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ある事務所の記録

トモヤの記録

作者: りんごまん

 季節は秋。時刻は二十三時。

ざぁぁと風の音がする。周りに人家の明かりはない。

月は出ておらず、曇りのためか星の明かりもない。

一つの影が漆黒の闇に包まれた森の中を歩いている。

影は大きなクヌギの木の前で止まった。

クヌギの根本の落ち葉の上には、男女が静かに横たわっている。

影は、男女の元に膝をついて座った。二人の首元に自分の指をあて、脈がないことを確認した。そして、足早にきた道を戻っていった。



■トモヤと心配事


トモヤは、自室でストレッチをしていた。ここは都内某駅から徒歩五分ほどの五階建ての雑居ビルだ。雑居ビルといってもテナントは入っておらず、結果的に住居として利用されている。

三階のレンの隣がトモヤの部屋だ。インテリアは黒で統一されており、棚には書籍と小瓶が整然と並んでいる。大きな家具はベッドと机、一人がけのソファとオットマンだ。レンの部屋はソファの前に硝子テーブルを置いてあるが、トモヤの部屋にはない。部屋を広く使いたいからだ。そして、空いたスペースにマットを敷いて、ストレッチをしていた。

筋の一本一本がじんわりと伸びていくのを感じ、血が体内に巡っていくイメージを頭で浮かべながら、体が温まるのを感じていた。一時間、全身を丁寧にストレッチした。シャワーを浴びて、軽く肌の手入れをする。その後、四階に上がり、オカダが作ったサラダディナーを食べる。これがトモヤのルーチーンだ。


以前は、レン・ライ・トモヤとオカダの四人、そこに時々オーナーが交じるというディナーだった。今はオーナーの代わりにタシロという男が座っている。イタリアから帰国できていないオーナーの代わりに寄越された、青白みがかった色白い顔・猫背・一重の目・趣味の悪いスカジャンを小脇に抱えたチンピラだ。

オーナーも色白だが、ほんのりとピンクがかった色白だ。すらっと筋の通った高い鼻と、大きな黒い目、つやつやと輝く黒い髪が長身によく映える人だ。オーナーとは似ても似つかないタシロだが、悪い人間ではないらしい。レンとライもなついている。とりあえず、トモヤは敵意を表すでも、特別な敬意を払うでもなく、必要な会話を必要なタイミングでする人間と、タシロを位置づけた。

トモヤはシャワーを浴びて、一ヶ月ほど前に金色に染めた髪の毛をタオルで乾かしながら自分のスマートフォンを拾った。ある人物とのラインのトークルームを眺める。最後のメッセージはトモヤが三日前に送ったものだが、既読はついているが返事はない。ふぅ、とため息をついて、スマートフォンをベッドの上に放り投げ、ドライヤーのスイッチを入れた。


「えぇぇぇ、二十歳超えてるんスかぁ!?」とタシロの大きな声が響く。

「…次、同じセリフを言ったら、殺すよ」とライが答える。

四階のダイニングにピリピリとした空気が流れている。


このピリついた空気の原因は一〇分前に遡る。皆がダイニングに揃うと、オーナーが美味しい白ワインを送ってきてくれたので、カルパッチョと一緒にどうかと、オカダがタシロに伝えたところだ。


タシロは、アルコール度数がバカみたいに高いだけの酒を、先輩に強要されて飲むことが多かった。気がついたら新宿駅南口で半裸で朝を迎えたとか、六本木交差点に派手にリバースしてしまって先輩の靴を汚してしまい殴られたとか、酒にいい思い出はない。故に、自分から飲むことはあまりなかった。だが、生魚は好きだったし、たまにはいいかと、いただくことにした。

オカダは、レン・ライ・トモヤにもどうかと声をかけたが、レンは、ワインの何がうまいのかわからない。コーラハイ一筋だと答え、トモヤは気分ではないやといい、丁重に辞退した。

「僕、もらおうかな。チョコレートある?」と聞いたのがライだった。

「あ、だめスよぉ。ライさん、お酒は二十歳からですよ」とタシロがたしなめると、ライの表情がさっと真顔に変わって、タシロをじろりと睨んだ。

「あのっさぁ…!」とライが声をあげる。

「タ、タシロさん、ライは成人してるよ。二十一歳だよ!」とトモヤが教えてあげた。

そして、場面はタシロが大きな声をあげたところに戻る。

メドゥーサに睨まれたのならこんな感じなのだろう。タシロは文字通り固まっていた。タシロの頭の中は「やべぇ」という言葉でいっぱいだった。


タシロが殺し屋のオーナー代行として、都内某駅近の五階建てビルに派遣されて四ヶ月あまりが経つ。


オーナーの身の回りの世話担当で塩顔のオカダ。料理の腕と調査能力はピカイチ。

戦闘担当のレン。ジャンクフードとコーラを愛する青年。常に柄シャツを着ているが、二重の濃い顔立ちによく似合っている。

毒マニアのトモヤ。優等生顔だが金髪で、いつもにこにこしている。サラダが好き。

後処理‥というよりも爆破担当の童顔のライ。甘いものが好きなツンデレ。ツンデレというが、デレに遭遇するのはハレー彗星を地球から観察できるくらいの周期でしかやってこないらしい。


タシロは個性が強すぎる以上四名とどうにかこの四ヶ月やってきた。


ようやく馴染んだ気がしていたのに。ようやくライと二文以上での会話が増えてきたと思ったのに。やってしまったという気持ちでいっぱいだった。


だが、一方で、年齢を伝えられても、タシロは信じられなかった。トモヤがくだらない嘘をつくわけはないが、目の前のライという人物は、よくて高校生、人によっては中学生に見えるというだろう、とにかく若く見える。華奢な肩、大きな目と、下唇が厚い唇で普通にしていても、とがっているような口に見える。また、全体的にパーツが下の方に配置されているためだろう、どう見ても、成人しているようには見えなかった。

ありったけの謝罪の単語を並べたが、ライの機嫌は悪い。タシロは、極上といわれるワインとオカダが作ったカルパッチョのマリアージュを楽しむことはできず、苦く感じることしかできなかった。ライは、タシロのそんな様子を睨みつけながら、ワインをグラス二杯程飲んで、チョコレートを山程食べていた。

翌朝、タシロはオカダが入れてくれたコーヒを飲みながら、「処分希望 Fシステム カワムラ」と書かれたメールを見ていた。

殺しの依頼は、駅の伝言掲示板にアルファベットを書くのではなく、手短な内容で、メールでやってくる。

依頼を受けるかどうかはオーナー代行のタシロに一任されている。


Fシステムというのは、会社名らしい。正しくは、株式会社Fシステムだ。社名はともかく、対象者の方は名字しか書かれていない。Fシステムのサイトを確認すると、マエハラという社長を筆頭に、役員名簿の中には、川、河、加波の漢字違いでカワムラが3人もいた。どのカワムラだぁ…?まさか全員殺れと?とタシロは頭を抱えていた。サイトに書かれているカワムラとも限らないし、割り出すのにも手間がかかる。依頼をスルーしてしまうかと、考えていたが、何かが引っかかり、メールを眺めていた。3分程考えて、「ああ!」とタシロは独り言をいった。


思い出した。先日、タクシーに乗った際に、タクシーのモニター広告にFシステムの広告が出ていた。

タクシーのモニター広告は、モニターに備え付けられたカメラが性別を判別して広告の出し分けをしているらしい。タシロはただのチンピラだが、男性と判別した結果だろう。広告の内容は、スーツを来た女性タレントが、Fシステムの開発者だかに、インタビューする形式の広告だった。Fシステムが開発しているのは、クラウド型の個人資産管理システムだ。銀行の情報などを登録しておくと、自分の金融資産のポートフォリオを表示したり、グラフで資産の推移を表示してくれるらしい。

管理する資産などないタシロには、まったく意味のない広告だった。さらに広告の内容はさっぱりだったが、あの広告でインタビューを受けていたのがカワムラという人間だった。わざわざ広告に据えるような人間を殺害依頼するだろうかと思ったが、タシロはもう少し、確認してみようかと思った。


翌日、タシロとライ、レンとトモヤのペアになり、それぞれレンタルした軽自動車の中にいた。トモヤとレンは中央区新川付近の永代通り沿いに車を一時停止させていた。視線の先にあるのは、Fシステムが入居している一〇階建てビルだ。Fシステムは、このビルの、3フロアーを契約しているらしい。二人は通りに面したメインエントランスを見張っている。もう一箇所は、従業員や業者用の裏口で、タシロとライが見張っていた。


レンは、いつもどおり、カラフルな花柄のシャツを着て、助手席でペットボトルのコーラを飲んでいる。トモヤは、運転席に座って、スマートフォンをいじっていた。画面にはラインのトークルームが開いている。

「なに?なんか待ってんの?女?」とレンが尋ねる。

トモヤは、「うーん…」と頭をかきながら返事をした。


「兄さんから、ラインの返事がないんだよね。もう五日も既読がついたきり。父さんと母さんとは連絡がついたんだけど、兄さんは旅行にいってるっていうばっかりで。どこに行ってるかは教えてくれない。普段は、割とすぐ、一言でも、スタンプの一つでもかえってくるんだけど…」

「胸騒ぎってやつか」とレンは返した。

レンの言う通りだ。これは胸騒ぎというものだ、とトモヤは思った。


トモヤの家族は父・母・兄がいる。父は銀行で窓口業務一筋だ。失礼だが、出世とは縁がない。口数は少なく、静かに将棋本を読むことが唯一の趣味だ。母は趣味程度に事務のパートをしている。六歳上の兄は、社内SEの職についていた。過去形だ。トモヤが生まれたときには既に、父と母はとっぷりと宗教につかっていた。兄とトモヤはいわゆる宗教二世というやつだ。小学校に入った頃には、週末は、飯田橋にある支部へ通うのが定番となっていた。


宗教二世といっても、過激な両親ではなかった。経典をソラで暗記しろとは言わなかったし、運動会はだめだとか、この服を着ろだとか、トモヤたちの行動を制限することはなかった。

だが、週末は支部でありがたい話をきき、社会奉仕活動に時々参加する。夕飯時には教祖様の話や、経典についての会話をすることもあったが、無理やり宗教に染めるというよりは、日常の中でじわりじわりと、教団の教えを染み込ませていった。

それが当たり前のことであると、順調に宗教に染まっていく兄と違って、トモヤは色々な疑問を抱くようになった。学校の友達は教祖様のことは知らないっていってたよ…。光の国なんて聞いたことがないっていってたよ…。日曜日はアニメを家で見ていたいよ…。と両親に言うようになった。


瞬間、目の前で、ガシャンという音と悲鳴が聞こえて、トモヤの思考は遮られた。

「あ」とトモヤは声をあげて、スマートフォンを手に取り、ラインの通話ボタンをタップした。


ビルの裏口には、タシロとライがいる。張り込み中、タシロは、コンビニで、並んであるだけのスイーツを買い込み、ライに渡した。

「ほんと、すいませんでした…ほんとに…」

「もういいよ。そんなにネチコイやつじゃないし。僕。」と袋の中を捜索しながらライは言うが、タシロはすいませんとだけ繰り返した。

「それよりも張り込みなんてめんどくさい。オカダにやらせればいいじゃん」

「オカダさんも忙しいですから…。オカダさんには、美味しい食事を作ることに専念してもらいたいなと。俺張り込みやってみたかったんすよ。刑事ドラマでよくあるじゃないですか。それに、自分はライさんに改めて謝りたかったんスよ…」

張り込みをやってみたかったというのは真っ赤な嘘だが、それ以外は本当だ。

「だからぁ‥!もういいって!」とライが生クリームどら焼きをかじりながら言う。

「すません…」とタシロがつぶやいたとき、電話がなった。トモヤからだった。


「あ、もしもし、タシロさぁん?あのさぁー、タシロさん。たぶんだけどー、対象は、タシロさんの言ってたカワムラ、今、見張ってる対象のカワムラで間違いないと思うよ」トモヤは中指のささくれを眺めながら言う。

「え?間違いないってなんすか」タシロは聞き返す。

「だって」トモヤは窓の向こうに目をやる。

「今、目の前で殺されかけたよ。いや、殺された、かも?」


■トモヤと兄

タシロとライは、走ってビルの正面口に周った。そこには、ビル前の植え込みに突っ込んだ、フロントガラスが大破したセダン。運転席には人間が一人。地面にも一人。どちらも意識がない状態でいるのが確認された。地面でうつ伏せになっているほうが、カワムラだろう。タシロたちも野次馬の山に紛れて確認した。野次馬がザワザワ言う音や、救急車の音、スマートフォンのカメラのシャッター音がタシロ達の耳に入る。

タシロは目の前の光景は、まるでドラマの一場面のようだと思いながら見ていた。


五分ほどその場に立っていただろうか。

「ねぇ、タシロさん、もう、車に戻ったほうがいい気がする」と、トモヤに耳打ちされ、タシロは我に返った。小さい声ではあったが、トモヤは語尾までしっかりと発音した。なんで‥‥と尋ねようとしたが、トモヤの顔は、とにかく車に戻ろうと訴えている。タシロは質問するのを辞めた。既にレンとライはいなかった。


今日の夕飯は、レンにはアボガドと肉汁がしたたるハンバーガー・オニオンフライ、タシロは親子丼、ライはティラミス、トモヤはささみがのったサラダだった。トモヤはサラダに和風ドレッシングをかける。


「なぁ、いたよなぁ」と、レンが、口いっぱいにハンバーガーを頬ばって言った。

「いたって何がすか?」とタシロ。

「いたねぇ」とトモヤ。

「いたねぇ」とライ。

タシロは、何がいたのかさっぱりわからない。

「いましたかぁ」とオカダがタシロのグラスに麦茶を注ぎながら言った。オカダさんまで!と、タシロがオカダの顔を仰ぎ見ると、オカダは笑いながら、タシロのために補足した。

「野次馬の中に、同業がいたんですね」

そうだそうだと、レン・ライ・トモヤが頷く。

「同業ってつまり……」殺し屋ですか、とまでは言わなかった。日常の中で殺し屋という単語を発音するのはなかなか慣れない。

「そーそー、あの眼鏡のやつ。絶対そうだよな。俺、何度か現場ではち合わせたことあるわ。あいつ、結構強かった。」

「うちにも、別事務所にも依頼しているってことすかぁ…」

「それほどまでに処分したかったのでしょうかね。」

そんな悪人には見えなかったけどなぁ、とタシロはつぶやいたが、地面に突っ伏してる姿しか見てないじゃん、とライにつっこまれた。いや、あれは悪人の背中ではなかったんすよとタシロは慌てて添えた。



翌日の新聞にも、朝のワイドショーにも、大げさではないが、昨日の事故についての報道があった。運転手は脳卒中で、運転中に意識を失ったらしい。車は減速することなく、カワムラを目指した後、ビル前の植え込みに突っ込んでいった。「被害にあったのは、都内にお住まいのカワムラさん。37歳」

カワムラの容体については、重体と報道された。重体ということは、生きてはいるのか。

だが、オカダが言うには、複数事務所に依頼するということは、相当恨みを買っているだろうから、病院でとどめを刺されるのではないかということだった。


トモヤは朝食後、病院の前に車を止めていた。オカダに、同業の眼鏡の男の写真を撮ってくれないかと頼まれたからだ。眼鏡の男は同業の中では有名だが神出鬼没でデータが少ないらしい。ターゲットが被ったのはラッキーで、写真が撮れるとありがたいとのことだった。


重体なら、数日のうちにとどめをさしたほうがいい。容体が変化したで、片付けられるからだ。別に見届ける義務はないが、部屋にいると悪いことしか考えられない気がして、せめて別のことをしようと、オカダの相談をトモヤは快諾した。


見張りがてら、兄に電話をかける。スマートフォンからは軽快な発信メロディが聞こえるが、兄は出ない。胸騒ぎは時間をおうごとに、黒いシミとなってトモヤの胸を締め付けてくるように思えた。


二時間程だろうか、トモヤは病院の入り口を眺めていたが、それらしき人物は来ない。眼鏡の同業の姿もない。時刻は昼の一時になる。仮に侵入するなら、昼食が終わって、見舞い客が一巡したくらいの人がまばらな時間だろうとトモヤは踏んでいた。見舞いを装うこともできるし、看護師は引き継ぎのタイミングで、病院内を比較的人の目に触れずに移動できるからだ。しかし、この分だと夜になるかな‥‥あるいは見逃したか‥‥?と思った瞬間だった。視線の先にいる人物を見て、トモヤは、目を疑った。



グレーのカーディガンを着て、少しうつむき気味に病院に入っていったのは兄ではないか。

「なんで、兄さんがここに…」と、トモヤは車を降りて後を追う。病院は五階建てで、上四フロアーが入院病棟だ。ただの診察であってくれと思ったが、件の人物は外来受付のカウンターを過ぎる。まさかと思い、人物がエレベーターに乗ったのを見計らって、集中治療室のある三階へトモヤは階段で駆け上がった。

自分の予感が、笑い事で済むことを期待していたが、そうではなかった。


「なんで…」とつぶやいたが、人物はエレベーターを降り、まっすぐ集中治療室へ向かう。だめだ、すごく悪い予感がする。本来であれば、人物が何をするか見届けるべきであったが、トモヤはできなかった。とっさに、「兄さん!」と声をかけてしまった。


兄と呼ばれた人間は、肩をピクっと震わせて、振り返った。長身でトモヤと同じ二重とくっきりとした涙袋。間違いなく兄であった。トモヤの顔を一瞥するなり、目的の部屋と思われる場所には背を向けて、トモヤの方へ走ってくる。トモヤを思い切り突き飛ばすと、兄は階段を駆け下りていった。トモヤは突き飛ばされた衝撃で、食事を返すための配膳台に背中を打ち付ける。衝撃で食器がカランカランと配膳台から落ちてくる。


看護師がどうしましたー?と顔をだす。トモヤは、大丈夫です、すみません、少し疲れていて、寝不足で、と家族思いな見舞いのフリをして、その場を切り抜けた。

 兄の姿はもうなかった。



「おい、おいってば」レンの声にはっと我にかえる。

「お前大丈夫かよ?」

 トモヤは住処に戻ってきたが、階段を上がる気力はなく、一階の廊下にしゃがんでいた。

「レン…ごめん。だめだ。すごく悪い予感がする。吐きそうなくらい気持ちが悪い」

胸につかえた黒いモヤモヤは、トモヤの中でさらに膨張している。

「トモヤさん、どうしました。こちらへ」とオカダが水を持って、一階の一室へトモヤを促した。

 そこは、初対面の折、オカダがタシロに説明したように倉庫だったが、丸椅子が二脚ある。トモヤは丸椅子に座ると、ポツポツと病院での出来事を話し始めた。


「お前の兄貴と、Fシステムのカワムラが、一体どういう関わりがあるんだよ。まさかお前の兄貴も、同じ仕事やってんじゃね?」と冗談まじりにレンがいったが、身体能力の高くない兄がまさかとトモヤは答えた。

「今の所、関わりがあるとしたら、兄もシステム関係の仕事についていることくらい。僕も詳しいことはわからないけど、社内SEといって、社内のシステムの管理をする仕事をしていたはず。もう兄さんは辞めたけどね。兄の会社とFシステムと取引があって、そこで兄とカワムラの面識があってもおかしくないけど…。あれはただのお見舞いではなかったと思う。仮に面識があって、お見舞いに行くにしても、事故の翌日に一人でいきはしないと思うんだよ…手ぶらで…」


あの瞬間、自分が兄に声をかけなければ、兄は何をするつもりだったのだろう。そんなばかなことがあるものか、とトモヤは膝の上で、拳をギュッと握った。


その日の夜、トモヤは、母に兄の様子をたずねるラインを送ったが、旅行を楽しんでいるようだと返信があった。トモヤは舌打ちをして、スマートフォンをベッドの上に放り投げた。

 

次の日の朝も、タシロはいつもどおり新聞を読んでいた。経済面をめくって、タシロは、お、とある取材記事に目を止めた。新聞を持って、ダイニングに向かう。

「オカダさーん、Fシステムって随分儲かってるんですね。見てくださいよ、新聞に出てますよ。Fシステム、山梨の開発拠点を拡大。二百名の雇用創出。地元に恩返しを。」タシロは新聞の小見出しの文字を読み上げた。タシロは続ける。個人資産管理製品「ブロッサム」が好調で、山梨の拠点拡大に加えて、来年には福岡に大規模なサポートセンターの開設を予定しているらしい。ブロッサムとは、個人資産を花に例えて、資産を育てて花開かせようと由来で名付けられたらしい。


社長マエハラのコメントが続く。

「ブロッサムの特徴は、全世代に受け入れやすい操作感だけではありません。コミュニティ機能も充実しています。面と向かってお金の話をしにくい日本人ですが、匿名のオンラインコミュニティでは、同じ資産レンジ同士で語り合ったり、上のレンジにいくためには、どうすればいいかと活発な議論がされていますよ」

製品名と同じく、Fシステムもまさに今花開こうとしていると、文章は結ばれていた。


「山梨…?」とトモヤはつぶやいた。

ライがマフィンを口に運びながら、「山梨って…本部があるところじゃん」とつぶやいた。


トモヤの兄が社内SEをしていたというのは、過去形だ。兄は27歳、つまり社会人になって5年がたったとき、兄は、教団の一員として、教団一筋でやっていきたい、山梨の教団本部に身を寄せたいと両親に願い出たのだった。


途中参画者のタシロは、オカダが教えてくれた事実を消化しようとしていた。トモヤの家族は、希望の箱という新興宗教に心酔している。希望の箱って、保育園の名前みてぇだなとタシロは思った。保育園児が箱につまっているイメージしかわかない。赤ん坊なんて、長いこと触れてねぇなとタシロは思った。タシロは子供は嫌いではないが、子供に好かれたことはない。

 

希望の箱は、創設一九九八年。世紀末思想で日本が混乱していた時期にひっそりと生まれた。教祖である人物が、大学のサークルで富士山に頭頂した際に、まばゆい光につつまれて、奉仕の心と深い慈悲で人々を光の世界へ導くよう啓示をうけたらしい。当初は小さなコミュニティで聖書の勉強会などを開催していたが、徐々にその集団は大きくなり、宗教法人を設立するに至った。いろいろな新興宗教団体が、生まれては消えていく中で、信者数は五万人と多いとはいえないものの、希望の箱は、この十年、信者数を維持しながら、世紀末も乗り越え、活動を続けている。


教祖を最上段に据えて、光の国へいけるよう、自己研鑽に励むことを信者に訴えている。特段大きなトラブルや事件はないようだ。強引な勧誘をするといった悪評もなく、ボランティア活動を通じて地域コミュニティとの関係も良好のようである。


 ざっと調べる限りは、別にカルトめいた宗教組織でも、テロ組織予備軍でもなさそうである。タシロは宗教には懐疑的だが、頭ごなしに否定するのも違うだろうと思っている。自分が神様に祈るとしたら、博打の時くらいだが、宗教団体に属する人間は、祈る回数が自分より多いんだろう、と理解していた。人様に迷惑をかけないのであれば、祈る対象と頻度はなんであれ、個人の自由だろう。


 タシロは考えていた。トモヤの兄も心配だが、いつもにこにこしているトモヤの笑顔をここ数日、見ていない気がする。自分には愛想笑いを向けている可能性はおおいにあるが、いや、間違いなくそうだが、レンやライに向ける笑顔は、そうではないだろう。不機嫌よりも、悲しい顔よりも、やっぱり笑顔がいいよなぁとタシロは思った。トモヤが笑顔になるには、兄と会話ができればいいのではないかとタシロは考えたが、さすがに余計なお世話すぎるかと思った。家族というのは、とにかく厄介だしな。軽々しく兄貴と話せば、とは自分には言えないな、とも、タシロは思った。


 

 希望の箱とFシステムのつながりはオカダがあっさり見つけた。FシステムはCSR活動を自社サイト上で公開しており、寄付金のリストの一覧に、山梨県の児童養護施設「かけはし」という名前がある。これが希望の箱の息がかかった団体だということだ。サイトには「かけはし」の代表と、Fシステムの社員と思しき人物が握手を交わす写真が掲載されていた。

 だが、なぜトモヤの兄が、カワムラの病室を訪ねたのかはわからないままである。


「ねぇ、レン、今夜カワムラの病室にお邪魔して、カワムラと少し話ができないかな」とライは言った。

「お前が行くのかよ。珍しくね?」

「レンも来るんだよ。トモヤは今日は休んで。タシロ、運転お願いできる?」とライは続けた。

「はい、喜んで!」とタシロは答えた。


夜の病院は静かだ。ナースステーションの明かりは半分ほどついており、数名の看護師の姿が見えるが、急患もいないのだろう、静かだった。

病室を見ると、幸いにもカワムラは、ベッドにいて、まだ生きていた。


「カワムラさん」レンが、カワムラの耳元で声をかける。返事はない。外傷は酷そうだが、頭には包帯が巻かれている程度で脳に損傷はなさそうだ。


レンはカワムラの口にかけられている呼吸器を外して、小瓶の匂いを嗅がせる。トモヤが持たせてくれたものだ。気付け薬みたいなものらしい。まずは三途の川からカワムラを呼び戻す。二十秒ほどした頃だろうか、カワムラが、バッと目を覚ましベッドから起き上がる仕草を見せた。レンが、しーっとジェスチャーをしながら、カワムラの肩を抑えてそれを阻止する。ライは、顔をカワムラの耳元に近づけて言った。


「カワムラさん、今の状況がわからなくて不安だよね。ごめん。でも、説明している時間はないんだ。質問があるだけ。答えを聞いたら僕たちはここからすぐに立ち去る。狙われた理由に心当たりはある…?といっても困るだろうから、こう質問するよ。最近、いつもと違うなって思ったことはあった?」


自分が狙われた理由を聞かれて、とっさに答えられる人間はそんなに多くないだろう。だが、カワムラは、事故の前日にあった出来事を話してくれた。


「ブロッサムへの…アクセス履歴を見ていたら、真夜中とか、明け方に管理者権限で履歴があったんだ。山梨の支社のIPアドレスだった。それを、マエハラさんに聞いたんだ。山梨の支社はそんなに仕事が多くて大変なのか。徹夜が当たり前になっていないかって…。でも、それを聞いたときのマエハラさんの表情は…すごく怖かった。見た事がない顔だった。殺されるんじゃないかって思ったよ…もちろん、マエハラさんは、すぐに普通に戻って、確認すると言ってくれた…」そういってカワムラは意識を手放そうとした。


「ありがとう。もう1つ教えて。欲しがってごめん。この人を知ってる?」ライは、スマートフォンをカワムラに見せた。映っているのはトモヤの兄だ。カワムラは、少しの沈黙の後、こういった。

「彼は…きゅう…せいしゅ…。光だ…」



レン達が病院にいた頃、トモヤは自室で植物標本やサンプルの整理をしていた。頭がまとまらないときは、片付けをするのがいい。ホコリをはらって、硝子ケースや小瓶を一つずつ丁寧に拭いていく。


そういえば、あの植物標本は結局どこにいったんだろう。

トモヤが小学校四年生の時だ。父が、上司のお土産にもらっただかで、植物標本をトモヤにくれた。植物が手のひらサイズの硝子の中に埋まっているものだ。ベトナムのお土産だと言っていた。トモヤは嬉しかった。ランドセルの中に入れて、学校にこっそり持っていき、夜寝る前にはしげしげと、あらゆる角度から眺めた。植物は簡単に枯れてしまうが、こんな風に保存できるのかと思った。花びらや葉っぱの一筋一筋までよく観察できた。

すごく大事にしていたはずだったが、ある時、トモヤはその標本をなくしてしまった。小学生男児にはよくあることだ。持ち歩いていたからどこかに忘れたか落としたんだろう。トモヤは泣きじゃくった。父母は大して取り合ってくれなかったが、兄は一緒に探してくれた。トモヤの遊び場であった公園や、学校への道を一緒に探してくれた。でも見つからなかった。

兄は、いずれ就職して出張へいったら、また買ってくるよ。だから元気だせよといってくれた。結局、海外出張に行くような仕事につくことはなく、五年で辞めてしまったわけではあるが。


兄とトモヤは、成長するにつれて、少しずつ距離が離れていった。兄は、父母の期待に答えるように、希望の箱の集まりによく顔を出し、希望の箱が唱える奉仕活動を真面目にこなした。公園の清掃などボランティア的なものから、入信希望者への説明などだ。徐々に青少年部のリーダー的な役割も果たすようになり、トモヤ以外の弟妹がたくさんできた。


一方でトモヤは、希望の箱に染まることはできなかった。教祖様の抽象的な話より、図鑑を見たり、標本を眺めるのが好きだった。自宅にはなんとなく居づらい気がして、放課後は閉館時間まで図書館で過ごした。

兄は就職しても自宅に残ったが、トモヤは大学卒業とともに家を出た。父母は、ホッとした様子でトモヤの一人暮らしを歓迎した。トモヤの出発の日、兄は、頑張れよとだけ声をかけた。


ふと、階下で音がしたことにトモヤは気づいた。レン達が帰ってきたのだろう。結果は明日きけばいいと思った。今は掃除をしながら、眠気が来るのを待とう。



「おい、トモヤ、起きろ」とレンの声に起こされ、トモヤは目をこすった。結局、昨日眠れたのは明け方だったが、レンは容赦がない。目をこすりながら、ベッド脇に置いてあった眼鏡をかけた。普段はコンタクトをつけている

「トモヤ、これ見ろ」とスマートフォンの画面を見せた。

五階の管理人室では、オカダ・タシロ・ライがテレビを見ていた。トモヤとレンも合流する。テレビがあるのは管理人室だけだ。食事時にテレビをつけるのをオーナーがいやがるので、四階のダイニングにはテレビはない。

 テレビでは、男性アナウンサーが原稿を読み上げている。先程レンが、トモヤに示したものと同じ内容だ。

「山梨県の山中で男女の遺体が発見されました。男女共に年齢は40代前後。死後1ヶ月は経過していると見られ、目立った外傷はなく、警察が身元の確認と死因の特定を進めています。次はお天気です。」とアナウンサーが伝えた。

「また山梨かよぉ…山梨ゲキアツっすね」とタシロはつぶやいた。


「トモヤ、僕は、山梨へいくべきだと思う。お兄さんいるんでしょう。お兄さんと話すべきだし、山梨になにかある気がする」とライが伝えた。タシロは、自分がまさしく言いたかったことだと、ライと通じ合ってるのではないかと思い、ライを見たが、ライはトモヤの顔を真っ直ぐに見つめていた。


■トモヤと山梨一日目


「私は本日、山梨にきています。こちらのお店には、ある特徴的なパンケーキがあるそうで…」と女子アナウンサーの声が、タシロの頭の中で聞こえたが、残念ながら、パンケーキを食べにきたのではない。タシロの目の前にパンケーキ屋もない。都内から四時間程、中央道を運転して山梨県甲府市にやってきた。車から降りたタシロは大きく伸びをして、小高い丘にある建物に目をやった。

視線の先にあるのは希望の箱の本部兼道場だ。建物は、コンクリートの打ちっぱなしの灰色の外観で、ドーム型になっている。他の進行宗教団体の施設同様、一見して、それとはわからない外観だ。美術館と思う人もいるだろう。


建物の正門は閉じられていて、表札などはでていない。インターフォンを鳴らして名前を伝えると、脇の通用門のオートロックががちゃんと外れた。


一週間前、教団に興味があると、「希望の箱」に電話をかけたところ、本部での体験入信を進められたのだった。


門から建物までは、300メートル程ある。建物までの道には、ゴミ一つ落ちていない。周りには建物はなく、空気がすんでいて気持ちがいい。鳥のさえずりも聞こえる。タシロは、この先が温泉施設なら良かったのになぁ…ほうとう食いてぇなーと思いながら歩いた。レンは楽しそうだ。

「レンさん、楽しそうすね」と、タシロが言う。

「おー。まあ、俺は閻魔でも悪魔でも何がいても負ける気がしねぇし。トモヤと兄貴が話すきっかけを作ればいいんだろ?それでトモヤが元気になってくれりゃ、まぁラッキーだよな。俺、最近あいつの辛気臭ぇ顔しか見てない気すんだよな」とレンが答える。

「あ、タシロぉ。この一件、収まるところに収まったら、お前は、俺を崇め奉れよ。コールアンドレスポンスも考えておけよ」とレンが続けた。

レンは以前、俺をもっと褒めろとタシロに怒ったことがある。


トモヤとライは、山梨県内のビジネスホテルに宿泊予定だ。トモヤは教団の中に知り合いがいる可能性があるだろうし、兄と鉢合わせして兄に逃げられても困る。ライは、食事があわないだろうことを見越して、トモヤに付き添わせることにした。


「こんにちは、ようこそ、希望の箱へ」

エントランスで待ち受けていた女性が笑顔で挨拶をした。女性は、サイトウと名乗った。口元の黒子が印象的な、化粧っ気のない女性だ。まぁ、宗教施設でバッチリメイクというのもおかしいか、とタシロは思った。

「靴はお脱ぎ頂いて、スリッパにお履き替えください。手荷物は彼らが部屋へ運んでおきますから」と、若い男女がタシロらの荷物を受け取る。荷物を受け取ると、彼らは、会釈をして去っていった。

「軽く棟内のご案内をしますね。一日の流れもご説明します。その後は昼食になりますので、食堂で昼食を食べて、あとはご自由にお過ごしください」とサイトウは続けた。ここまでは旅館の女将のセリフと大差がないなとタシロは思った。


建物は中庭をぐるりと囲む形の円形の三階建てになっている。一階に宿泊部屋と食堂・浴場があり、二階は祈祷室と自由に使える大中小の部屋が五室程ある。宿泊部屋は、信者は男女わかれての畳張りの大部屋を利用するが、二階には個室も何部屋かあるらしい。初めての二人は、大部屋では休めないだろうということで、個室をあてがってくれた。各部屋の前には小さなディスプレイがあり、使用中か、空きかがわかるようになっていた。三階の半分は礼拝堂となっており、もう半分は事務所と幹部の個室があるとのことだった。


「最近は、我々の分野もIT化が進んでいるんですよ。一日のスケジュールや部屋の利用には専用のスマートフォンアプリを活用しています。もちろん、携帯電話から離れたい場合は、事務所でお預かりして、壁の掲示で確認することも可能です。教祖のスピーチも、文字起こししてアプリに掲載するんですよ。ふふ、ちょっと驚きますよね。よかったら後で、インストールしてみてください」と、QRコードとインストール方法が書かれた三つ折りになったパンフレットを、タシロとレンに渡した。


それからとサイトウは作務衣を手渡した。

「道場内ではこちらをお召しください。作務衣の色で、等級…というより経験値と言うべきでしょうか、お二人は茶色の作務衣ですが、これは入信されたばかり、ということです。紫色はベテランです。奉仕活動や教団への貢献度合いで作務衣の色はかわっていきます。貢献度…には寄付金の金額も加味されているんですけどね…」ふふふとサイトウが笑った。

「随分オープンなんですね、サイトウさん」と、タシロが聞く。

「このご時世、隠しごとをするほうが難しいと思っております。自分たちが活動を続けていくためには資金がいる。寄付金が多い方を尊重する必要があるのは、みな理解していますよ」と答えた。


「朝は六時に起床の鐘がなります。掃除やお祈りを各自でやっていただいて、七時半時から朝食です。その後に、礼拝堂へ移動していただき、九時に教祖様からお言葉があります。信者の皆様がスピーチをする時間も設けておりますので、よろしければどうぞ。お心のうちを仲間にさらけ出すことで、長年の苦しみから開放される同志もたくさんおります。」

 何じゃそりゃと思う気持ちが表情に出ないよう、タシロは全神経を集中してうやうやしくうなずいた。


「昼食の後は、自由に過ごしていただけます。祈祷室でお祈りや瞑想に励んでいただいても結構ですし、地域清掃や老人ホームへのボランティアに向かうものもおります。二階では、経典の学習会や同じ苦しみを抱えた仲間と会話する会もありますので、好きに参加いただいて結構ですよ。飛び入りも大歓迎です。スケジュールと勉強などの開催者の名前はアプリでご確認いただけます。消灯は十時です。少し早めに休む同志もいますので、九時頃からはお静かにお願いしますね」


食堂には、男女あわせて一〇〇名程度がいる。老人、壮年、若者と年齢はバラバラだ。中高生と思われる人物もいて、スマートフォンを操作しながら食事をしている。この風景は、スーパー銭湯の食堂と大して変わらない。BGMのクラシックが心地よい。それぞれの人物は騒ぐことはなく、仲間と会話を楽しむもの、一人で食事をするもの、思い思いに過ごしているようだった。むしろ、風呂入りにきたのかなとタシロは思い出していた。


「お二人は、大学時代のご友人なんですね。就職してみたものの、心がすさむ事ばかりだったが、教祖様のお言葉にふれて、希望の箱に興味を持っていただいた…と」

 体験入信の際に聞かれた質問と回答がサイトウに引き継がれているらしい。オカダが作ってくれたシナリオをサイトウは口にした。

「似たようなバックグラウンドで、この修行場にやってくる人はたくさんおります。少しでも、お心が楽になって、帰れますように」と言った。

サイトウにお礼をいって、タシロとレンは、とりあえず食事を頂いた。


そりゃそうかと思ったが、あっさり味の野菜が中心のメニューだった。味噌汁・ご飯・ほうれん草のおひたしと、もやしと厚揚げの炒め物だ。ご自由にどうぞ、とゆで卵がかごに盛られている。

既にオカダのご飯が恋しいのはタシロだけではない。レンは明らかに箸が進んでいない。

コーラも当然なく、冷水か、緑茶しかない。トモヤの兄をさっさと見つけて、オカダの飯が待つ住処に帰ろう。タシロとレンは、何も言わなかったが、同じ思いで薄味の味噌汁をすすった。


タシロらと別れた後、トモヤとライは、地元の図書館にいた。観光にまったく興味がない二人が時間を潰すにはここしかない。トモヤは、植物図鑑を、ライは原発に関する本をそれぞれ取り、読んでいた。図書館の気温はほどよく、読書にはぴったりの空間であった。ふと、トモヤが、顔をあげると斜め前の老人が、地方紙「山梨毎朝新聞」のバックナンバーを読んでいるのが目に入った。


トモヤの目をひいた理由は、老人が手にしている新聞に、ブロッサムの文字が見えたからだ。老人がバックナンバーを棚に返すのを見届けた後、トモヤは、先程老人が見ていた新聞を手にとった。

「ブロッサム。甲府から発信。世界に通用するクラウドサービスへ」と見出しにある。そこにはFシステムの歴史として、ブロッサムの誕生から、東京への本社移転、そしてこれからの事業計画が書かれていた。


社長であるマエハラにはシステム開発の経験はなく、やんちゃな青春時代を過ごしたらしい。カワムラとEコマースの会社を立ち上げたが、泣かず飛ばすで三年で事業をたたむ。マエハラが三十八歳の時、つまり四年前、共通の知り合いを通じて友人になった青年が、ブロッサムの前進となるシステムを趣味で開発しており意気投合。マエハラが事業化を計画し、会社は急成長を遂げたとある。

その後、システムは、マエハラとEコマースの会社立ち上げで苦楽を共にしたカワムラを中心に、少ない人数でオフィスに寝泊まりし製品化を目指したと書かれている。前進となるシステムを開発した青年は、Fシステムには合流せず、今もフリーランスでシステム開発をしているらしい。


「僕は事業を大きくし、CSR活動を通じてもっと社会に貢献したいと思っています。それは、カワムラも同じだと思います。製品を生み出した彼とは、今は異なる道を歩んでおりますが、より大きな夢を求めて、彼は新しい計画に挑戦していますよ。僕も全力でサポートしたいと思っていますし、負けないように僕も大きな挑戦を続けていかなければなりません。僕のこれまでの挑戦と、これからの展望について、近々出版の予定があります。書籍の売り上げは全額寄付する予定です」とマエハラが語っている。なんとも立派である。


そういえば…と思い、トモヤは、今日の日付の山梨毎朝新聞を手にした。山梨での二遺体についての記載がある。全国ニュースでは触れられていなかったが、地元紙はもう少し踏み込んだ事が書いてあるのではないかと思ったが、あたりだった。この二遺体は、希望の箱の信者だったとある。教団側のコメントでは、「二人は人間関係の深い苦しみを抱えていた。苦しみに絶望して自ら命を立ったのでないか」と語っている。


「そこのお兄ちゃん、その新聞読み終わったか?」と老人に声をかけられた。新聞の順番を待っていたらしい。トモヤは本日付の山梨毎朝新聞を老人に手渡した。


オカダは、自室でパソコンと向かい合っていた。タシロとトウゴウの一件について調べていた。3ヶ月前に起こったタシロ拉致事件の一件は、トウゴウが肉片になって片付いたのではあるが、引っかかたことがあったのだ。

「あぁ、やっぱり…」自分の記憶はあっていたとオカダは思った。

トウゴウが名を連ねていた海運会社の本社も以前は山梨県だったのだ。山梨の住所には二重線が引かれ、現在の本社所在地は、登記簿上、東京都中央区となっている。なんだって、また山梨なんだ。山梨県には海はないが、もともとは土建屋だったのが海運にも手を進出したのだろうか。陸地から海へ進出したのか。オカダは画面をじっと眺めて考えていた。


オカダのスマートフォンが新着メッセージの受信を告げる。

「希望の箱はとても快適な施設です。オカダさんの飯が既に恋しいですが」と、タシロから安否を知らせる連絡が入っていた。ついでに礼拝堂の写真までついている。ドーム型の天井に、教祖が立つであろう祭壇が映っている。天井が高くて、祭壇はきらびやかではないものの洗練されており、立派な作りだ。十字架に丸を重ねたシンボルモチーフがでかでかと、掲げられている。これだけの施設を用意できるほど、希望の箱は潤沢な資産があるのかとオカダは思った。

トウゴウの会社・Fシステム・ブロッサム。トモヤの兄と希望の箱。

山中で見つかった二つの遺体と殺されかけたカワムラ。

関係者全員まとめて脅して吐かせてしまえば早いのではないかと思ったが、それはレンの思考だと、オカダは一人苦笑した。


■トモヤと山梨二日目

翌日、タシロとレンは朝ごはんを食べた。

ご飯、味噌汁、インゲンの胡麻和え、だし巻きが二切れだ。ご自由にどうぞの茹で卵も取った。

あじの干物でも添えてくれりゃなーとタシロは思った。レンは息を止めてインゲンを食べていた。


二人は、午後は中庭で瞑想することにした。

中庭が一番、信者の行き来が見えるからだ。ここならトモヤの兄も見逃さないだろう。

ふと、タシロがレンに聞いた。「レンさん、トモヤさんの怒った顔って見たことあります?俺はないス」

「えー‥‥どうだっけなぁ」とレンは考えた。


そういえば去年のことだ。レンはトモヤの部屋の棚から、小瓶を一つ落として割ってしまった。

中の液体は揮発性の毒物となって、室内に充満した。レンは毒物耐性が強かったのではピンピンしていたが、モロに毒物を吸い込んだトモヤは三日間昏睡状態に陥った。

レンはオカダにしこたま叱られた。

目を覚ましたトモヤに、レンは謝った。トモヤはいつも通り、目をアーチ型にして笑って、「不用意に置いていた僕も悪かったしぃ‥‥僕の方こそごめんねぇ」と言った。

怒らないのかと尋ねると、怒っても何も変わらないし、怒るのは疲れるよねぇと答えた事をタシロに伝えた。

そうすかぁとタシロはいい、中庭に木漏れ日が差し込むのを感じた。二人の背中はポカポカと暖かかった。


トモヤとライは、再び図書館へ向かおうと車を走らせていた。タシロ達からの連絡はまだない。昨日と同じ道だが、今日は様子が違った。通行止めの看板が出ている。トモヤはウインドウをおろし、作業員に声をかけた。

「水道管に亀裂があって、緊急で工事してるんですわぁ。申し訳ないんだけど、そこ右折して、二つ目の信号を左折してくれたら元の道に合流しますからぁ」と作業員は教えてくれた。

「二つ目の信号…っと」トモヤが車を走らせていると、ライが声をかけた。

「トモヤ、あれ」と人差し指を指した。

人差し指の先には、「児童養護施設かけはし」と書かれた建物があった。

「へぇ‥‥」とトモヤは呟いた。

「どうする?」とライが聞く。

トモヤはうーんと唸った。だが、昨日の図書館での収穫もあったし、時間もある。いってみるかと思った。

「ライ、トイレ行きたい?」


「かけはし」の建物の前では、職員と思しき老人が掃除をしている。トモヤは声をかけた。

「すみません、東京からきた者なんですが…弟が急にトイレに行きたいと言い出して…大変申し訳ありあませんが、トイレを貸していただけないでしょうか」

 老人は快く施設に通してくれた。トイレはそこを右に曲がったところだと教えてくれた。エントランスで靴を脱ぎ、スリッパを借りる。ライはトイレへ向かった。

館内では、子供の話し声が聞こえる。壁には掲示物や写真が貼ってある。毎年桜の時期に集合写真を撮っているらしい。「かけはしの仲間」と色画用紙に書かれた掲示板には、年代別に集合写真が掲示されていた。

どれもかけはしの建物を背景に、満開の桜が一緒に映っている。そして、年齢はバラバラの一五名程度の児童と職員と思われる大人達が写真に収まっている。ふと、一枚の写真がトモヤの目をひいた。トモヤはさっと周囲を確認し、スマートフォンで、集合写真の一枚を素早くカメラで撮った。


ライとトモヤは老人にお礼をいい、施設を後にした。

「収穫あった?」とライはシートベルトをつけながら尋ねた。

「うーん、わからない。オカダが何か見つけてくれるといいんだけど」と、先程撮った写真をタシロ・レン・ライ・トモヤ・オカダのグループラインに投稿した。


◾︎サイトウと星空


その晩は星がきれいな夜だった。サイトウは、礼拝堂に座っていた。前から二列目の木製の長椅子に音を立てずに座った。祭壇に飾られた、教団のシンボルモチーフを見つめた。星の明かりに照らされて、神々しいとサイトウは感じた。

消灯時間は過ぎており、周りには誰もいない。静寂がサイトウを包む。消灯後に、一人で礼拝堂で過ごすことが、サイトウのルーチンだった。


お腹が空いた…とサイトウは思った。

サイトウはいわゆるネグレクト家庭で育った。身内は母しかいない。幼少期はずっと腹が空いていた。小学校の給食と、母が気まぐれにテーブルに置いたお金で、コンビニでおにぎりやパンを買って、一人でテレビを見ながら食べた。時々、隣の家のおばあさんがサイトウにおにぎりを持ってきてくれた。

大人になった今、腹が空けば自分で食べるものを調達して食べられるようになった。だが、サイトウの腹は満たされず、ずっとお腹が空いた感覚を感じていた。あぁ、自分はなんて卑しい人間なんだろう。毎日祈祷しても、経典を読んでも、自分の腹は満たされる事がない。満たされるどころか、腹は減り、もっと寄越せとぐぅぐぅと音を立てる。


サイトウが十歳の時、普段は二週間に一度は家に戻ってきた母が、一ヶ月戻ってこなかった。最初に電気が止まった。その後、金が尽き、給食を食べるために三日間学校に通ったが、四日目に学校を休んだ。八日目に担任が家にきて、保護された。食事を与えられ、何人かの大人と会話の後、サイトウの家は「かけはし」となった。サイトウの持ち物は、ランドセルと小さな手提げかばんだけだった。


十八歳で「かけはし」を退所後は、寮付きの工場で、ライン作業の職についた。ふと目についた「希望の箱」のポスターをきっかけに「希望の箱」の門を叩く。皆、親切にしてくれた。サイトウは誰よりも熱心に奉仕活動に励んだ。約三年、教団に通ったが、四年目に教団の管理業務に空きがでて、就職後、贅沢をせずにコツコツと貯めたなけなしの貯金を寄付金として収めた後、教団に身を寄せる事となった。

「思えば遠くにきたもんだ…」と、どこかで聞いたフレーズを小さな声でつぶやいた。


自分の足元には黒い影がからみついている。思えば遠くにきたわけだが、もう歩けなくなるのも時間の問題だろうとサイトウは思った。


■トモヤと山梨三日目


タシロとレンは、祈祷室であぐらを組んでいた。三泊四日の体験入信の間にトモヤと兄を引き合わせてやりたい。だが、快適な教団で質素な飯を食べ、ありがたいお言葉を聞き、瞑想という名の昼寝を繰り返して三日が過ぎようとしている。快適な空間ではあるが、オカダの飯が恋しくてたまらない。レンは明らかに痩せて、もともと大きい目がさらに大きく見えた。トモヤの兄はまだ見当たらない。見込みを外しただろうかとタシロは困っていた。


二人は今日の午後は中庭でのヨガと瞑想を組み合わせた修行に参加することにした。レンはトイレに行くといい、タシロは先を進んだ。中庭に向かう途中、フリールームの一室のディスプレイが、空きでも使用中でもなく、英語のメッセージを表示している。すぐ近くを歩いてきた若者に、壊れているのではないかと声をかけた。若者の作務衣は淡い青色だった。

「お知らせ、ありがとうございます。ちょうど今、青年部部長が、いらしているので見てもらいましょう。部長!すみません、こちらへお越しいただけますか?」と若者は声をかけた。

紫色の作務衣を着た、部長と呼ばれた長身の青年が、振り返った。

青年の顔を認識し、タシロは鼓動が早くなるのを感じた。

「ディスプレイが壊れてしまっているみたいで」と若者が説明する。

「予約がぶつかってしまって、データの不整合が起こってしまったのかな。少し待って」と青年は手にしたアイパッドを、トトト…と操作する。ディスプレイは一瞬真っ黒い画面を表示して、すぐに空きの表示に変わった。

「直ったかな。申し訳ないが、このダブルブッキングしてしまった片方の予約を消して対応したよ。予約を入れていた彼に予約を取り直すよう伝えてもらえるかな」と青年は若者に言った。若者はうなずいて去っていく。青年も、では、と去ろうとしたが、タシロは、彼の手首を掴んだ。


「すみません、トモヤさんのお兄さんですよね。少しお話ができないでしょうか」と声をかけた。青年は、やや驚いた顔をして、黙ってうなずいた。ここで言い争うのは賢い選択ではないと判断したようだ。

「…今晩、一〇時に、離れの祈祷室があります。そこで」と告げて去っていった。

トイレから戻ってきたレンに、タシロは小さくガッツポーズをした。トモヤに連絡を取らねばならない。


時刻は夜の九時五十五分。

先に離れの祈祷室に着いたのは、トモヤの兄だ。電気をつける。離れの祈祷室は、ドーム型の建物の裏に、三つほど立っている小屋だ。ここは幹部専用で、鍵が必要である。兄は目を閉じた。先程の青白い顔の人物は何者だろう。トモヤの事を知っていた。何をしに来たのか。何かを知っているのか。

人が近づいてくる気配がする。コンコンとノックの後、ガチャリとドアを開けて入ってきたのは、昼間にあった青白い顔の人物ではなく、よく知った、自分によく似た人物だった。

「トモヤ…」

茶色の作務衣を来た、トモヤが立っていた。


場面は一〇分ほど前に遡る。トモヤとレンは、タシロからの呼び出しを受け、教団の外壁に立っていた。こっちこっちとレンが囁き、トモヤが、外壁を軽やかに登る。タシロが手渡した作務衣に着替える。洗濯室から一枚かっぱらってきたものだ。

「ねぇ、これ洗濯前のやつじゃない?やだなぁ」とトモヤは文句を言った。

「うるせぇ、とっととしやがれ」とレンは応答する。

トモヤは壁の向こうにいるライに声をかけた。三〇分、長くても一時間後に車に合流する。念の為、準備しておいてくれる?とライに声をかけた。

ライは、わかったとだけ答えた。


そしていまここに、兄と弟の感動の対面が果たされていた。抱き合って感動を喜び合う場面であるが、そうはならない。重たい空気が二人を包む。

口を開いたのはトモヤだ。

「時間があまりないから。ねぇ、兄さんは今、何に巻き込まれているの。それとも、巻き込んでいるの?」



タシロとレンは、ある人物に会うために礼拝堂に向かった。礼拝堂の入り口は開いている。

中にいるのはサイトウだ。サイトウは人気を感じて、振り返った。そこには、先日体験入信にやってきた二人がいた。

「あのぉ、すみません、…眠れなくて散歩に出ようと思って…そうしたら礼拝堂があいていたので…」とタシロが説明した。

サイトウは、「大丈夫ですよ」と声をかけ、二人は礼拝堂の奥へ進んだ。

「夜空に照らされた祭壇を見るのが好きで、こうして消灯後に礼拝堂に来るんです」とサイトウは話した。

「昼間は運営業務で忙しくて‥‥一日の終わりにここで自分と向き合うようにしているんです」


サイトウとタシロとレンは、横並びに座って、祭壇のシンボルを見つめる。静かな時間が数分流れた。

タシロが静かに声を発した。

「サイトウさんとマエハラさんは、かけはしで一緒に過ごした仲間だったんですね」

サイトウは、タシロの方を向いた。タシロは前を見つめたままだ。


「これは、独り言です。俺は祭壇に向かって、話をしています。

仲間が、お二人がかけはしの集合写真に映っている写真を見せてくれました。仲間は、マエハラの顔しかわからなかったようですが、俺はわかりました。口元の黒子が印象的な、三日前に会ったばかりの親切な女性が一緒に映っていました。この男女は、児童養護施設で一年ほど同じ時を過ごしたようです。その後、男の方は上京し、女の方は山梨に残った。二人は別々の道を歩む。だが、二人は、それぞれの道で、節目節目になんらかのタッチポイントを持つことになったんでしょう」


タシロの言葉を、レンが引き継ぐ。

「サイトウさん、本当に親切にしてくださってありがとうございました。俺、別に宗教に否定派ではなかったんですが、やっぱりちょっとうさんくせぇなって思ってました。でも違いました。みんな穏やかで、各々を尊重してる。社会貢献にも熱心だ。こんな美しい空間があるのかと感動しましたよ。サイトウさんとこの希望の箱が大好きになりました」


サイトウは、そうですかとつぶやこうとした時、「だから、本当にすみません」

とレンの声が遮った。レンがサイトウの鼻をつまんだ。

呼吸を求めて、サイトウは口を開ける。レンはその口に、先程トモヤから預かった液体を流し込んだ。

ぐふっと咳込みながらもサイトウはその液体を嚥下した。薬が効き始めるのには、五分はかかるかと思いながら、レンはサイトウの口周りの液体をハンカチで拭いてやった。


「サイトウさん、あなたの罪について話してみませんか」とレンが聞いた。

薬が効いてきたのか、サイトウの体からは少しずつ力が抜け、目を閉じながらポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた。


「…ご存知の通り、マエハラと私は、同じ施設で一年だけ一緒に過ごしました。別に恋仲とかそんなのではありません。施設を退所後も時々、電話で近況を話して、困ったら助け合って…。マエハラのEコマースの会社が立ち行かなくなったことがあって、システムに詳しいうちの青年部部長を紹介したんです」

サイトウは続ける。薬のせいで口がうまく動かないのか、唾液が口の端から溢れる。

「マエハラは部長を救世主だと喜びました。彼の会社はどんどん大きくなって‥‥教団にもたくさんの寄付をしてくれました。

ある時、マエハラに聞かれました。システムを触ることはできるかと。青年部部長とシステムの管理をすることもありましたから、わかるかもしれないと答えました。そうしたら、夜にFシステムの支社に来るように言われました。そして、取れるだけの個人情報を抜き取り、ハードディスクに保存してマエハラに渡しました。そのあとも、何度も、何度も頼まれて…。」

「マエハラの目的はなんだったんでしょう」タシロが尋ねる。

「さぁ…わかりません。昔の仲間に脅されたか、より金が必要だったのか…。抜いた情報は、反社に売りさばいていたみたいですね。売り先も調べましたよ‥ほんとうに情けない‥」


「サイトウさんの行為に気づいた信者を殺しましたね」タシロは続けて尋ねる。


「彼に言ったんです。勘付かれているかもしれないって。そうしたら、消すしかないって。ここで失敗したら、教団もFシステムもだめになって、ひどい生活に戻

ることになるって」


サイトウは、不審を抱いた二人に、森の中で瞑想しようといって誘った。睡眠薬がたっぷり入ったドリンクを、瞑想の前に二人に勧めた。

意識を失った二人を置いて、サイトウは森を抜け出した。自殺に見せるため、睡眠薬の瓶を遺体の付近に転がしておいた。

サイトウの目からは涙が流れた。


「…ただ光を求めていたはずだったのに、いつの間にか闇にからみとられてしまっていた。私は哀れで卑しい人間です。救う価値もない人間です…大好きなこの教団を…私は利用して、汚してしまった…」

サイトウの嗚咽がもれる。


聞きたいことは大体聞けた。行きましょうかと、タシロはレンに声をかけた。レンは、「あー…タシロ、ごめん、先行ってて。俺、サイトウさんを見届けたい」とタシロに伝えた。タシロはうなづいた。

タシロが出ていったのをレンは確認して言った。


「サイトウさん、ごめん。俺、サイトウさんの事好きになっちゃった。こんな素敵な女性を好きにならないほうが無理だよ。だから…少しだけ、俺と一緒に過ごそう…」

レンは、優しくサイトウの髪をなでながら、サイトウの耳元で言葉を囁いた。サイトウの体はレンに寄りかかっている。

「俺は、最低な人間だけど、今だけ、全部俺に委ねて」


タシロは、自室に戻って、荷物をまとめていた。サイトウはあと十五分ほどで息を引き取るだろう。自分たちがサイトウを殺める理由はない。だが、オカダの調査によると既にマエハラがサイトウの殺害依頼を出していた。うちにも、他の事務所にもだ。二三日中には何者かによって、処分されるだろう。ならばうちの仕事として、引き取ることにした。きっと眠るように息を引き取るはずだ。殺害指示が出ていることはサイトウには伝えなかった。伝えたならば、サイトウはマエハラを憎む事ができ、むしろよかったのかもしれないが、タシロにはできなかった。


サイトウは片付いた。トモヤの件ももうすぐ片付くだろう。レンが戻ってきたら、このまま車にのって東京へ帰る予定だ。

だが、タシロは手をとめた。冷や汗が額と脇下に滲んできた。バタバタと人の足音が階下から聞こえてきたのである。


サイトウを看取った後、にぎやかな足音はレンの耳にも入っていた。レンは、センチメンタルな気持ちに浸っていたが、足音にテンションが上った。今日の星占いは自分の星座が一位だろうと思った。見ていないがわかる。憂い気な女性と甘美で官能な時間を過ごし、さらに戦闘までできるなんて!俺の時代がきてるな、これは!とレンは目を光らせながら、作務衣の乱れを整えた。



礼拝堂から、個室に戻る道すがら、ざっと周りを見渡したが、武器になりそうなものは消化器くらいか。これは素手しかないな。自分はますますついていると思った。レンは武器の扱いにも長けているが、素手が一番好きだ。人の感触がダイレクトに伝わるからだ。

タシロの声がレンを呼ぶ声がした。

「おお、タシロぉ。お前は逃げてもいいんだぞー!」とレンは叫ぶ。

「いやいや…そうはいかないすよ」どこから見つけたのかモップを持っている。

「そうか!じゃ、死ぬなよー!」と叫んで、レンはご挨拶がわりにと、長い足でのキックを、襲いかかってきた若者の腹にめり込ませた。


トモヤと兄は、狭い個室の中で向かい合っていた。兄は、ポツリポツリと話し始めた。ブロッサムの雛形は、自分が開発したものだ。もともとは、趣味も兼ねて、信者のプロファイル管理に開発を始めた。信者の数が増えるに連れて、アナログでの管理に苦労していたから、まずは電子化しようと思ったらしい。思ったより、教団幹部からの評判がよく、その話をきいたマエハラから、製品化の打診を受けた。


兄はビジネスにも金銭にも大して興味はなかったっため、最初は断ろうとした。だが、マエハラは、製品化の許可をくれればいい。自分がこの製品を大きくして、その利益を教団に還元すると答えた。

資金繰りに苦しむことなく、自由に教団員が集って、好きなだけ内なる己と向き合う場を設けることができるのならば、それは理想だと思った。


Fシステムは、兄が開発したアプリを製品として売り出す。その利益は教団に還元され、教団員は自由に活動ができる。

そうして、トモヤの兄が理想とするスキームができたのであった。行き場を失った人間は、希望の箱の門をたたいてくれればいい。どんなバックグラウンドの人間も受け入れて、光へ導いてあげたいと考えていた。


だが、そのスキームは長くは続かなかった。欲を出したのか、脅されたのかはわからない。マエハラは、ブロッサムの基幹データベースに保存された膨大な個人情報を、どこかへ横流しし始めたのだ。

横長しだけであれば、Fシステムだけの問題で片付けることができた。だか、そこには教団員が関わっているのではないかと思うようになったのだ。


最初に違和感を持ったのは、青年部でトモヤと共に教団のシステムを管理している二名だった。二名は教団の収支報告に記載されていない入金があると兄とサイトウに告げた。

そしてサイトウが時々外出していることが次の違和感だった。外出自体は禁止されているわけでもなく、おかしなことではなかったが、これまでサイトウは教団内にこもりきりだったのに、最近は妙に頻度が高い。それに、サイトウは、考え込む様子を見せることが多くなった。


兄は、一人で調査を始めた。Fシステムの開発支援にいきたいといえば、マエハラは歓迎して、入館に必要なセキュリティカードを発行してくれた。そして、兄はあっさりとブロッサムに侵入した。基幹データベースへのアクセス履歴には、支社が稼働していない時間の履歴があった。どの日もサイトウが外出していた日だ。

その後、一ヶ月と少しして、遺体が見つかった。

サイトウは、二人は予定通り自宅に帰ったと言っていたが、遺体となって発見された。


点と点はつながりそうだが、何を企んでいるのか、サイトウに何をさせているのか、兄はマエハラに会って聞こうと思った。

だが、兄はFシステムが入るビルの前に到着した時、目前で大きな交通事故が発生するのを目撃する。


「理想の教団活動ができると思ったんだ。それがまさか、綻びをうみ、一人の人間を追い込んでしまった‥‥」兄が眉間に深いしわを刻んで悔しそうに呟く。


「なるほどねぇ。大体わかったよ。ねぇ。表の足音聞こえる?あれは何だろう?ただの宗教施設だよね、ここは」トモヤはドアを指差して言った。


「…あれは…万が一のときは自分たちの身は自分で守れた方がいいというサイトウの考えだ。自分が三十分経っても戻らなければ、不審者がいないか探して欲しいと伝えてあった。信者の中には自衛隊除隊者や格闘技経験者もいる。自分達は警察を簡単に呼べはしない。多少の揉め事は自分達で処理しないといけないんだ。だから、一部の信者には、いざというときは、戦っても構わないと指示しているんだ」


時刻は十時二十五分。兄が小屋に入って三十分。トモヤと兄が向かい合って二十分と三十秒だ。

なるほど、よく訓練されているようだとトモヤは思った。


「戦闘体制整えて、情報漏洩して資金繰りねえ。やってることはヤクザと一緒じゃん。何が希望の箱だよ。ブラックボックスと呼ぶほうがふさわしいね。きっと漏洩した情報は、ブラックマーケットで売り捌かれて、オレオレ詐欺とか、拉致監禁候補者リストとかに使われてるよ」

トモヤはわざと非難がましく言った。兄が目を覚まして、教団と距離をおくように願って。


「すまないと思っている。一部の人間がした事だが許される事とは思っていない。‥‥だが、トモヤ。お前が希望の箱を馬鹿にすることは許さない。お前には繊細の心をもった者、弱い者の気持ちなどわからないだろう。罵倒と非難しかあびず、いや、それすらもなく誰からも気にかけられることなどなく、宗教に希望を見出す以外なかった人間の気持ちなんてわかるわけがない。お前には絶対にわからない。」


トモヤの兄はヒートアップしていく。目つきが激しくなり、顔が赤くなっている。

「トモヤ、よく聞け、お前は、希望の箱と俺たちをバカにして、俗世間を飄々と器用に生きているつもりだろう。だが所詮、お前も雑踏の中の一歩兵だ。薄っぺらい言葉と、欺瞞だらけの世界でお前は死ぬんだ。俺はここで、教団員たちと、平和で穏やかな教団を作る。父さんと母さんも一緒にだ。そして教団員に見守られて、光の世界へ行く。お前は一人孤独で死ねばいい。

お前は、俺と距離をとったつもりだろうが、勘違いするな。お前を捨てたのは、俺の方だ。わざわざそれを伝えなかったのは俺からのお前への憐みだ。わかるか!」


あぁ、そうか。トモヤは理解した。兄を慕っていたのは自分だけなのだ。希望の箱から距離をとった自分は、兄に捨てられたのだ。あのラインの返事から察するに父母からも捨てられたのかもしれない。家を出たタイミングが、父母に自分の疑問を投げかけたタイミングか、どこかの時点で自分は捨てられたのだ。

トモヤは兄を心配したが、兄はトモヤを気にかけなどしていなかったのだ。自分はなんと余計な事をしたのか。


トモヤの頭には、まず、自分は兄に愛されていると、兄を助けなければならないという根拠のない自信を持っていた自分を恥ずかしいという気持ちが浮かんだ。穴があれば入りたいくらいだ。仲間を巻き込んで。自分はとんだ大馬鹿ものだ。

羞恥心の次に、激しい怒りがトモヤを襲う。

好き勝手言ってくれやがって、兄がそう言うなら、自分はあらがってやる、上等じゃねぇか、俺は一人で死ぬことを喜んで選択するとトモヤは思った。

「兄さんわかったよ。俺は、この現実世界で、どっぷり汚れて、地獄へいってやるよ。俺は何も怖くない。この空間に閉じこもってぬくぬかしてるてめぇのような臆病者じゃない!」

そういってトモヤは、スマートフォンでライに指示を送った。

遠くで爆発音がした。


「じゃあね、兄さん。元気そうでよかったよ。俺はこれからこの教団をぶっ壊す。兄さんはせいぜいこの教団を守るのに尽力してくれよ」

トモヤは離れを去り、喧騒の中心へ向かって走り出した。


「ちょっと、レンさん。なんか人数増えてねぇスか」とタシロはモップを振り回して叫ぶ。

「ほんとだな!うじゃうじゃと、どっから湧いてきたんだろなぁ!」素人ばかりかと思いきや、経験者もいるらしい。レンの手にはバールがあった。スキンヘッドの拳がレンを捕らえるより早く、レンはバールをスキンヘッドの眼球を狙う。

ぐにゃりと眼球に触れた感触がレンを興奮させた。


「レン!タシロさん!」トモヤが走って合流してくる。

タシロが、トモヤさん!と答えようとしたが、タシロが振り返ったときには、トモヤは膝から崩れ落ちようとしていた。トモヤの背後には、女性が金属バットを握っていた。女性には不似合いな金属バットだ。どうやらトモヤは金属バットで頭を殴られたらしい。なんで金属バットがあるんだよ。野球の時間なんぞ修行メニューにはなかったぞとタシロは思った。

「おい!トモヤ、死んじまったか?!」とレンが叫ぶ。

トモヤの頭部からは血がたれ、床に血痕を作る。トモヤは膝に手を付き、かろうじて立とうとする。同時にトモヤが叫んだ。


「ちくしょぉぉぉーーいってぇなあああー!!」


タシロは驚いた。トモヤが、大きい声を出すのを見るのは初めてであるし、ちくしょうなどと乱暴な言葉を使うのも初めてである。トモヤは続ける。

「俺はなぁ、今めちゃくちゃ機嫌わりぃんだよ。こっちが遠慮してたら、調子にのりやがってなぁ!ぶっ殺す、全員ぶっ殺すからな!かかってこいよ。ぜーいん俺が光の国に送ってやらぁ!」といって、腹から銃を取り出し、女性の腕に向かって引き金をひいた。さらに、作務衣を着た三人がトモヤに襲いかかる。トモヤはダン、ダン、ダンと三人の右肩を撃ち抜いた。


「は、ははは」タシロが引きつった笑いを漏らす。トモヤの一人称が僕ではなく、俺になっている。

レンはもう愉快愉快、笑いが止まらないという様子だ。

「ハハハ、ハハハ…トモヤ、おま…、最高…!」

「と、とりあえず、ここを脱出しねぇと」と、タシロは三日前にくぐったゲートに向かって必死で走る。

しつこくも、何人かの作務衣が追いかけてくる。


「ライ、ゲートをお願い」スマートフォンでトモヤはライに声をかける。

ゲートがドォンと音を立てて崩れた。

「帰ろうぜ!オカダの飯が恋しくて、俺、死ぬ!」とレンが叫んだ。


車は中央道をハイスピードでのぼってゆく。運転手はタシロだ。アクセルはベタ踏みだ。サービスエリアは無視だ。

帰りの道すがら、ライは、トモヤに声をかけた。

「ねぇ、トモヤ、お望みなら、教団施設ごと吹っ飛ばせるけどどうする?」

「あははは、ありがとう。ライ。まだ仕掛けたのが残ってるんだね」

「うん。でも埋めたから、たぶん見つからないよ」

「ありがとう、でもいいよ。ぶっ放して欲しくなったときは、そう言うから。その時はお願い。明日になるか、三年後になるかわかんないけども。あぁー!僕もお腹へっちゃったな」とトモヤは伸びをして、腹をさすった。


車の中で、トモヤは兄とのラインのトークルームを削除した。先程は本当に恥ずかしくて、本当に腹が立っていた。小屋を出たときに同じ質問をライからされていたら、よろしくぶっ放してくれと言っていただろう。

今はなぜか清々しい気持ちだ。

兄は兄なりに理想を求めて前進していたのだ。別の視点に立てば、立派な兄さんなのだろう。兄は理想郷を追い求め作ろうともがいたのだ。

だが自分はもう弟を卒業せねばならない。二人の道は全く異なる道だ。交わることはないだろう、いや、いつかどこかで交わることも‥‥あるのかな、全く予想がつかないなとトモヤは苦笑した。


東京についた時には、もう空は明るかった。オカダは、おにぎり・ホットドッグ・ミルクスープ・みかんゼリーを用意して待っていた。食べたら寝ましょうね、とオカダが声をかける。オカダの声に反応したかったが、皆、オカダの料理に夢中でうなずくのが精一杯だった。食事の後は皆、体になじんだベッドの上で、泥のように眠った。


◾︎トモヤと東京


翌日の夜、四階のダイニングでは、タシロがなにやらいそいそと準備をしていた。そう、タシロは、教団への道すがら、レンを褒めちぎるという約束をした。その大事な約束を果たさねばならないのだ。タシロはどう褒めるのがいいか悩んで、レンを褒めるためのささやかなパーティーを設けることにした。

「レンさん、サイコー」とタシロの汚い字で書かれた横断幕を壁に飾った。重厚な木製の家具が置かれたダイニングには全くの不似合いだ。

トモヤはにこにこと笑って、ダイエットコーラを手に持っている。

ライは、呆れた様子で、手にはアイスココアを持っている。炭酸は苦手らしい。

「さぁさぁ、レンさん、こっちこっち…」とタシロがレンを部屋に促す。

横断幕を見たレンは、おおお!と声をあげ、タシロが、うやうやしく、レンを称えるスピーチをし、バラバラの飲み物が入ったグラスを掲げて乾杯をした。


「僕の勝手な茶番に付き合わせて本当にごめんなさい。公私混同も甚だしかったと思う」トモヤは謝罪の言葉を口にした。

「結果的には依頼もさばけたし、いいんじゃないですが」とオカダはアップルパイを切り分け、クリームを添えてライに渡す。

「トモヤのブラコンは今に始まったことでもないしね」とライが皿を受け取りながら答える。

「えっ、僕ブラコンなの‥‥?」とトモヤが目を丸くする。

「いやいや、お前バッキバキのブラコンだろうが。何話してもすぐ兄貴の話にすり替えやがる」レンが指についたマスタードソースを舐めながら言った。

「お兄さんのこと、大事なんスね」とタシロ。

トモヤは、しばらく納得がいかない様子だったが、あはは、そうかもねと、笑っていた。


レンの持ち上げパーティーから二日後、レンとトモヤはFシステムの横にあるコーヒショップにいた。午後一時のコーヒーショップはランチを終えたサラリーマンやOLで賑わっており、二人も列に並ぶ。トモヤは、レジカウンターのメニューを指さしながら注文を伝えた。

「僕は、今日のおすすめコーヒーをホットのラージサイズで。あと、コーラを一番大きいサイズで。会計はスイカでお願いします」とトモヤはスマートフォンを差し出した。

店員は、かしこまりました、あちらでお受け取り下さいと応えた。電子決済が完了したことを示すピロンというメロディが鳴る。

「じゃあ俺、車で待ってるからなー」とレンはコーラを片手に店を出ていく。

トモヤは、セルフカウンターで、コーヒーにミルクと砂糖を注いでいた。隣には、紙カップをカウンターに置いたまま、携帯を操作している男性がいる。トモヤは蓋をして、隣の男性と自分の紙カップを素早く入れ替え、コーヒショップを後にした。


レンは、車に戻ろうとして、見知った顔とすれ違った。いつぞやにも会った眼鏡をかけた、同業の者だ。目的は同じなのだろう。

すれ違いざま、レンは見知った人物の二の腕を掴み、レンは囁いた。

「わり、今回は譲ってやってくんね?うちも色々あって。頼むよ」

な?とレンは眼鏡の人物の顔を見た。

眼鏡の人物は、眉間にシワを寄せたが、フンといって、脇腹に差し込んだ手を緩め、レンの腕をはらった。そして、コーヒショップの前を通り過ぎていった。

「おまたせ、帰ろうか」とトモヤがレンに声をかける。

「おう、帰るか」とレンが応えた。



翌日のニュースでは、Fシステム責任者のマエハラが、昨日昼過ぎ、心臓発作で亡くなったたことが報じられた。四階にはテレビがないので、皆で五階で食事をとっている。過労死に詳しいコメンテーターが、難しい顔で何かを語っている。

タシロは、ホットドッグにかぶりついた。この間、レンが食べているのを見て、食べたくなったのだ。レンもホットドッグだ。トモヤは、ツナサラダ。ライはプリンアラモードを食べている。ご丁寧にさくらんぼ付きだ。

「Fシステムの社長の件、出てるっすねぇ」タシロは新聞を読みながら話している。新聞の上にピクルスがこぼれた。食事のマナーには気をつけているタシロは行儀が悪いと思ったが、ジャンクフードだからいったんいいだろうとタシロは思った。タシロはさらにホットドッグを口にした。

「Fシステムの経営は、開発責任者のカワムラに引き継がれると同時に、ブロッサムは大幅なアップデートを予定している。原点に立ち返るという意味で、ブロッサムの前身の製品の名前をあえて名付けることにした。製品名は、エレガンス…」とタシロが新聞を読み上げる。

「エレガンス…」とトモヤがつぶやき、その後トモヤはクックッと肩を震わせた。

「おい、トモヤ、どうしたんだよ」レンが、訝しげにトモヤを見る。

「あははは、エレガンスだって…こんなおかしいことあるのかって…」トモヤの目には涙が浮かんでいる。

 オカダ・タシロ・レン・ライは、それぞれ頭にはてなマークを掲げてトモヤを見つめた。


「あーおかしい」と言いながら、トモヤは、いつかの兄との会話を思い出していた。


「お兄ちゃん。お父さんから、これもらった!」とトモヤが兄の部屋に走って入る。

机に向かってシャーペンを走らせていた兄は手をとめ、トモヤの方を振り返る。

「お、よかったなぁ。東南アジアのお土産なんだって?ってなんだこれ?」

丸い硝子を手にとり、兄は不思議そうに眺める。

「これはね、ゲルセミウム・エレガンスの標本だよ。エレガンスは、毒花なんだよ。世界一強いんだ。僕の宝物だよ!」

「おおー、宝物かぁ、よかったなぁ、大事にしないとなぁ」と兄はトモヤに笑顔を向けて、返事をした。

昼下がりの暖かい日差しにつつまれたある夏の日の会話だった。





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