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目を伏せていた時間は短かったかもしれないし、長かったかもしれない。あたしはすっかり時刻の感覚を失っていた。
けはいを感じて、うつぶせていた体を起こすと、首筋がみしりと嫌な音を立てる。どうやら、思わぬ負荷がかかっていたようだ。それなりの時は経っているらしい。
何より先に手紙をふところに収めて、立ちくらまないようにゆったりと足を踏みしめる。めくれた裾をひっぱって直し、前を向く。部屋のなかには誰も居ない。外だ。
ちょっと気にして、髪を撫でつけてはみるが、気休めにしかなりそうもない。まぁ、しかたないか。長いこと、うつぶせで眠ってしまったのだろうから、顔にも跡がついているに違いないし、気にするだけムダかも。
あたしは一歩近づくごとにこわばった体をほぐしながら進んで、戸の前に立った。今回は知り合いではなさそうだ。
あちらは声もかけてこない。扉を叩くこともせずに、すぐに錠を開けた。
人影はすらりと背が高かった。目の前に軍服の胸元が見える。士官だろうか。あたしは頭ひとつぶん、目線を上にあげつつ、襟章を確かめた。赤い布地の上下の縁と中央にそれぞれ一本ずつ、細い金線が水平に走る。中央の線の上に星がふたつ、横に並んでいた。中尉だ。
白い喉が襟と顎の隙間からのぞく。尖ったおとがいと健康的な赤みを帯びたくちびる。切れ長の目は冷ややかで、瞳の紫の印象とよく合っていた。惜しむらくはきらきらの銀髪がひっつめにされているところかしら。これが肩に流されていたら、あたしは初めてナギに会ったときのように、すっかり見蕩れてしまっただろう。
なんて美人さんなのっ!
ことばにするまで数瞬かけて、ようやっとそう叫んだ。もちろん、心のなかで、だ。扉のむこうに居たのは、女性士官サマだったのだ。歳はあたしのほうが上のようだ。王子殿下と同じか、ひとつ上くらいに見えた。
あたし、立場も忘れて、わくわくしてしまった。きれいなひとは大好きだし、女性の士官だって登用されて間もないはずだ。それを初めて目にしたのだから、ちょっとは情状酌量の余地があるってものだと思う。
しかし、美人の中尉さんはあたしの視線に好奇の色を気取ってしまわれたらしい。こちらが気づいて謝る隙もなく、眉を微かにひそめて、事務的にものを言った。
「わたくしは、第二師団第一旅団第二連隊第二大隊第三中隊第一小隊長、サマリア=レンスフィールド中尉です」
「はじめまして、中尉。ご丁寧にどうも。あたしは、」
「存じています。ルキア=アシェルバーグ子爵令嬢ですね? あなたをお連れしろと、指示を受けております」
うまく耳を通り抜けようとしない音に、あたしは対処しきれなかった。
「いま、なんて」
中尉はあきれることもなく模範的な態度で、さきほど口にしたのと、ほぼ同じ意味のことばを再現してくれる。
「わたくしはルキアどのをお連れするために参りました」
呆然として、応じることができないでいると、中尉は失礼、と短く言って、あたしの右手首をとった。やさしく引かれて、廊下に踏み出すと、腰のあたりに彼女の左手が添えられる。しぐさは優雅だし、きびきびしている。でも、なんだか妙に急かされているようだ。
不審になって、中尉の横顔を見上げると、彼女は表情も変えずに、こう、おっしゃった。
「出立まで時間がありませんので、こちらでの説明は省きます。ご質問がおありでしたら、馬車の中でうかがいましょう」
小気味よいほどの早口で言われて、起床後まもないあたしは、どちらへとも知らされずに問答無用で連行されるハメになったのでした。
そういうわけで。あたしは質問する内容をまとめながら、窓の外を見やっている。日は中天に至らず、いまだ朝のけはいがする。
要するに、あたしはあの体勢で一晩寝こけてたってワケね。いい気なものだと、自分でも思うわよ。
馬車はつい先日、見たばかりの景色のなかをゲバル山脈へ向かって、ひた走っている。
はっ、と浅く息を吐き、あたしは斜め前にいらっしゃる中尉の顔を見つめた。彼女がこちらに向きなおるのも待たずに口を開く。
「アシュドド城砦に行くのね?」
簡潔に問うと、中尉はささりそうな目であたしを見つめかえしてくる。それから一度、目線を外し、ゆったりとうなずいた。
「ツィブオンの後任を命じられております」
「『中尉』が?」
アシュドドは小隊長の手に余る規模だ。そのことを単純に疑問に感じただけだったのだが、厭味として取られたのだろうか。中尉はことさら順序だてて説き明かしてくれる。
「本来は、アシュドドへ赴く前に大尉となるはずでした。しかし、このたびは少々、事情がありまして、異例ではありますが、階級は中尉のまま、取り急ぎ城砦へ向かわねばならないのです」
事情、と特に強く発音されるのを聞いて、あたしは直感的に、これは厭味だと感じた。
……うん、ええと、なにやら思いあたる節があるわね。
あたしはうっすら微笑みを浮かべて、前髪でも直すかのように、こめかみに手をやった。ほんとうは頭を抱えたい。美人さんの穏やかな迫力で、てのひらに汗がにじんできてしまった。
まさかとは思いますが、中将、これですか?
中尉から目をそらすのはがんばってこらえて、表情も平静を心がけたが、うまくいったかどうか。
「それにしても、ずいぶん急な話なのね」
ほう、っと、中尉は息をついた。音だけ聞いたら、いかにもはかなげなんだけれど、これがどうして、女性的なしぐさには見えない。年齢のいった男のようなためいきだった。
「ほんとうに。まさか子守のために日程が前倒しになるとは、夢にも思いませんでした」
『子守』と来たか。あたしの付き添いのことであるのは、もはや明々白々。それでも、中尉の立ち位置を明確にしたくて、不自然でない程度に彼女のほうへ会話を転がしてみる。
「第二師団ということは、バートリ中将に命じられて?」
尋ねると、中尉はやっと表情を和らげる。その瞳に、あこがれらしきものが交じる。かわいいなぁと、あたしも一緒になって顔をほころばせてしまう。
「はい。じきじきにお声をかけていただきました」
うつむき加減で、そう言ったときの笑顔を保って、中尉はあたしを視線で縫いとめる。顔は笑っているけれど、目は睨むようだ。
「ルキアどのは閣下と個人的なおつきあいがおありだとか」
「特に言いたてるほどのおつきあいじゃないわ。アードレイ中将のほうがよくしてくださるくらいよ」
彼女にあわせて敬語をつかったら、中将やシドニィとの距離が一気に正しく認識される。それと同時に、中尉がなぜこんなに刺々しいのかも解かった気がした。
ただの一般人のあたしに便宜を図るため、次期大尉を動かしてしまうだなんて、おおごとだ。図々しいと、分不相応だと思われても、当然のことだった。貴族のはしくれと捉えられていても、それは変わらない。あたしは部外者だ。
中尉の紅のくちびるがうつくしくたわんで、追いうちをかけてくる。
「アードレイ中将閣下ともご縁がおありなのですか! あのかたのことは、わたくしもたいへん尊敬しております。さきごろ、閣下が内々に開かれた徴兵制改正についての議論にも参加させていただきました」
得意そうな口調で語られた事柄に、あたしは目を見開いた。内容を教えてもらえないかと頼むと、中尉はさも驚いたといった風に眉を引き上げてみせる。
「ご存知ないのですか? ルキアどのならば、ご承知だとばかり思っておりました。これは、たいへん失礼をいたしました」
そう言って、礼すらして見せる。絵に描いたような慇懃無礼な態度にも我慢を重ねて、あたしはその先のことばを待った。彼女はたっぷりとこちらを焦らした後で、内緒ばなしのように、それを音にした。
「アードレイ中将閣下は、徴兵制の徹底を主張なさっているのです。現行の制度では、徴兵時期や訓練方法、兵卒の装備などを各領地の担当者に一任しています。そのせいで、先の戦では統制が取りにくかったとか。これを統一し、王都から担当者を各地に派遣。さらに戦争直前のみの徴兵ではなく、三箇年等の期間で区切って、」
彼女の説明が続くのを、あたしはそれ以上聴くことができなかった。せっかく説明してくれているのに、申し訳ないとは思ったけれど、無理だった。頭がついていかなかったのではなく、ほんとうに自分が情けなくてしかたなかったの。
中将は、あのとき、あたしが感情的に訴えたことを真摯に受け止めてくれて、そればかりか、対策を講じようと動きはじめてさえいる。それに比べて、あたしは何だろう。口先で軽く言い捨てたまま、何にも……!
権力があるとか無いとか、そんなことではない。
あたしは結局、誰よりも子どもだった。
※
山脈を北へ越えていこうとする風が辺りを薙いだ。常緑なのかと思いきや、意外にもゲバルの木々はところどころ秋に鮮やかに色づいている。つい先日まで、秋を感じさせるのは朝夕の濃霧ばかりだったというのに、季節はすっかりと移ってしまったらしい。
昔も、こうだったのかしら。
あたしは広場のはじっこに突っ立って、砦をぐるっと囲んでいる山の端を振りかえっていた。風が通るたび、山影が揺れる。なんとはなしにそれを見つめていると、土を踏む音がした。
そちらに目を遣るまでもなく、近づいてくる人の見当はついている。ここのところ、あたしを構ってくれるのは彼だけだ。
「放っておいてよ、逃げやしないから」
「そうは言っても心配だからな」
「あら、そお。信用ないのねぇ」
違うと、彼は強く言い、隣に立った。強風に煽られてふらついたあたしの肘を、片手で支えてくれる。
「今にもそこから飛び降りそうな顔をしているのだ、君が」
風が止むなり、ぱぁんと威勢良くあたしの肩をひっぱたき、彼はあっちを向いた。腰に手をあてて、舞台役者みたいなつくり声で言いくさった。
「らしくないぞ、ルカ。君はその名を名乗る以上、我らの光であるべきだ。光は、揺らいではならないのだからなっ」
後半、やや恥ずかしそうな声音が交じっていて、あたしは堪えきれずに笑ってしまった。
「あなた、役者には向かないようね、マシュー。クサいセリフほど恥じらっちゃだめよ、カッコ悪くなっちゃうわ」
笑われたことに憤慨したのか、マシューはぱっと強気に言いかえしてくる。
「ナギのように臆面なく言うのも、オレはどうかと思うのだが」
「あのひとは存在自体が絵物語の王子さまだから。あの見た目でモジモジしてたら、きっと気持ち悪いったらないわよ」
マシューは腕組みをして上向き、その場面を思い浮かべてみているらしい。数瞬、その体勢で硬直した後、上半身ごと地面に目を落とす。
「……うむ、そうかもしれない」
ややがっくりしたような顔で、弱々しくうなずいた。そりゃあ、そうでしょうよ。あーんな凄まじいまでの美人さんで三十越えた男が、意気地なく物を言ってごらんなさい。あたしだったら、容赦なく家からたたき出すわね。
偏見って言われてもしかたないのは解かるんだけど、人には容姿や地位や年齢に見合うふるまいってモノがあるでしょう? そう、たとえば、もしも、あたしが貴族のご令嬢の格好をしていたら、『あたし』だの『カッコ悪い』だの、口にしちゃいけないようにね。
ま、年齢ってのは、あたしもナギも軽く無視している点ではあるんだけれども。
微妙に偉そうな態度で後ろ手を組んで、あたしは砦の居住棟へと足を向けた。城砦の外に出なければどこに居ても良いって、中尉に許可はもらっている。でも、広場も厩舎も厨房も、どこか居心地が悪いのだ。
あたしって、ほんとに異物なんだなぁと、しみじみ感じてしまう。兵士たちはあたしが歩きまわるたびに道を開け、脇による。そうでなきゃ、奇異のまなざしを向けられ、ひそひそ耳うちされる。ええい、職務放棄するんじゃないッと、しかりとばしたくなる。しかしながら、あたしにはそんな権限など無いワケで。
そういう扱いを受けているあたしの行く先々に、これまた部署的には異物のはずのマシューは平然とついて来るのだ。神経が図太いのか、お役目熱心なのか、友情に厚いのかは、この際、追究しないでおこうと思う。
「マシューはさぁ、エドワード殿下のところに戻っちゃダメなの?」
「ダメだろう。なにしろ、殿下じきじきのお達しだ」
言いきって、マシューはあたしの真似をするみたいに腰の後ろで手を組んだ。その格好がちょっと驚くほど様になっていた。
昔はそれほどでもなかったのに、二十歳を越えたら一気に精悍になっちゃってさ。肩幅だって、もしかしたら、あたしの倍近くあるんじゃないの?
あたしはマシューに近寄って、両手でがしっと彼の肩を掴んでみた。真正面から見るに、一と三分の一か、四分の一かしら。あら、意外に狭いものなのね。ふぅむと息をつき、仔細に見比べていると、彼が呆れたような声を出した。
「ルカ。頼むから、以後、人前で紛らわしい態度は取らないでくれまいか。恋敵だとでも思われたら困る。オレは死に急ぎたくない」
「何よ、肩に触っただけじゃない。……ああ、マシューって、奥さん居たんだっけ?」
「細君など居らぬ。失敬な奴だな、誰とまちがえているのだ」
いじけたマシューを軽くいなして、あたしは居住棟への階段に足をかけた。
マシューは砦を出発したあとになって、王子に単身アシュドドへ戻るように命じられたのだという。命令の内容は守秘義務だ何だとはぐらかされて、教えてもらえなかった。だけど、なんだかんだ言って、あたしの傍についてまわっているってことはものすごくヒマな任務なのではないかと、あたしは睨んでいる。
これで、あたしの護衛だったら、王子の慧眼には恐れ入る。っていうか、そこまできたら、もはや予想や観察眼というよりも、占いの域でしょうよ。
他の棟から出てきた銀色を目の端にとらえた。中尉さんだ。てきぱきと指示を下していると見える彼女の影を、あたしは視線で追う。うわ、動く動く。なんて身のこなしが綺麗なんだろ。しごともできそうだしなぁ。
「あのひとも、ほんとにがんばってるわよね」
あたしの声を聞き逃さずに、マシューは手すりから身を乗りだして言う。
「レンスフィールド中尉は軍全体でも期待株だ。ただ、それだけではなく、女であるという気負いも大いにあるのだろうがな」
しかし、あれだけ上司に動きまわられたら、部下も大変だろうにと、あたしはぼんやりと考えた。それというのも、彼女が就任直後に言ったことばがことばだったからだ。
『些細なことでも、不審な点や疑問点は逐一報告しなさい。上官を通さなくてよい。異変を感じたら、本人が私のもとへ来るように』
軍の組織を無視した驚きの発言である。でも、この砦という閉鎖空間においては意外に有効な手かもしれない。
このあいだのツィブオンの件なんかは、こういう兵士の観察を責任者が握りつぶしていた例だ。それでも誰かが外に漏らせば、事前に発覚したでしょうけれど、そんなことは起きなかった。下層の兵士たちはみんなそれぞれに異変に気がついていたけれど、誰もことばにはしなかった。
他の、たとえば、王都のなかで同じことがあれば、ちょっとした異常事態よ。王都では兵士が言わなくても、官吏や民衆や旅人でも、誰かが必ず口にするから。でも、アシュドド城砦っていう小さな共同体のなかには、原則として近衛兵以外の人は居ない。だから、他が騒がないならと、おし黙ってしまう。ひとりが言い出せば瞬く間に広がるのに、誰も言わないことは無かったことと一緒なのね。
同じような事態が中間層や、はたまた兵士本人の段階で起きないとも限らない。ことばは悪いけれど、下っ端の自己判断はいらないというお考えなのだろう。
たくさん情報が集まれば、選りわけるほうはひとしごとだし、ある程度の能力がないとできないワザだと思う。中尉さんは、自分にそういう能力と、続ける根性があると判ってやっているはずだ。
マシューとあたし、ふたりして、彼女をじろじろと眺め過ぎたのだろう。中尉さんの目がこちらを見た。誰の視線だったのかに気がついて、場所もわきまえず不機嫌そうになる。
敵意なら数あれど、ここまでまっすぐに嫌われるのもなかなか経験が無いので、日常の彩りとしては悪くない。彼女の場合、やり口がねちっこくないからかもな、なんて思う。怒涛の婉曲表現には困惑すること甚だしいけれど、好意的に見せかけて毒入り、よりはずっと受け取りやすいというか。
笑顔を見せてみたら、まるっきり無視された。肩をすくめてマシューを見上げる。彼も憤慨は感じなかったようだった。面白そうな色をした視線だけが返ってくる。
居住棟に足を踏み入れてから、あたしは小さな声で彼に告げた。
「彼女みたいな人、好きよ」
「もしも、二、三年あとに生まれていたら、君もあのような女性士官を目指していたのだろうか」
「さぁ。でも、あんなふうにもなってみたかったわ」
「うらやましいか?」
マシューの声音に、あたしは破顔する。振り向いて、後ろ歩きをしながら、首を振る。
「カッコいいとは感じるけれど、あたしにはあんな振舞い、できないもの。あれは彼女だからできることだわ。ナギに会って、よろず屋になることは、あたしにしかできなかったのよ」
「ほんとうに、そうだろうか」
マシューの問いに、あたしは笑みを保ったままで、彼の瞳を見つめる。そして、うなずく。ことばだけはふざけて紡いだ。
「ナギとひねもす一緒に居て、恋仲を望まない女はかなり稀少よ」
「ルカ、これは冗談ではない。真剣に訊いているのだ!」
激しかけるのを、あたしは彼の隣に並んでおさめる。背中をたすたすと叩いて、同じ方向を見やる。
「あたしにはあたしの分があるわ」
「何が分不相応なものか。『隻眼のルカ』の名がただ片目であることのみから来るものと思ってか? オレには、君が自らを狭い世界へと閉じこめてしまっているように見える」
ゆっくりと立ちどまり、あたしは彼の背にあてていた腕を降ろした。数歩先を行くマシューの足元を見下ろしながら、口を開く。
「いやに解かったようなことを言うのね」
「いつまでも『莫迦』では居られないだろう。なぁ、ルカ。君の世界は、ナギの隣だけか?」
嫌なことを言う。
あたしは何とか笑ってみようと努力した。でも、できたかどうかはわからない。
「わからないわ。だけど、ナギを縛れるのはあたしだけだって自信は、ある」
悲しいかな、あたしは力でナギを敵から護れなくても、彼の自由を奪うことはたやすい。約束を、してしまったから。
「ナギに何かあったら、あたしは全力で彼を助ける。あたしに何かあったら、ナギも全力を尽くす。そういう約束なの。だからね、ナギは血みどろになってでも、あたしを迎えに来ちゃうのよ」
ふだん、よろず屋がよろず屋たりえたのは、ほとんど危ない橋を渡らずに済んでいたのは、あたしが居たからだ。ナギはあたしに何の危険も及ばないように『予め』、そういう類の依頼を受けなかった。自分の分を超えた挑戦はせず、必ず自分の力で片付けられる範囲で。
調整されつくした箱庭であることは、知っていたのだ。知っていたけれど、甘んじていた。その秩序を、あたしは自分の手で壊してしまった。
中将があいだに入って渡してくれた手紙には、ただ二言。『約束は守る。待っていろ』とだけ。
「約束を、無かったことにできればいいのに」
顔を両手で覆って俯いたあたしの頭を、マシューがぱすっとはたく。見上げると、そっぽを向いた彼が腕を伸ばしてくる。
「光は、けして振りかえらないものだろう。ためらうことなく突き進め。……君が悩むのを見ると、こちらのほうの調子が狂うのだ」
頭だけを胸のほうに引きよせられて、軍服の袖で顔を拭われる。あたし、拭かれてすぐに、手で肌を押さえてうなった。
「ねぇ、マシュー。この生地、ちょっと痛いわ」
「あっ、す、すまん、気がつかなかった」
マシューは慌てたようすで袖の生地に触れる。そのさまを見て、つい、あははっと高く笑ってしまう。軽く睨む彼に、素直に礼を述べた。
「ありがとう、元気出た」
そうして、返事をされるより先に、頭のおかえしっ、とばかりに彼の肩をすこし強めにはたいて、あたしは照れ隠しに数歩、前へと駆けた。