5-3.別れ
港に近づくにつれ、途端に海の色が変わる。どうしてこうなるのかと思うほど、濁ったどぶ色になるのだ。
クラゲの白い傘が、波間にふわふわと揺れている。到着は午後四時となっていた。
「これ、かなりへこむ色ですね…」
手すりにもたれ、海を覗き込む。
それまで海の色など気にしたこともなかったくせに、暫くあちらの綺麗な青いな海を見たおかげで、こちらの汚れた海に気が滅入った。
「昔は綺麗だったんだろうけどなぁ…。一旦、汚れると、簡単には戻らない。汚すのなんて、あっという間なんだけどな?」
虎太郎は困った様な笑い顔になって、そう口にした。
確かにその通りだ。
なんでもそうなのもか知れない。ものでも人間関係でも、壊すのはあっという間。壊れたら、もとの姿に戻すのに、どれだけ時間が労力が必要か。
傍らで、同じ様に海を覗き込む虎太郎の横顔を見つめながら。
虎太郎さんとは、長く続く関係でありたい。
そう思った。
船は定刻どおり到着する。薫はザックを背負いタラップを降りながら、蒼木の姿を探した。
虎太郎も同じく、いつも以上に重くなったザックを背負い後に続く。
と、下船客を待つ人の群れの後方に、スーツ姿でキッチリ固めた男を発見した。さすがに暑かったと見えて、ジャケットは手に持ち、あとはYシャツ、ネクタイのみだ。
「いたいた…」
マスクに帽子、サングラス、と、想像のつく変装グッズに身を固めた薫は、注目を浴びない程度に手をあげる。
蒼木は、その前に気づいてこちらに向かってくるところだった。
タラップを降りて、蒼木のいる隅の方へ向かう。虎太郎もあとをついてきた。
「ただいまです。──ご迷惑おかけしました」
「どうやら、無事なようで良かった。──で、その相手は?」
蒼木は薫の背負っていたザックを引き受けながら、視線をその周囲に向けた。視線は鋭い。薫は内心、きたぞ、と思いつつ。
「虎太郎さん、こっち!」
やや離れた所で周囲に目を向けながら、所在なさげにしていた虎太郎に声をかける。
虎太郎はぱっと顔をあげると、こちらに向かってきたが、蒼木の姿を認めて、そこへ立ち止まった。
「──あ…」
「松岡…?」
「先輩…」
蒼木も虎太郎も互いの顔をじっと見たまま動かなくなる。薫は首をかしげ。
「なに、知り合い?」
すると、我に返った蒼木は眼鏡のブリッジを上げつつ。
「虎太郎、か。余り聞かない名前だ。あれとは思ったが、まさかな…。大学の後輩だ。サークルが一緒だった」
「へぇ、偶然! なんのサークル?」
「山岳部だ。俺たちが四年の時、一年だった。七年ぶりか。──元気にしてたか? 松岡」
「……はい」
虎太郎の顔から笑顔が消える。そうして、蒼白い顔をしたまま薫を見ると。
「俺…やっぱり遠慮しておくよ。気持ちだけありがたく受け取って置く。それじゃ──っ」
踵を返し、さっさと駅の方向へ向かおうとする虎太郎のザックを、慌てて掴んだ。
「ちょっと、待って! どうしたの? 急に──」
「ごめん…! また、連絡するから!」
そう言って、拘束から逃れようとするが、薫は離さなかった。
「理由! てか、これで終わりのつもり? そう言う顔してる…」
「……」
虎太郎は黙り込んでしまう。すると、やり取りを見ていた蒼木が大きなため息をつき。
「ここにこれ以上いると、バレる可能性がある。続きは車の中だ。──松岡もな」
「…はい」
それでようやく、虎太郎は大人しくなるが。表情はうち沈んだままで、笑顔はもどらない。
薫にはまったく話が見えず困惑したが、蒼木との間に何かあった事だけは分かった。
薫は俯く虎太郎に向けて、
「俺、このまま別れるのは嫌だから」
「…薫」
虎太郎は困った顔をして見上げてきた。薫は虎太郎の背負っていたザックを外しにかかる。
「これ、俺が持ってく。人質」
「そこまでしなくても…」
「冗談だよ。けど、逃げるのはなし」
「うん…」
それで、とぼとぼと虎太郎は薫と先を行く蒼木に続いた。
車は路駐可の送迎スペースに停めてあった。黒塗りのワゴンタイプ。窓にはフロントガラス以外、スモークが貼られている。
「虎太郎。先はいって」
薫は後部座席のドアを開けて、やや距離を開けてついてきた虎太郎へすすめる。
ずっと俯いて歩いてきた。そんな様子は今まで見てきた虎太郎らしくない。ザックはすでに後部のトランクへしまってあった。
「…うん」
渋々と言った具合に、中へと入る。虎太郎が入ると、薫も続いて隣に座り、ドアを閉めた。蒼木は運転席だ。
「それで、島で世話になったと言うのが、松岡なのか?」
「そうだよ。偶然出会って、ひと月一緒だった。虎太郎さんがいたから、助かったんだ…」
前に伝えたことを繰り返す。薫は引くつもりはなかった。
「…だろうな。その様子を見る限り。──で、松岡はこいつの部屋に居候するつもりはあるのか?」
すると、声をかけられた虎太郎は、ぱっと顔をあげ。
「──いえ。薫には悪いけれど、俺はこれで。もう、十分世話になったので…」
「だめだって! 帰んないで、一緒に住もうよ。どうせ帰っても居候なんだろ? だったら俺の所の方が断然いいじゃないか。部屋も広いし大学にも近いし。どうして嫌なのか、わけは?」
「…それは──」
虎太郎はいいよどむ。が、そこへ蒼木が、
「うちとしては、薫がいいと言うならかまわない」
「え…?」
虎太郎が怪訝な顔を見せる。反対に薫は表情を明るくし。
「ほんと! 良かったぁー。やった、これで断ることないって。遠慮なんていらないんだからさ」
「でも…! いいんですか? 蒼木先輩…」
すると、蒼木はハンドルを握ったまま、ため息を漏らしたあと。
「うちが成功するかどうかは、すべてこいつにかかっている。こいつがいいと言うなら、な。幸い松岡のことは知っている。一緒に住むことに反対はない。松岡は言いたい事があるだろうが…。──詳しいことはあとで話そう」
「…はい」
虎太郎の表情はうち沈んだ。
反対に、薫は嬉しくて仕方ない。一番の難関は蒼木だったからだ。もちろん、説得するつもりではいたが、こうもあっさりと認められれば、嬉しくないはずがない。
「虎太郎さん。とにかく、許可はおりたんで。今日のところは大人しく、俺ん家、来てくださいね? 俺もすぐに仕事にはならないんで、明日にでも引っ越しも手伝いますから」
「って、そんな慌てなくても──」
「いいえ。早ければ早いほど。時間が経てばたつほど、また、逃げ出しそうなんで」
「それは…」
薫は大きく息をつくと。
「蒼木さんと虎太郎さんの間に何があったにせよ、俺には関係ないんで。俺は傍にいて欲しいんです。自分のためにも、虎太郎さんのためにも。ね?」
「うん…」
ファンなら失神ものの極上の笑みを浮かべて見せたが、どうしても、虎太郎の歯切れは悪かった。
その後、自宅マンションに到着する。
虎太郎の荷物は、明日、事務所のバンで取に行くことになった。ついていくのは他のマネージャーだ。
蒼木ひとりで流石に七人は見切れない。蒼木はチーフマネージャで、サブに数人ついているのだ。
「松岡は薫の向かいにある部屋を使ってくれ。あっちのほうがすぐ片づく。薫、いらないものは全部もう片方の部屋に突っ込んでおけ。──とはいっても、そう置いてはいないが…。薫も自分で言いだしたんだ。片付けは全部自分でやれよ」
「わかってるって。ったく、休む間もない…」
ぶつぶつ言いながらも、確かに言いだしたのは薫で。素直に蒼木の指示に従った。