9.幼なじみとサイリウム
隣に座るこまりへお醤油を渡した時、指先に触れた感触に、心臓が跳ねた。
僕は平静を装いながら、お箸を目玉焼きに向かわせる。
ーー意識していいよ。
こまりがあんな事を言うからだ。
自分を幼なじみとして扱わなくていいという意味だと分かってはいるけれど、僕も男。
今朝だって、見慣れたはずの無防備な寝姿に、不覚にも邪な感情を掻き立てられてしまった。
これまで目を反らしていたところに、ほころびを見つけてしまったような気持ちだ。
「どうしたの?」
そんな戸惑いが顔に出てしまっていたのか、こまりが聞いてくる。
「いや、別に。なんでもないよ」
「そういえばそろそろお祭りねぇ。こまりちゃん。今年は浴衣、新しいのにしてみたら?」
こまりの正面に座る母さんが、彼女に言った。
「あ、ええ。そうしようかしら」
「じゃあ佑、また一緒に買いに行ってあげなさい」
僕は「あー」と次の言葉を探しながら、こまりの方へ顔をやる。
こまりはこちらをチラリと見てから、口を開いた。
「今年は友達と買いに行こうと思ってて」
「あら。いいの?いつも佑が選んだやつじゃなきゃ嫌だって言ってたのに」
「う、うん。いいの。あとお祭りも、友達と行くと思うから」
「え!?そうなの?あらら。佑もとうとう捨てられちゃったか」
「そういうわけじゃないんだけど」
毎年、近所のお祭りに、こまりと一緒に行っていた。
そうか。今年は行く相手がいないのかと、少し寂しさを感じる自分がいる。
食事を終え、荷物を取りに部屋へ戻った僕は、ふと思い出して、自分の部屋の机の引き出しを開いた。
中には青色のサイリウムブレスレットが何本も入っている。
最も古いものは小学5年生の頃、初めて子供だけで行った夏祭りで買ったものだ。
「たー君。次、チョコバナナがいい」
浴衣姿の小さな僕達は、屋台の光に照らされた夜道を、手を繋いで歩いていた。
あの頃の僕達は今とよりずっと子供で、こまりも僕に甘えてくる事が多かった。
「えー。まだ食べるの?」
「だってお祭りの味はお祭りの時にしか食べられないんだよ。今日食べておかないと勿体ない」
「まぁ、いいけど。じゃんけんは勝たないでね。僕もうお腹いっぱい」
「わざと負けるなんてナンセンスだよ。だいたいたー君はお腹小さすぎ。そんなんじゃ、いつまでもひょろっちいままなんだから」
「こまりこそスタイル気をつけないとなんだよ。カッコいい人になるんでしょ」
「う、運動するから大丈夫だもん」
周りには沢山の人。
こまりはすぐ人にぶつかったり、転んだりしそうになるから、僕は常に彼女の動きに気を配っていなければならない。
あんず飴。綿菓子。クレープ。
甘いものが大好きなこまりの食欲は、留まることを知らない。
あまり人前で見せる事はなくなったけれど、今でもこまりの甘党は変わっておらず、時々、部屋にはお菓子の袋が転がっている。
こまりはキラキラとした目を屋台へ走らせ、気になった場所がある度に僕の腕を引っ張った。
「あっ、ヨーヨー!たー君、たー君!」
負けず嫌いの彼女としては不本意なようだけと、金魚すくいやヨーヨー釣りは僕の担当だった。
一体どうすればそうなるのか、不器用なこまりがやると、瞬く間に浴衣がビショビショになってしまうのだ。
低学年の頃はそれでも自分で取ると言ってきかなかったけど、お金と時間が無駄になってしまう事を学んでからは、僕に任せるようなった。
クレーンゲーム然り、ヨーヨー釣り然り、僕にはそうして身に付いたあまり役に立たない特技が幾つかある。
僕からヨーヨーを貰い、満足げなこまり。
あの年のお祭りで、ここまでは彼女も笑顔でいる事ができた。
その後、同じクラスの男の子達に出会った時の記憶は、今でもはっきり残っている。
「あ。こまりじゃん」
クラスでよくこまりをからかってくるグループだった。
「またそのチビと一緒にいるのかよ」
と言った男の子は、中学生に上がってからこまりに告白をするのだけど、この時の僕らはまだそれを知るよしもない。
クラスで一番僕らに突っかかってきた彼の気持ちを、今なら多少は理解できる。けれど当時の僕らにとっては、意地悪で怖い相手でしかなかった。
「う、うん。幼なじみだから」
こまりが僕の手を握る力が強くして答える。
この頃の彼女は、今より外の世界への不安がずっと大きく、今ほど堂々としていない。
「でたよ!幼なじみ」
クラスメイトは、僕らを馬鹿にするように笑った。
「普通の幼なじみは手なんて繋がないって。いつもベタベタしてさ、変態なんじゃねぇのお前ら」
「実はこっそりエロい事してたりして」
「そんな事っ……」
今にも泣き出しそうなこまりの横顔を見て、僕は彼女を隠すように前へ足を踏み出した。
「別に変な事をしているつもりはないよ。特に用がないなら、もう行っていいかな?まだ行きたいお店あるし」
人と対立するような性格ではない僕の行動が意外だったのか、クラスメイト達は少したじろいだように見えた。
僕はこまりの手を引き、歩き出す。
「お、おい!待てよ」
彼らに呼び止められても足を止めようとは思わなかったのは、きっとこまりを悲しい顔にさせられた事に腹を立てていたからだろう。
だけどそれがいけなかった。
「ちょっと待てって!」
一人の男の子が僕の浴衣を掴み、引き戻した。
小さく、ガリガリの僕の体は、こまりの手を握ったまま、容易く飛ばされてしまう。
「キャッ!」と、短い悲鳴が響き、こまりがアスファルトと地面に倒れ込む。
手にしていた水風船が地面にぶつかって割れ、彼女の体を濡らした。
「こまり!」
僕は慌ててこまりへ駆け寄った。
こちらを見上げる彼女の瞳が、ゆっくりと潤んでいく。
馬鹿みたい速い僕の心臓が、ズキズキと痛くなっていく。
僕はそっと彼女の方へ手を伸ばした。
しかしその手が彼女に触れる事は叶わなかった。
突然立ち上がったこまりは、僕と反対の方角へ走り出す。
「こまり!」
僕は彼女の名前を呼んで、追いかけた。
その場に残されたクラスメイトの事なんて、すっかり頭からは消え去っていた。
行く手を阻む人の群れの中を、隙間を縫うようにして進んでいく。
前を行くこまりが、何度も人にぶつかり、大人の人達が声をあげる。
更に数メートル進んだところで、前に見えていたこまりの体がフッと消えた。
人波をかき分け、そこまで近づいてみると、地面に座り込んだこまりがいる。
近くには鼻緒の切れた下駄が裏向きで転がっている。
「大丈夫?」
僕は下駄を拾いながら彼女へ近づき、肩に手を当てた。
「ごめんね」
彼女は僕から顔を背け、噛み締めるように口にする。
「私のっ……せいで……」
こまり両目から、いっぱいの涙が溢れだした。
「せっかくのお祭りなのに……。せっかくたー君が一緒に来てくれたのに...…」
途切れ途切れに紡がれる言葉が、僕の胸を痛くしていく。
「……帰ろ。浴衣もビショビショだし」
僕は言った。
「来年、また来ようよ。再来年も。その先も、ずっと。今日が勿体ないなんて思わなくなるくらい沢山」
「でも……こまりと来ると、たー君が変だって……」
「こまりは、僕と来るのヤダ?」
こまりは首をブンブンと振った。
「僕は皆に変だって思われるより、こまりとお祭り来れなくなる方が、嫌だよ」
「……こまりも、おんなじ」
僕は笑って、こまりの手を取った。
父さんを迎えに呼んで、待ち合わせたコンビニまで、こまりを背負ったまま歩いていく。
「あの、光るやつ買ってこうよ」
最後に僕達は屋台に寄り、赤と青のサイリウムのブレスレットを一つずつ買った。
ただの思いつきだった。
こまりを励ましたい心から出た、ささやかな思いつき。
「毎年、これ買おうよ。二人で来たぞって思い出になるように」
「約束?」
「うん。約束」
この頃のこまりは今より小さかったけど、僕はそれ以上にずっと小さくて、コンビニにたどり着くまで間、何度も休憩を挟んだ。そのせいで文句を言われたのをよく覚えている。
*
「この学校のチャイム、やっぱりしっくりこないな」
二時間目の授業が終わると、長谷部君が僕の席にやって来て言った。
「分かる。うちらの中学、普通のやつだったもんな」
杉浦君が後ろの席から身を乗り出してくる。
「佑のとこは?」
「僕の中学は校歌だったよ。小学校は普通だったけど」
「どうせならEDMとかにすればいいのにな」
「無理あるだろ」
「そうか?授業が終わる1分前から流してだな、徐々に音を上げていって、終わりと同時にぶち上がる感じにすれば、最高の休み時間を演出できると思うのだが」
「授業、集中できねぇよ」
三人で話しをしながら、チラリとこまりの方へ目を向ける。
「無理言っちゃってごめんね。先輩も友達連れてくるって言うから」
「ううん。いいよ。希望だけじゃ、気まずくなっちゃうもんね」
「ほんとごめん」
「別に謝る事じゃないでしょ。楽しもうね。お祭り」
「こまり~」とこまりに抱きつく範田さん。
その勢いに乗じて、石川さんもこまりへ抱きついた。
「ちょっと。麗は部活の人と行くんでしょ」
「いいの。こまりは可愛いから」
「関係なくない?」
石川さんはバレー部に所属している。
一年生でありながら目立った成績を残し、将来を有望視されているらしい。
高い身長や中性的な顔立ちも相まって、女子からも人気が高いようだ。
「ふむ。美しい百合が咲いている」
長谷部君が彼女達を見ながら、しみじみと言った。
「二人はお祭り、行かないの?」
僕は杉浦君達に聞いた。
「祭りなんて、小学校の以来行ってねぇな」
「よかったら三人で行かない?」
「男だけで行ってもなぁ」
「だったら誘うか」
と、長谷部君は後ろへ体を向けた。
「舞音ちゃん。よかったら祭り、一緒にどう?」
「ふりかけの粒、数えている方がマシ」
長谷部君はクルリと反転し、僕らに言う。
「よし。その日は家で推し活だな」
「お前。メンタルどうなってんだよ」