第6話 視察に来た市長が、帰る頃には“祖父”になっていた
午前中の保育室は好きな遊びの時間だ。
それぞれが思い思いの遊びに没頭する中、なおとくんは今日も「10歳からの民主主義」を読んでいる。
変わらない日常をかみしめていたそのとき、インターホンの音が鳴り響いた。
入口で園長先生が慌ただしく動いている。
「みなさん、本日榊原市長が視察に来てくれました。挨拶をしましょう。」
背筋を伸ばし、威厳をまとった白髪の男。後ろには秘書らしきスーツの男性。
そして、なおとくんが駆け寄っていく。
「おじいさま!」
――祖父、か。
榊原市長は穏やかに頭を撫で、部屋を見回すと、ゆっくりと俺の方へと歩み寄ってきた。
「園長先生から聞きました。この園、人員増加を要請しているそうですね」
「はい、保育士不足が深刻でして」
「しかし、子どもと遊んでいるだけの仕事で、なぜそんなに必要なのですか?」
――やはりそう来るか。
人員不要の結論を正当化するための視察だろう。
「遊びは子どもの学びです。その支援には——」
「ほう、学び。では君は保育の専門家なのですか?」
“ほう”の一音に感じる圧。
新藤党首なら立ち向かえそうだけど、俺には論破の引き出しがない。
「現場に入って…見えた事実として——」
「君のような議員上がりに現場が分かるとでも?」
カチン、と胸の奥で何かが鳴った。
「理解しようとしているところです。だから人員を――」
「それなら…なおとを別の園に移しましょう。一人減れば足りますね?」
空気が一瞬にして冷えた。
なおとくんはわずかに目を見開き、本を開き直す。小さな手が震えていた。
園長先生が食い下がる。
「榊原市長。お気遣いはありがたいですが、まずはなおとくんの意思を聞いてから――」
その言葉と、なおとくんの表情で閃いた。
気づけば口が動いていた。
「でしたら、市長も保育士体験しませんか? 視察を兼ねるなら体験が一番です」
市長が眉をひそめた瞬間。
「え!? しちょーさんあそべるの!?」
「きてきてー!」
「たかいたかい!たかいたかいしてー!」
園児たちが一斉に群がり、市長はフリーズ。
恐るべき無邪気の暴力。
結局、「名目上は視察だ」と言い訳しつつ承諾した。
──そこからの、じいじ市長の奮闘がすごかった。
「え、ええい……こうか?」
「きゃー!」
ぎこちない“たかいたかい”。額には汗。
普段大人しいなおとくんと違って、ハイエナジー勢に翻弄されっぱなし。
一方、なおとくんは少し離れた机で絵本を読んでいた。
そこへ別の子が近づく。
「なおとくん、ここなんて読むの?」
「え?これはね、『じゆう』って読むんだよ。自由っていうのは――」
「すごい!ありがとう!」
照れるなおとくん。
その瞬間、市長の表情がわずかに揺れた。
孫が“ただの5歳の子ども”として笑っている。その事実が市長の肩から少し重りを外した。
俺がつぶやくと、真凛先生も優しくうなずく。
「なおとくんは一人で本を読むのが好きだけど、人に優しい子。だから頼られるんです」
「でしょ? 保育って、奥深いだろ?」
確かに。
最初はただの“園児の集合体”に見えていたのに、今は一人ひとり違う顔が浮かぶ。
この現場にもっと長くいたら、まだ知らない成長や可能性も見つけられる気がする。
夕方、子どもたちからようやく解放された市長は、疲れ切っているはずなのにどこか表情が柔らかかった。
「榊原市長。なおとくんを…本当に別の園に移すつもりですか?」
市長はゆっくりとこちらを見た。
「…私は、家柄も後ろ盾もないただの弁護士だった」
唐突な告白に、息をのむ。
「人より三倍働き、寝る時間も削った。叩かれても笑われても踏みとどまった。そうしてようやく市長になった」
握られた拳が震えていた。
「努力すれば道は開ける。それをなおとに教えたくて、本を読ませ、問題を解かせた。そうすれば、この子は強く、立派な政治家になれると」
「でも…」思わず声が出た。
「そのために“今の楽しさ”を奪えば、将来も失います」
市長の表情が揺れる。
なおとくんは本をぎゅっと抱きしめたまま、顔を伏せた。
「……私は、なおとの顔をろくに見てやれなかったな」
静かな声だった。誇りよりも後悔に近い声。
次の瞬間、市長は無言でなおとくんの頭を撫でた。
その仕草は政治家ではなく、祖父そのものだった。
「なおと…保育園、楽しそうだったな。私は安心したよ」
なおとくんは、小さな声で言う。
「おじいさま…僕は勉強して新しいことを知るのも好きです。
だけど、この保育園のみんなと遊ぶのも好きです。この保育園にいたい…」
市長の喉が大きく動いた。握った拳がほどけていく。
「この子が、好きなものを教えてくれたのは初めてかもしれない…」
「増子さん。今日ここに来て、思わぬ収穫を得た。
保育園という場所が、人を育てる力を持つことを実感したよ」
「…ありがとうございます!」
「人員の増員を始め、保育園の環境整備は前向きに動いていく。……大切な孫を笑顔にしてくれる場所だからな」
喜びが胸を満たす。
夕焼けに照らされた背中が静かに去っていく。
政治家の背中と、祖父の背中が重なって見えた。
政治討論で千の言葉を尽くすより、保育園での数時間の笑顔のほうが説得力を持つ。
政治は机の上で動くと思っていた。でも、違った。
未来は――こんな小さな部屋から変わるのかもしれない。
そしてその背中を見送りながら、なおとくんが小さくつぶやいた。
「……おじいさま、ぼく……がんばるけど、がんばりすぎないでもいい?」
誰にも届かないくらいの小さな声。
それでも、俺にははっきり聞こえた。
子どもが救われるとき、
大人もまた救われるのかもしれない。




