【上】親分さんと手下
江戸市中では、数多くの蕎麦屋が庶民たちの人気を集めていた。そこで顔を合わせるのは、下級武士や職人連中、そして遊女たちの別を問わない。
ある日の夜、2人の男が提灯の明かりに誘われながら町の片隅にある夜鳴きそばの屋台へやってきた。親分さんの庄五郎は、蕎麦売りの利助にいつもの言葉を掛けた。
「かけ蕎麦2つ」
「少し待ってくださいな」
庄五郎と手下の戸佐次は、利助の人柄に惹かれてこの屋台の常連となっている。利助から受け取った器に入った蕎麦は、体が冷える夜中にふさわしい格別の味である。
「ここへくると落ち着くなあ」
「それよりも、日本橋界隈に潜んでいるスリの行方は?」
「どこかへ逃げ込んだのは間違いないようだが……」
富岡門前祭で財布をかすめ取ったスリの男は、数日経った今もまだ捕まっていない。この後も秋祭りが続くとあって、町人たちは再びスリが現れることへの不安が広がっている。
2人が険しい表情で話をしていると、利助はそれに割り込むように自ら口を開いた。
「八幡宮の近くにある口入屋が一枚嚙んでいるという話を聞いたけど」
「利助さん、それは本当か?」
「そのスリはなあ、口入屋の丁稚らしいんだ」
「そうか、それならかなり絞られるなあ」
庄五郎たちにとって、利助は罪人に関する情報屋として貴重な存在である。食べ終わった器は、各々が持って利助の元へ戻すことにした。
「利助さん、ごちそうさんです」
かけ蕎麦を食した2人は、利助にこう伝えて夜鳴き蕎麦の屋台を後にした。
次の日、庄五郎と戸佐次は闇夜の中で照らされた提灯のほうへ足を運んでいた。2人が向かった先には、かけ蕎麦を作っている利助の屋台がいつもの場所に置かれている。
「利助さん」
「おっ、声が弾んでいるなあ。どうかしたの?」
「いやあ、利助さんのおかげであのスリをお縄にかけることができましてなあ」
事後報告を行う庄五郎の口ぶりは、険しい顔つきであった昨日とは対照的である。そして、2人は屋台の常連としていつもの言葉を掛けた。
「かけ蕎麦2つ」
庄五郎と戸佐次は、利助が器に盛りつけたかけ蕎麦をすすりながら夜空を見上げている。