NEVER
僕は走った。
ただ、あの場所を目指して、普段の倍速以上のスピードで都会の街を駆ける。
目的地は分かっていた。
彼女の居場所は、モグに言われなくても、すぐに理解できた。
絶対にまた来よう。そう約束したものの、二度と行く事が出来なかった場所。
きっと、そこに。
ぐんぐんスピードが上がる。
三倍速、四倍速、五倍速まで来たところで、スピードを制御し切れずに転倒した。
死人である僕の体は、亡霊の様に通行人を擦り抜け、住宅を擦り抜けてゴロゴロ転がっていく。
何かに捕まる事も出来ずに転がり続け、しばらく滑った後に、ようやく静止する。
今の僕の体は何一つ痛みを感じなかった。
すぐさま起き上がり、再び走り出す。
僕が死んだ日の朝、モグは確かに言った。
もうすぐ会えますよ、と。
その言葉が本当なら、嘘をつかないモグが今も嘘をついていなかったら。
僕の事をそこで待っているのか。
そう考えれば、立ち止まる時間の一秒が惜しかった。
我を忘れて走り続ける。
今度はスピードが上がっても転倒せずにいられた。
歩行者用の信号機が点滅して赤に変わる。それを無視して走った。
誰も僕を見る事が出来ないのだから、わざわざ立ち止まる必要もない。
今までの人生を思い返してみれば、辛いことしかなかった。
いつだって劣等感にまみれて、誰からも必要とされず、誰も僕の事なんて見ていなかった。
今の状況と少し似ていると思った。ただ違うのは、あの時は、僕の姿は見えていたという事。
見て見ぬ振りをされてきたという事。
そんな僕を唯一見てくれて、愛してくれた人。
そんな貴方に、会いたい。会いたい。
「会いたい」
そうして、一体どれくらいの距離を走ってきたのか。ようやく、あの巨大な観覧車が見えてきた。近づけば近づくほど、見覚えのある景色が広がっていく。まるで、五年前にタイムスリップでもした気分になった。
彼女との約束の場所。その遊園地には、不思議と一人も人がいなかった。アトラクションの乗り物も全て動きを停止していて、不気味なほど静まり返った園内を歩く。
自分の足音だけが反響する中、ふと、遠目に人の姿が見えた気がした。
気のせいかと思って目を凝らすと、花模様が浮かんで見えた。
「あ……」
ゆらゆらした足取りで、ゆっくりと影の方へと歩み寄っていくと、それは確信に変わった。
近づく度に、輪郭までハッキリと見えてくるその姿は、五年前と全く変わっていなかった。夢かと思って、目をこすってみても消えないそれは。誰よりも、何よりも愛した。
「咲季!」
紛れもない、彼女の姿だった。
ニコリと微笑んで、咲季が口を開いた。
「久しぶりだね。広夢」
「あ、あぁ……」
ようやく会えた。
五年ぶりに見るその姿も声も、それこそ、僕がこの世で一番求めていた物だと思った。才能なんて、下らない。
言いたい事は沢山あった筈なのに、何故か上手く言葉にする事が出来ず、ただ声にならない声で泣くのが精一杯だった。
「あはは、泣きすぎだよ。変わってないね」
変わってない。全くその通りだ。僕の中の時間は五年前から止まり続けたままだったから。でも、今はそんな事どうだってよくて。僕は彼女を抱きしめた。
「会えて、よかったぁ……!」
「うん、私も嬉しいよ。勝手に死んじゃってごめんね」
感じた彼女の体温は、今までのどんな温もりより暖かった。
だが、謝るのは彼女ではなく僕の方。何も出来なかった僕の方だ。
「守ってあげられなくて、ごめんな……!絶対に守ってあげたいって思ってたのに……!」
涙を流したまま、僕は彼女に謝罪した。
泣きながら謝るなんて、どんなにカッコ悪い事だろうか。ましてや、女の子の目の前でだ。他の誰かが見たら失笑するだろう。
周りに誰もいなくて良かった。と思った。
「じゃあ」
咲季は、笑いながら言った。
「これから、守ってね?」
悪戯に笑う彼女を、もう一度抱き寄せ、約束した。
「うん、絶対、絶対に約束するよ」
「絶対?」
「絶対だよ」
「約束ね」
「約束するよ」
そして、彼女の小指と、僕の小指が絡まった。
まるで、小さな子供のような無邪気な声で、彼女が言った。
「ゆーびきーりげーんまーん……」
少し遅れて、指切りげんまんだと言う事に気づく。指切りなんて、もう何年もやっていなかった。
「ゆーびきったっ!」
「早くない!?」
しかし、歌詞のほとんどをカットしてしまっていた為に、久しぶりの指切りは、ほんの数秒で終了した。
「だって、全部歌ってたら時間かかっちゃうでしょ?」
あっけらかんと言う彼女が、なんだか可笑しくて笑ってしまった。
「あー、なに笑ってんのー?」
「あははっ、ごめんごめん……」
「もー、ちゃんと約束守ってよー?」
怒ったように彼女が言う。少し前まで当たり前だった日常が戻ったような気がした。
僕が「守るよ」と言うと、咲季は再び笑顔に戻ってくれた。
「でさ、私達はこれから天国にでも行くのかな?」
「うん、偉い神様がそう言っていたよ」
僕は、しばらくの期間を共に過ごしたウサギの事を思い浮かべて答えた。あの気まぐれな死神は、今頃何をしているんだろう。
「じゃあ最後に、あれ乗ろうよ」
彼女が「あれ」と指差した方向にあるのは、日本一大きい観覧車だった。
ゆっくりと回るそれは、どこか僕達を誘っている様で、まるで天国に繋がる乗り物に見えた。
これに乗れば、僕達はこの世からいなくなる。
彼女も、その事を理解して言っているのだと思った。
僕は頷いた。
「じゃあ行こうか!」
咲季が僕の手を取って歩き出す。遅れて僕も歩みを進めた。
近くで見る彼女の後ろ姿は、服の花模様よりも華やかに見えた。
これから僕達は消えてしまう。それを不幸だとは思わなかった。
再び彼女と一緒になれるなら、これ以上の幸福はなかったから。また、こんな風に幸せな時間を過ごせる事から、僕の人生は美しいのかもしれない。本気でそう思えた。
そう思いながら、僕達は観覧車に乗り込んだ。
ゆらゆらと観覧車が動き出し、この日、今までの誰よりも幸せに、僕達は二人で一つの生涯を終えた。