異常
――私は、影ヶ谷きらりを理解できなかった。
ふらふらと、夜の住宅街を歩く。
彼女は、私が今までに出会ったことの無い存在だった。
介入不能。
極端に他人との接点がないため、少し距離を縮めただけで、簡単に心を許してくれる。
そう感じていた。しかし実際は、死に際し、恐怖の念すら抱かない、常軌を逸した心の持ち主。
自殺の動機も、気狂いそのもので。
「きらりさん、大丈夫かな……」
私には、彼女を救えない。
がんじがらめの世界を飛び出したきり、何も成しえずに存在しているだけの私。
相手を理解して。相手には、私を理解したつもりでいてもらって。それでよかったのに。
そんなこともできない私に、価値なんて無いよ。
人心への介入と、掌握。
それが私が授かった能力だった筈だ。
「ねぇ君、何してるのかな?」
幼い頃、知らない人に声をかけられたことが何度かある。
小学校時代の下校時間。
下級生の頃は皆、集団での下校を義務付けられていた。
それは、不審者についていかない為だとか、寄り道をしない為だとか、理由があるのだけど……。
少なくとも、私と一緒に帰っていた子供達は、そんな理由、知らなかっただろうし、そんな非日常とは、無関係だったのだろう。
今でも覚えている。初めて私が、所謂「不審者」と呼ばれる人種に話しかけられたのは、小学校一年生の頃だった。
その時は、防犯ブザーを鳴らして、一目散で家まで逃げた。担任の先生に言われた通りの行動をとった。
両親は私を心配してくれた。
一人になる時間が発生しないよう、いつもお母さんが学校まで迎えに来てくれた。
過保護すぎると子供ながらに感じていたが、同時に、特別感を味わっていた。
皆が徒歩で帰路に就く中、校門の外で私を車に乗せてくれるお母さん。
自慢すると、皆、羨ましいと目を輝かせてくれた。
優しいお母さんが校内で認知されるのが、誇らしかった。
いつか、お母さんに絵を褒められたことがある。
光希には才能があると言われ、お絵かき教室に通うことになった。
自慢すると、皆、凄いと目を輝かせてくれた。
嬉しかった。凄いっていうのは、私の事でもあり、お母さんの事でもあったからだ。
それから、色んな習い事にお母さんは通わせてくれるようになった。
英会話、書道、ピアノ……車での下校時間を利用し、家に寄らずそのまま習い事へ直行する。
小学生らしからぬ多忙な日々も、嫌な顔をせずに向き合っていた。
お母さんは凄いから。私も期待に答えたかった。そうすることで、私ももっと「凄く」なれると信じていたから。
私の為を思って、迎えに来てくれるお母さん。私の為を思って、習い事に通わせてくれているお母さん。
だから、弱音なんて吐かない。すべてに愚直に向き合うひたむきさこそが、娘の美徳なのだ。そんな姿を、親は褒めてくれるのだ。
そうしていつしか、私は外で友達と遊ぶことを止めた。
だが、そんな状況を苦に感じたことはなかった。
それは、お母さんの期待に応えたいという思いが強かっただけではない。
私にはもとより友達が多かった。それは何も、クラスメイトに限ったことではない。
下級生、上級生共に、私と仲良くなりたいという生徒は多かった。
ステータスで交友関係を広めていく社会人とは違い、子供の頃の友達など、共通の趣味や、席の近さから成るものだろう。
経験値豊富な私を友達に置くことで、自分の知らない世界の知識を得ようとする打算的な人間など、小学校にはいるまい。
勿論私もそんなことを考えて友人になっていたわけではない。
だが、私には友達を作る才能があることを、小学生ながら理解していた。
六年生になった頃、生活に変化が訪れた。
いつものように、学校で勉学に励み、交友関係を育み、帰りは習い事に勤しんでいた。
何がきっかけだったのだろう。いつから、私は「それ」に気付いたのだろう。
――ピアノの先生が、私に色目を使うようになった。
鍵盤の上に重ねられた男性の手。明らかに指導者のものとは違う。
その運指は撫でまわすようで、熱を感じさせるようで……何かが違った。
だがそんなこと、両親に相談できるはずも無かった。
勘違いも甚だしいと、一笑に付されるのが嫌だったからだ。
習い事を辞めたいと遠回しに伝えてるみたいで、嫌だったからだ。
確かに、同級生から告白されることが増えた気がする。
心が成長し、異性に興味を抱く気持ちは分かる。しかしそれは、同級生に限った話。
あの先生は、私の事が好きだったのだろうか。
私は素知らぬふりを続けた。正直嫌だったけど、相手もそれほど大胆な行動に出てこなかったからだ。
小学校を卒業し、サイズの大きいのセーラー服に身を包みだした頃。
家からは少し遠いが、私立の有名な中学校に通うことになる。
両親……いや、お母さんが私に受験させたのだ。ここで学業を修めれば、必ず私の将来につながる。
そして私は……そんなお母さんの期待に応えることが出来た。
小学校の頃の友達と机を並べることは叶わなかったが、それでも構わなかった。
新しい友達なら簡単に作れる自信があったからだ。
結果、その通りになった。
相手を程よく立て、相手に合わせた距離を保ち、相手の望む反応をする。それら全てを無意識下で行う。
今ではこうして俯瞰で人心掌握の術を分析できているが、当時の私はそんなことは大して理解していなかった。
ただ漠然と、「人間」と会話していただけだ。
誰に対しても完璧な私を披露し、そんな私に人は興味を抱く。そこに性別、年齢は介在しない。
その為だろう。身体の成長も相まって、私を性的な対象として見てくる大人が増えてきた。
書道教室で顔を合わせる高校生の生徒。聞いても無いのに英会話のレッスンに付き合ってくるアルバイトの大学生。ピアノの先生は、相変わらずだった。
廊下ですれ違った三年の教師が肩に手を置いてきたときは、背筋が凍った。
どうして私がこんな目に合う。あからさまな感情をぶつけられる。
流石に限界だ。気持ち悪い。
私は、お母さんに相談した。
詳しいことは伏せ、習い事に疲れた。もう辞めたいと。
安らぎが欲しかった。小学校の頃は、お母さんの車で送迎されていた為、逃げ場がなかったが、当時は何度も習い事をサボろうかと考えたことがあった。
それでも欠かさずに通い続けていたのは、お母さんの期待に応えたい、お母さんに褒められたいといった無垢な感情がまだ残っていたからだ。
そんな苦悩を訴える私に、お母さんは、口を開いた。
「今更辞めるなんて、許されると思っているの?」
そう。薄々は理解していたこと。
お母さんが求める、理想の娘。
醜く歪んだ理想像を見上げたその時から、私の中で何かが崩れた。
目の前の存在は、私の憧れだった筈なのに。
なら、と。
私は習い事をサボることにした。
お母さんが悪い。お母さんが私の苦しみを理解してくれないから。
お父さんに相談しても、状況は変化しなかった。お母さんにちゃんと伝えてくれたのかさえ、怪しい。
だったら構うものか。
帰宅部の友達と遊び、時間を見計らい家に帰る。対等な関係の友達は、私の冷えかけた心に僅かな温もりを与えてくれた。
だがそんな作戦は、数週間もすれば簡単に瓦解する。
真面目に習い事に取り組んできた私を心配して、先生が家に電話をかけてきた。
そんなの、少し考えれば予測できたことなのに。
私は正直に打ち明けた。
私のことをいやらしい目つきで見てくる人がいる。不要なスキンシップを図ってくる大人がいる。
恥ずかしかった。思春期の子供の主張にしては、いささか青々しさが不足していた。
いや、それ以上に……。
「私の娘は絶対に、そんなこと言わない」
「中学生の分際で、ませたことを抜かさないで」
心のどこかで、諦めていたんだ。
優しいお母さんなんて、初めからいなかったんだって。
「今度サボったら、分かってるんでしょうね、あんた」
何で。
何で。
――何でこの人だけは、私に懐柔されないんだよ。
お母さんから、この人とか、あの人とかに呼び名が変わる瞬間だった。
それと同時に、光希から、あんたに呼び名が変わる瞬間でもあった。
私は、終わったと思っていた。
いや、自分の人生が終わったとか、そんな大それたことを言うつもりはないけれど。
少なくとも、私とあの人の関係性はここで打ち止めだと、そう感じていた。
まだ……底があるなんて、考えてもいなかった。
習い事には、引き続き通い続けた。
自己防衛の術を何か持ち合わせていた訳では無い。
漠然と、私は毎日を過ごすことにした。
――慣れてきたのだ。
好奇の視線も、大人の醜悪さも、思考を放棄すれば、やがて日常の1ピースになる。
中学生、習い事に通う生徒、という肩書きがある以上、強硬な手段をとる相手はいなかった。
いつか終わる。
そう信じていた訳じゃない。そんな淡い希望を抱くには、私を束縛する縄は頑丈すぎた。
平気だ、と。
傍から見れば空元気とも取られそうなほどの僅かな気丈さが、私を行動させていたのだ。
中学を卒業するまで、そんな日々を送る。
卒業式の日は、あんな両親でも私の為に学校まで足を運んでくれる。
卒業証書授与の瞬間を、どんな表情で、どんな感情で見届けていたのか。
興味なんてないけれど、あの人の、私に対する興味はまだ残っている。
ずっとやってきた習い事も、様変わりしていた。
中学生らしい習い事。高校生になるにあたりやっておくべき習い事。それでも変わらずに続けてきた習い事。
有難迷惑な事この上ないけれど、私の為であった。
反抗期の娘。やがて変わってくれる。親の偉大さを理解してくれる日がいつかやってくる。
そんな日を夢見ていたのだろうが。
卒業式が終わった、校門付近。
あの人は、見ていたのだ。
――私が、女の子に告白されている瞬間を。
私に恋愛感情を抱く対象は、何も異性に限ったことでは無かった。
数は少ないが、同性に激しいスキンシップを受けることがあった。
明らかにフレンドリーと呼べる範疇を超えている。
友達だと信じていたあの子も、遠くの席から熱視線を送ってくるあの子も、私を好きだったのだ。
ちなみに英会話のアルバイトも、女性。
私の異常性を、ついにあの人は目撃してしまった。
そして、口を開く。
「あんた、本当に……」
口をわななかせる母親。その瞳は、生みの親が娘に向けていいものではなかった。
「……そんなの、ずっと言っていたことだよ」
私があの日伝えた思い。
辛いと。苦しいと……必死に吐露した思い。
それに、ようやく気が付いた。もう遅いのに。もう、慣れてしまったのに。
「不気味よ、あんた」
どうして、そんなに人を引き付けるのか。
思えば、よく不審者に声を掛けられていた。
何人もの人間が、私に色目を使ってくると言っていた。それはすべて、本当。
こうして、立っているだけで人は寄ってくる。私は、人気があるのだ。
クラスメイトに、下級生に、OBに、先生に、囲まれている私。そして遠くから見つめてくる、私に興味を持っているのであろう誰か。
――あんたは、人を引き付ける化物。
ぼんやりと私を眺める母親に、そう言われている気がした。
それから、あの人の私に対する関わり方は少し変化する。
私は、偏差値の高い公立高校に入学した。私立は金銭面の問題もあって、私に受験をさせなかった。
今思えば、父親は私を無理して私立の中学校に通わせていたのかもしれない。
まぁ、それについて悪いなんて感情を抱くことはないけれど。
習い事は継続。これは、あの人の意向。
「今まであんたの為に使ってきたお金も、労力も……無駄になるなんて、あってはならないこと
なの」
あの人の本質は変わっていなかった。
鯖戸美月は、私の理想の娘。
その願いだけは、根底にあるらしい。
ただ、少しだけ束縛が減ったのだ。
学業や習い事を勤勉に励む私を評価するのと同時に、私に対して明確な恐怖心を抱いていた。
これ以上、私の”新しい何か”を観測したくないのだろう。
見えなければ、存在しないのと一緒。
「これ以上、私の思い描くレールからそれないでほしい」
切実にそう、祈られるのであった。