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九州大学文藝部・2022年度・新入生歓迎号

寄り道

作者: 奴

 よく晴れた春、飼い犬との散歩でいつもの道を歩いていると、ふとある四つ角で、どちらからともなく立ち止まった。ふだんは車の往来に注意するくらいで、すぐに通り過ぎるところだが、どうもその日はまっすぐ進むはずのそこで、別の道へ行ってみようと右へ逸れた。曲がって行けばそのうち港に着く。係留された漁船が並んでいる。潮のにおいがはっきりとする。

 犬には海がどのように見えるだろう。海にどういうイメージを持ち、どうしたいと思うのだろう。人間からすれば、船を出し、魚を獲るところ。または、泳ぎ、ヨットを漕ぎ、サーフィンに興じるところ。または、物思いにふけるところ。別な角度からすれば、神の居どころ、死のイメージ、研究対象、等々。犬は何も思わないかもしれない。だいたい犬の考えていることが理解できたことなんて私にはほとんどない。ごはんやおもちゃを前にした喜び、雷と掃除機への敵意ぐらいがせいぜいである。

 はるか遠くにかすかに聞こえる機械の音、すぐそばで波が当たって弾ける音のほかには、あたりはごく静かで、犬の爪が舗装路に当たる独特のタチタチという足音がわかる。私の歩みに犬が合わせているのか、それとも、犬の歩みに私が合わせているのか。きっとその両方なのだろう。もっと足早に遠くへ行きたいと願う力はリードの持ち手に伝わらない。我々はまったく同じ速度で埠頭を行き、またもとの散歩のルートに戻ろうとしている。

 そのときまったく意外な者が顔を出したので、まず犬がそこに止まってそれを凝視した。それから、若い犬の激しい好奇心がはたらいて、予期していなかった珍客にフンフンと鼻を利かしていた。狸が、船のひとつから出てきたのだった。

 狸?

 私は狸というと野山にねぐらを構えている印象ばかり持っていたので、海辺に現れるのにはよほど驚いた。それを検分したがっている犬を引っぱっていけばよかったのだが、どうも港にいるその狸が気になったので、犬といっしょに立ち尽くしてしまった。狸は何も言わない。犬も、おもしろいことがあるかもしれない期待と、何をしてくるかわからない警戒心とで、牙を剥くのでも吠えるのでもなくただ沈黙している。その姿に狸は怯えもせず隠れもせず、船上で我々を見ている。

 それが一、二分は続いた。長い夢のようでもあった。犬がまず興味を失い、帰りたいという顔をした(と私には見えた)ので、宅へ帰った。狸は追ってくるでもなくそこにいた。

それから散歩へ出て例の四つ角を通るとき、もう犬には港へ行きたいそぶりがなかった。よその家の植えこみが気になる以外では、歩きたいから歩くのだというふうで、見知らぬ飼い犬と行き違っても無関心であった。向こうがいくら吠えようと聞く耳を持たなかった。

 私だけがあの狸のことをいまだに考えているのだ、と思う。白昼夢のごとき出会いに植えつけられた新鮮な感覚や、野生動物にぼんやり抱く得体の知れない畏怖が、寄せて返す。ひょっとしたら、と想像する、あの狸は、ふだんは人に化けて魚を獲っているのではないか。漁港ではたらき、得た金銭でものを買って、ねぐらの家族のもとへ帰っているのではないか。あるいは、動物たちのあいだに英語のように広く通じる言語でもって二匹は話し、別れを告げていたのではないか。私が聞き取れなかっただけで。

 犬はずっととぼけた顔をしている。


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