距離
キッチン越しに、私以外の人間がシャワーを利用している音が聞こえる。
こんな体験は初めてで、なんだかドキドキしてしまう。
私は帰宅すると同時に、女の子にシャワーを浴びてもらうようお願いした。
その間に、スーパーで買ってきた総菜を温めておく。
未成年の女子高生の夕ご飯が、リンゴ一個で済まされていい筈がない。私も一緒に食事を済ませてしまおう。
「あれ、私、優しくね?」
コミュ障は基本的に、頼まれたら断れない生き物だからな。私が見つけてあげてよかったのかもしれない。
「それにしても家出なんて……行動力の化身だよなぁ」
家に帰るまでの時間、彼女からの身の上話を聞いていた。私からは何も発信していないので、会話は全く弾まなかった。
彼女は鯖戸光希さん。現在高校三年生で、親と絶縁レベルの喧嘩をして、家出してきたという。
喧嘩の理由は教えてくれなかった。ま、私が聞けなかっただけなんだけど。
制服を見るに、かなり偏差値の高い公立高校であることが伺える。
私は中の下辺りの学校に入学していたけど、環境に対する不満なんて、抱いたことはあっても、実行に移そうなんて考えもしなかった。
……その結果が、今の私なのかな。
下らないことを考えている間に、浴室からシャワーの音が消え、衣擦れの音が聞こえ始めた。
暫くして、浴室から肌と髪を湿らせた女の子が現れた。
「何これ……私が獣だったら襲ってるよ……」
「え、何か言いました?」
「いっ、いえっ、何も……!」
あ、危ない……声が漏れていた。
同じシャンプーを使っているはずなのに、どうしてこんなにいい匂いがするんだろう。この差は何だ。私は根が腐っているからかな。
私の家の中で一番綺麗なシャツと短パンを用意して、彼女の着替えにしている状態なんだけど、これも興奮を助長させる材料になっている。
カレシャツならぬカノシャツ。まるで私のものになったみたいじゃないか。
「なんて、調子乗りすぎですね……すいません……ご飯食べましょう……」
一応見栄えに気を使って、お皿に移し替えた総菜を、居間のテーブルに並べる。
「ご、ごめんなさい……自炊しようにも、家に大した食材がなくて……」
今日日の女子高校生に食べさせるものにしては、いささか茶色系が多い気がする。
「き、嫌いなものとかな……ふげぇぇっ!」
親切なんて慣れな過ぎて、どこか面映ゆくって。照れ隠しの言葉を適当に並べていた。
彼女と目を合わせることもせず、テーブルの前に座り込んで、食事に向かって話しかけるようにしていた。
突然だった。後ろから女の子が私を優しく抱擁し、肩にその小さな頭を乗せてきた。
「ありがとうきらりさん、私、こんなに優しい人、初めて出会ったよ」
そういえば私の名前も教えてたっけ。このきらりって響き、嫌いだったけど、今はそう思わない。
彼女の吐息、穏やかな声が耳にかかり、何だかゾクゾクしてしまう。
女の子の柔らかい部分や、甘い香りをダイレクトに身体で受け止めると、イケナイことをしているような感覚に陥る。
「さ、鯖戸さん……っ……」
彼女が今、どんな表情をしているのかが、気になって、一瞬だけ目を合わせて、すぐに視線を逸らす。
「光希って呼んで欲しい」
まるで甘い夢に誘い込みように、まぶたをうっすらと開き、囁く彼女に、私はどうにかなってしまいそうだった。
「みっ、み、光希……さんが、限界です……」
体を縮こまらせ、か細い声を振り絞る私を見てか、光希さんはゆっくりと抱擁を解いた。
「ご、ごめんなさいっ、私、好きな人にはとことん甘えたがる性格らしくて、友達からも距離近いって言われてっ」
「そうだったんですね……す、好きな人……」
頬を赤らめ、照れたように笑う光希さんは、今度は年相応の若い女子高校生に見えた。
「と、兎に角食べましょう……私、お腹空いてないんで、え、遠慮せずにどうぞ……」
「はいっ、いただきます!」
光希さんは言いながら手を合わせると、本当に遠慮した様子もなく、食事にがっつき始めた。
リンゴの時も思ったけど、ここまで美味しそうに食べてくれると、餌付け冥利に尽きるなぁ……。
それにしても好きな人か……あそこまで自然に告白されると、私みたいな性格の女でも、本心からの言葉だと思えてしまう。
この子、天然の人たらしだな。あれやこれやで結局家に連れ込んで、ご飯食べさせてるし。
もしかしたら私は、彼女のために蘇ったのかもしれない。一人の少女を餓死から救うべく、ヘブンから遣わされた天使。
……お腹に穴開ける意味、無くね?
仮に私が救済の天使だったとして、これから彼女をどうしてあげるのが正解なんだろう。
部屋に住まわせるにしても、彼女の持ち合わせには期待できそうにないし、金銭面の問題が厳しそうだ。
そもそも私にそこまでしてあげる義理があるのか? 一度望んで死んだのに、お前はもっと人の役に立つべきだって言うの、神様?
たぶん……無いよね。義理。天使としての役割を放棄して、叛逆の物語を始めても、誰にも文句を言われる筋合いは無い。
いや、そんな行動力も勇気も、私には無かったんだ。それが原因で自殺したようなものだ。
だって現に私は、明日からの光希さんに何もしてあげられないってことが言えずに、頭の中で現実逃避を繰り返している最中なんだから。
こんな、断ることもできない私に、何を期待しているんだよ神様……あぁ、胃が痛くなってきた。
そう言えば、蘇ってから何も口に入れてなかった。
総菜は四品買っていたが、大半が彼女によって平らげられている。
私は何も考えず、適当に小ぶりな唐揚げを割り箸で掴み、一口で口内に放り込んだ。
「…………んっ、ごほっ、ごほっ!」
あれ、何だこれ?
「わっ、きらりさん大丈夫? のどに詰まった?」
「い、いえ、違……うぐっ!」
立ち上がって、私の背中をさすりにくる光希さん。
そういうのじゃなくて、一種の……拒絶反応のような……身体がご飯の受け付けを、拒否しているような……。
「やば……んんっ!」
立ち上がり、急いでトイレに駆け込む。
何で、何で、私……吐きそうになってるんだ?