出た。
匠はラウンジのテラス席に陣取ると、虎太郎にも座る様に進めた。仕方なく、虎太郎も隣の席に荷物を置くと、向かい合うように座る。
「蒼木に聞いた。今は試料整理に、ここに来てるってな。──だから来れば会えると思った」
「…お元気そうですね? アラスカの大学はどうですか?」
「楽しくやってる…。毎日、海洋生物を追ってばかりだ。日本とはまた違う自然が広がるからな。本当に楽しいよ」
「良かったですね…」
すると、テーブルに肘をついた匠は笑うと。
「ていうか、こんな話をするために、わざわざ会いに来たんじゃない。──おまえ、ここでずっと研究を続けていくつもりか?」
「…そのつもりです、けど」
このままでは就職は厳しい。ありがたいことに、懇意にしている教授に目をかけてもらい、なんとか研究員になれそうだった。
そこを足掛かりに大学に居場所を見つけられれば、ありがたいと思っていたのだが。
「どうせなら、こっちに来ないか?」
「──え…?」
思わず、イスから腰を浮かしかけた。聞き間違いかと思ったのだ。それはどういう意味で、どういうつもりなのか。
「あっちでも、同じだろう? ここと違ってフィールドも広大だ。もっと珍しい地質も見つかろだろう。研究し甲斐もある。こんな狭い国で、小さな研究をしていても、たかが知れてる。もっと広い世界でやらないかと思ってな。お前の為でもある」
「…そんな誘いに乗るとでも? 俺は…もう、匠先輩と関わるつもりはありません。会うつもりもなかったんです。なのに…どういうつもりですか?」
匠はただじっと虎太郎の言葉に耳を傾けていたが。組んでいた足をほどくと、また組み直し。
「どうもこうも、俺は会いたいと思ってた。──ずっとだ」
「今さら…」
「離れて見えてくることもあるだろう? あっちじゃ、同性同士のカップルも珍しくない。当たり前のように好きなもの同士がくっ付いてる。それを見てると、分からなくなってな。自分があれだけこだわっていたものがなんだったのか…。好きだから一緒にいる、それがあっちでは普通だった」
虎太郎は膝の上で、手のひらを握りしめると。
「今更です! 今更、そんなこと言われても…。何が見えたって言うんですか? いったい、何年経った思ってるんですか? もう、七年です…。俺の中では終わってるんです。それを──」
「なんだ。彼氏でもいるのか?」
「っ! そう言う話じゃありません!」
「いないなら、別にいいだろう? お前がこだわりさえ捨てれば、どうにでもなる」
「勝手ですね…。確かに、今誰か特定の人間とは付き合ってません…。だからって、それが先輩とどうにかなるための理由にはなりません」
「そうなのか? 終わったっていうなら、また俺と向き合えばいいだろう? ──正直、俺だって、ここまで引きずるとは思ってなかった。向こうに行って、付き合った相手もいたしな。なのに、どっか心の奥に残ってて…。けりをつけたかったのもある。──お前が誰か特定の奴がいて、そいつと真剣に付き合っているなら、何も言わずに帰るつもりだった。──けど、蒼木に聞いた話じゃ、特定の奴はいそうにないってことだった。それならと思うだろ?」
「思いません! すっきり忘れてもらって結構ですから。これでもう──」
虎太郎は荷物を手に取ると、席を立とうとしたが。その二の腕を匠がつかむ。
「…おまえ、誰か好きな奴がいるんだろ?」
「──!」
カッと顔が熱くなるのを感じた。
それからすぐ、虎太郎はバッグを肩に掛けると、匠の手を振り払い。
「…もう、関わらないでください」
そうとだけ言って、大学を後にした。
虫がよすぎる。
自分をあれだけ、こっぴどく傷つけて、立ち直れないくらいにしておいて。
挙句に、七年後現れて、自分と向き合えなどと。
今さらだ。
腹が立って治まらない。しかも──。
『誰か、好きな奴がいるんだろう?』
ああ、そうだ。その通りだ。認めたくないけれど、俺は──。
また、バカみたいに辛い恋に走ろうとしている。──いや。走ることはない。思いを伝えることはない。…気づかせるつもりはない。
ただ、今だけは、あと数週間だけは。
誰にも邪魔されずに、大切に思える存在の傍にいさせて欲しかった。
それだけだ…。
今度こそ、それを邪魔されたくはない。乱されたくないのだ。
どうして、あの人はそうやって、俺の人生を乱していくのだろう…。
じきに終わる恋だ。
せめて、それが終わるまでは、そっとしておいて欲しかった。