三話 異世界の地
「……おい。起きろ兄ちゃん」
「……フガッ」
突然誰かに揺さぶられて目を覚ます。この年になると少し動いただけで直ぐ疲れてしまう。
夜はぐっすり眠れないくせに、日中は途切れ途切れに眠ってしまうし、歳をとるってのは本当に嫌なもんだ。
「ヒッヒ……。なあ兄ちゃん、煙草ォ……。煙草持ってねえか?」
そんな事を覚束ない頭で思いながら目を向けると、大層薄気味悪い様相をした男とも女とも見て取れる人物が俺の肩を揺らし所々歯の抜けた口を歪ませて笑っていた。
「あ……ああ……」
言われるがまま、俺は自身の胸ポケットから煙草を取り出して一本差し出す。
「ヒヒッ……。見ない煙草だな。紙で巻いてあんのか」
「なんだおめぇ……? ハイライツも見た事ねえのか?」
物珍しく紙巻の煙草を見つめる人物は、白く伸び切った髪に、薄汚れたローブに身を包んでいる。見てくれからしてホームレスだろう。
生活保護者を集めて上前をピンハネする奴の元、俺だって運よく屋根付きの家に住めている訳であって、少し道を間違えればこうなっていたんだ。そう思うと、無下にもできねえ。
「ちょっと待て、今火を……」
「ああ、問題ないさ。ヒッヒッヒ……火」
その薄気味悪い奴は自身の人差し指からろうそく程の小さな火を出すと、咥えた煙草に火を付け出した。
歳を取ると心の起伏か乏しくなる。だから、余り驚きはしなかった。
「なんだ? 礼に手品でも見せようってか?」
「手品? 手品ってなんだい? ヒッヒ……。プハァー……。うめぇなぁ」
「……変な野郎だ」
そんな不気味な奴を後目に、俺も煙草を咥えてライターで火を付ける。
すると、そいつは小枝の様に痩せた細長い指を伸ばし、煙を吐き出しながら俺へ訪ねた。
「め、珍しいもん持ってんなぁ……? その、赤くて透明な奴」
「おいおい、どういう生活送ってんだおめ……」
ゆっくりと顔を上げたその時、俺は初めて自身が置かれている状況の全貌を見た。
「そんな……。嘘だ……」
思わず加えていた煙草がポロリと落ちる。
「どしたぁ? ポッポンがツブテボウ食らった顔してるな? ヒッヒ……」
「……! おい! ポッポンって……!」
正しくその光景は、五十年前に見た景色そのものだった。それに、そいつが言ったポッポンとは、鳩のような鳥の事だ。……間違いない。
「異世界……! ここは異世界じゃねえか!」
石畳の床に、レンガ調の建造物。周囲を見渡すとここは広場で、日本では見慣れない衣服に身を包んだ人々の雑踏が、広場の向こうで忙しく行き来していた。
俺はぎくしゃくする足腰なども忘れ、急いで立ち上がって再び周囲を何度も見渡す。
間違いない。あの頃の景色のまま、何一つ変わっちゃいねえ。
「へへへ、変な奴だぁ。寝ぼけてるなぁ?」
「は、はははは……。嘘だろ、帰って来たんだ……」
俺は声を掛けるそいつに目もくれず、自身の頬を何度も抓る。
「い、いてててて……。ふぅ……ふぅ……動機が……」
歳を取ればそれなりの事じゃ驚かなくなるが、随分と久しぶりに心臓が高鳴ったせいか、息が上がってしまう。こんなヨボヨボの身体じゃなければ、飛んで喜んでいたってのに。
「な、なにを興奮してるかしらねえけどよぉ、ヒヒ……。礼にいいもんやるよ」
もくもくと煙を吐き出し、不気味な笑みを崩さぬまま、そいつは自身の懐に手を忍ばせると色あせた木箱を取り出した。
「礼……? 礼なんていらねえよ。ふぅ……」
ようやく内蔵が落ち着きを取り戻し、俺がゆっくりとベンチに腰掛けると同時だった。
そいつは徐に木箱を開け、中身を俺へと見せつける様に近づけるので手に取る。
「……おいおい、葉巻があるじゃねえか」
「そ、そいつはただの葉巻じゃねえ。若さがギンギンに蘇る葉巻よ……」
「そいつはどういう事だ?」
異世界には現実世界じゃ考えられない魔法という物を駆使した道具や薬があるが、にわかにも信じがたい。俺がこの異世界に居た五十年前だってそんな代物は存在しなかった。
死と老いは常に隣り合わせのもんだ。
何人たりとも逃れれるもんじゃねえ。
「そりゃもう、ギンギンのバッキバキよ……。火がついてる間しか効かねえけどな」
木箱の中には、丁度十本の葉巻が入っている。
そもそも葉巻は吸うもんじゃなく吹かすもんだし、甘ったるい香りが俺は余り好きじゃない。
一本手に取って鼻に近づけると、乾燥させた松のような香りがする。
「……精力剤かなんかか? わりいがそう言うのはもういいん……だ……?」
突き返そうと俺が顔を上げる。ギンギンになった所でもはや何もない。そう思ったからだ。
しかし、薄気味悪いそいつは嘘のように姿を消し、先程までそいつが立っていた場所に、ボロボロの紙が一枚……。
「……どこ行った?」
何気なくそれを拾い上げると、ミミズが這ったような文字が掛かれている。
どこかで見た事ある気がしたが、ダメだ。思い出せねえ。確かに見覚えがある文字なんだが……。
少し頭を抱えていると、ガチャガチャと懐かしい音が背後より近づいてくる。
この音は覚えている。鉄甲冑の足音だ。
「おい、そこの貴様! ウィッチーを見なかったか?」
ウィッチーと言えば、魔族側に属する魔法使いの呼び名だ。何となく穏やかじゃない様子を察して、俺は先程受け取った木箱と拾い上げた紙をポケットに忍ばせて振り返る。
「……悪いが見てないね」
見た感じ、王都の警備兵だろう。
鎧の見掛けも五十年前となんら変わっちゃいねえ。
強いて言えば、胸の所に緑色の石が付いたくらいか?
「本当に見てないのだな? 魔族への無断関与者は容赦せんぞ?」
後、変わったのは高慢チキな態度になりやがったくらいか。
「こんな老いぼれジジイが魔族と関わってどうしようって?」
魔族関与者? 聞きなれない単語が脳裏に疑問を残すが、俺はあえておどけた様子でにっかりと笑いながら答えた。
すると鋭い壮年の眼がつま先から頭頂部まで品定めするように俺へ向けられると、急に踵を返した。
こいつの眼は戦争も知らねえ甘ちゃんの眼だ、直ぐに俺はそう感じた。
「……ふん。失礼」
ガチャガチャと忙しく遠退いていく足音を後目に、俺は嘆息する。
「本当にな。こんな老いぼれ呼び出して今さら何させようってんだ」
この世界にイディアはいねえ。それに、こんなヨボヨボの老体で何を成し遂げれるって言うんだ。
我ながら皮肉の効いた独白だと、異世界の空へと目を向けた。
神や仏が居るのなら、こんな冥途の土産要らねえと心の底から思う。
◇