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難航しているなんてモノではない。明らかに、膠着状態であることが見てとれる。
嘆息しそうになっては息を静かに吐きだして、あたしは場の空気を読みつづけていた。
あの文書の内容は、次の手を考えるためには絶対にシラに必要だった。といっても、ナギ風に要約したら、『先日はご苦労。失敗したが、めげずに行こう。次回はこの方向で、どうだろうか』という文章になる代物だ。そう深いところには触れていない。
そう、確かにナギの言うとおり、あたしはひとりで熱くなっていたのかもしれない。
窓辺の棚に腰を預けて、小部屋の中を見回した。すこし俯瞰するみたいな角度だ。もとより会議室ではないらしい。どれだけ相手が声をひそめても、聞き逃すことは容易ではない。密談にもってこいの広さである。
しばらく進展しそうにない現状から目を逸らし、窓のほうに顔を向けてみる。
窓は東向き。眺望は悪くなかった。眼下には城壁がない。少し先に貴族の邸宅、その屋根のむこうには王都の街並みが見える。晴れた日には地平線の近くに海が見えそうだ。
こんな高いところに登るのはひさしぶりで、怖いやらどきどきするやら、あたしはすっかり落ち着きを欠いてしまっている。
いいえ、違うわね。いくらここの立地が高所だといっても、建物としてはアシュドドの塔ほどの高さだ。屋根に登ったのでもなく、部屋の中から望んだだけで怯えるようなかわいいところなど、あたしには無い。
この間が、おそろしい。
景色をたんのうするフリもやめ、小部屋に目を戻すと、ナギの姿が視界に入る。向かいの壁に寄りかかるようにして、彼もまた、論議が収束するのを待っていた。
その端然としたようすに引け目すら感じて、あたしは自分の足元を見下ろした。耳を通り抜けていくお偉方の声から、数瞬、心を閉ざす。
ナギが帰ってきたのは、もう三日も前のことになる。
お茶を終えたら、ナギはすぐに行動に移った。符号のようなものを決めてあるらしく、何やら紙に記して封書をつくった。それを手に城へ行くというので、あたしは後学のためと称して彼に一緒についていった。
どうしようもなく不安だったの。まるで自分の肌や服のように身近に感じていた相手だっただけに、隠しごとをされていたのが、驚くとか、傷つくとかって範囲を超えていた。
もう部外者にはなりたくない一心で、あたしはナギの腕までとって、花柳街を歩いた。ヒトの噂話の種になることなんて、それに比べたら、まったく大したことじゃなかった。
ナギは正面から城に入ろうとはしなかった。衛兵に呼び止められるのが必至だからなのか、策があるのかは、そのときのあたしにはまるで判断がつかなかった。でも、正面から行かなかったのは、ほぼ予想の範囲内だった。
ふたりで城の北側へとまわった。裏口があるほうだ。こういう建物の場合、食材や生活必需品を表から運びこむような無粋な真似はしない。正面はあくまでも貴族や、招待された客人が通る道であり、こちらは使用人や物資のための出入り口なのだ。
当然のことながら、その裏口にも衛兵がついていた。ひっきりなしに訪れる商人の身元を確認し、届け物をひっくりかえしている。
それが見えるところまでくると、ここで待っていろと、ナギはあたしに言いふくめた。せいいっぱい視線で抵抗したんだけれども、ナギはそもそも勝負すら受けてくれない。子どもを諭すように、でも、理由も教えてくれずに、彼は同じ文句を繰りかえした。
嫌々ながらも腕を離したあたしにささやき、額にくちづけまでして、ナギは裏口へと歩いていった。その背を見送り、あたしは耳に残ったことばを声に出してなぞった。
「『良い子だ』……? 何よ、それ」
一所懸命になっているのは、あたしだけなのだ。あたしは今でもナギのなかで護るべき存在で、それは嬉しいけど、すっかり嬉しいってわけじゃない。
ナギは裏口のところで衛兵と話して、楽しそうに笑いあって、気軽に封書を託していた。衛兵のほうも、開封して確かめるようすはない。いったい何を言ったら、あんなにすんなり受け取ってもらえるのだろう。
そのとき、悟った。経験をたくさん積んで、見た目も中身も口調も何もかも変えた気になっていたけど、ほんとは何にも変わってはいなかった。八年前にナギのうしろをついてきたときのままなんだって。
何のために短剣を握っているのか、あたしはまた解からなくなってしまった。
つい腰を探って、感触のなさにびくっとする。得物を見つけられずに、てのひらがぺったりと腰にくっついた。
ああ、預けたんだっけ。
城に入るときに刃物は全部取られた。そのときは侍従が持ってたけど、この部屋の前で別れてしまったから、いまも近くにあるのかはわからない。
そこまで思いだして顔を上げると、たまたまこちらのしぐさを見ていたらしく、ナギはあたしに向かって、からかいをふくんだ視線をよこす。
いつもなら、笑って返したり、軽く睨んだりできたと思う。でも、いまのあたしにはそんな余裕なんて無い。丸腰なのが不安で、それがそのまま顔に出てしまったんだろう。彼の目ははっとしたような色に染まる。
目をそらして、卓の中心に顔ごと向ける。そこには、例の獣皮紙が広げられている。それを届ければ終わりだなんて、あたしも考えてはいなかった。
どこで手に入れたのかと問いただされて、何を答えても一度は捕まるんだろうな、くらいのことは、あらかじめ覚悟していたの。でも、事態の運びはそうはいかなかった。
先に届けたあの封書のおかげなのか、あたしたちは会議室に通された。席は無いから、会議に加わることはできない。けれども、その一部始終を聞ける場所には、現に居るのだ。
何かがおかしい。変なのに、本音を言ってしまえば、あたしはその理由を聞きたくない。
「では、まだ何も手を打たないとおっしゃるんですね、陛下?」
卓の右側に座っている赤毛の青年は、もはや疑問文でもないような調子で言う。明らかに確認の形をした反対意見だった。ことばを変えれば、手を打ったほうがよいと言っているのね。聞いたあたしのほうが失礼なのではなかろうかと危ぶんでしまうくらいの口調だ。
実は、もう幾度目かになる質問だった。それなのに、うんざりしたようすも見せずにおじさん、もとい陛下は簡潔に答えた。
「先回りすることはできようが、ちょうど大将はここには居らぬ。このまま、様子を見る」
これも相変わらず。説得に回るのも諦めたのか、シドニィ以外の面々は少し前から口をつぐんでいる。その中には中将も居る。近衛軍からは彼らふたりだけのようで、他は庶民でも名を耳にしたことのある大貴族たちだった。総勢でも十名に満たない。この人々は陛下が絶対に信用できる手駒なのかと思うと、意外な気さえした。もちろん、人数が少ないって意味である。
傍で聞いていると、陛下への不信さえ心に浮かんできてしまう。大将は「ちょうど」居ないのではなく、そもそも呼ばれていないんじゃないか、とか。
いや、あたしはナギに対する騙し討ちの件で、勝手に不信感を抱いているだけよ。まぁ、大将だけ外れ者にするっていうのは、獣皮紙の文面を事前に知らないことにはできない所業だろうけれどね。
大将は公明正大な人物として、市井にも知られている。いいお家のかたでもあるし、人柄も良いという話だ。兵士からの人望も厚いらしい。
実際に会ったことはないけれど、そういう噂って、作ろうとしても難しいものだから、ほんとうなのだろう。
人の口っていうものは、不安なことや良くないことのほうを広めてしまいやすいものでしょう? だから、いい噂って言うのは、それだけで悪口よりも信用できると思うの。
獣皮紙に書いてあったことと、いままで関わったことを整理すれば、よりわかりやすく状況が理解できる。
エアリム侯爵というのは、二、三代前の王子から派生する家の現当主のことだ。歴史はそう古くないが、きな臭さはかなりのものである。
現実的な話をすれば、きな臭くない家のほうが多くはないんだけどね。
シラ王国は一枚岩ではないのだ。現王家は、この地域のもとからの首長筋ではない。戦いの末に頂点に立っただけの家だと、口さがなく言う人もいる。最初は北方から東にかけてのそう大きくない領地を持つ一豪族だったんだそうだ。
そのせいで、王家にはあまり統制力が無かった。ほんの数年前まで、王国とは名ばかりで、細切れに分割されていたと言ってもいい。
近衛軍だって、いまよりもずっと小さくて、ただの領主軍程度だった。それを八年前の戦争直後に改変し、組織ごと作り変えたのだ。
長いこと、連合王国のようなありさまだったこの国の制度を整備してしまったのが、ここにおわす現国王陛下というワケ。
さて、話を元に戻して。エアリム侯爵家というのは、どうもイケナイことをして王子の地位を剥奪されたというのが真相らしい。あんまり外聞のよくない話なので、おおっぴらにはされていないんだけれども、これは小さいころ、何かの折に聞いたことがある。
あの獣皮紙にあったエアリムっていうのは、アシュドド砦に行く前に話題に出ていた侯のことで間違いないと思う。
あのときは砦をしきっていたツィブオン大尉の親分として名が挙がっていたの。だから、はじめは今回の手紙の宛先となっているのがエアリム侯その人だと思ったのよ、あたしも。でも、それは単なる早とちり。きっちり読むと、エアリムは手紙の受け取り主ではなく、同時に書き手でもないってことが判るのだ。
文章を一字一句正確に覚えてはいないけど、流れでは「エアリムに伝えてくれ」って感じの内容だった。つまり、エアリムのほかに、アダル側から接触を受ける人物が居るってコト。文書がナギの手に渡らなければ、その人のところに届いたはずで。
そう、それと、大事なのはもう一点。次の計画は、大将を味方に引き入れることだというのだ。それがどうして東アダル帝国側に有利に働くのか、いまひとつあたしには理解しがたいんだけど、書いてあるんだから、そうなのだろう。
陛下はそれを受けて、ちょうどいいって言っていたのよ。だけど、おかしいわよね。大将ったって、ひとりきりじゃ、何の力もないただの人なんだもの。そんなひとを仲間にする意味って、何なのかしら。まさか、それだけで軍を乗っ取れるなんて幼稚なこと、考えてはないだろうし。
くちびるにこぶしまで当てて、真剣に考え込んでしまったせいで、あたしは目の前の会議から遠ざかっていた。そうでもなければ、事態に感づいて青くなっていたことだろう。
呼ばれた気がして、ぱっと顔を上げる。ナギかと思ったけれど、彼はなんだか妙に悲壮な表情をして、ただこちらを見ている。
他にあたしを呼ぶとしたら、シドニィか中将でしょうけれど、まだ会議中よねぇ?
視線を下に落とす前に、室内の声が途切れているのに気がつく。卓を囲んだみなさまは一様に、なぜかあたしの顔を凝視している。
えーっと、あたし、ひとりごとでもぶつぶつと呟いてしまったのでしょうか。
非常に混乱して、シドニィに視線を転じてみるが、彼は陛下に手招かれて席を立ってしまった。何事かを耳うたれて、すぐに部屋の外へ出て行く。
残るのは中将。目が合うと、彼はいままで目にしたこともないくらい硬い表情で、こちらをまっすぐに見ていた。
ひとりごとでは、無いようだ。あたしは何となく事態のなりゆきを察し始めていた。顔色が悪くならないように、必死になって平気そうなフリを保つ。
何だろう。嫌だ。すごく嫌だ。なんで、こんな大事なところで、ぼんやりしちゃったんだろう!
先のわからないことほど、怖いものは無い。
助けを求めて向けた視線の先で、紅の瞳に力がこもる。ああ、ナギが怒ってる。それを見て取りながら、あたしは部屋の扉が開く気配に目を動かす。
そこにシドニィが戻ってくる。後ろには三人ほどの兵士の姿。やっぱりそう来たかと、あたしは腹をくくった。
理由は聞き逃してしまったけど、このようすではどうやら、あたしだけなのだろう。
シドニィのうしろから、兵士たちが駆け寄ってくるのを見て、くちびるを引き結ぶ。つれていかれるあたしのうしろで、ナギがそっと言ったことばだけが耳に届いた。
見上げた天井は高くて白かった。灯りに照らされて黄色っぽく染まってはいるし、おうとつで細かく影が散っているのを見て、あたしは考えを声に出した。
「そんなに悪い部屋につれてこられたわけじゃないのよね……」
兵士に腕をとられたときは、牢屋に行くのかと思っていた。城の牢なら、地下にあると聞く。あの小さな部屋から牢に向かうためには、絶対にいくつも階段を降りなければいけない。
あたしが降りたのはほんの十数段で、高さにして一階ぶんだ。牢には何があってもたどり着くまい。この部屋はおそらく、城の客室のひとつだ。
この部屋には入ってきた戸以外に出入り口も窓もいっさい無い。あたしの方向感覚がまちがっていなければ戸口は南で、部屋は城の中心に程近い場所にある。建物の内側であるから、窓がないのは不自然ではない。むしろ必然だろう。
窓が無いと、ここに入れられて数刻が経つのか、そう正確にはわからない。灯りの油の減り具合から推測するに、二刻は経っているのではないかと思う。そのあいだ、あたしは延々と同じ思考をたどって、暇をつぶす術を探していた。
変化の無い室内に居ると、すさまじく気疲れする。道理で、牢につながれた囚人の気が狂ってしまうわけだと、あたしは納得した。しかし、こんな体験はもうじゅうぶん。
椅子に座って物思いにふけるのにも飽きて、天蓋をかいくぐり、ふかふかの寝台に転がってみる。上等の羽毛を詰めたふとんは腰を痛めそうなほどやわらかくて、体が水に浮いているみたいだ。
どうやっても眠れそうに無いのに、まぶたを閉じてみた。うすぐらい部屋のおかげで、世界は見事まっくらになる。
どうして自分だけ、という問いはすでに頭を数巡している。答えもいくつか考えてある。
そのなかで、何よりもあたしにやさしい答えは、『役立たずだから』。アシュドド城砦の件で、めざましい働きができなかったことはもちろん陛下の知るところだ。だから、ナギがしごとを受けているあいだ、足手まといにならないようにお預かりの身になる、とか。
ばかばかしくて、ひとことで切って捨ててしまえる。ありえない。
他には、『何かふつうではない容疑がかかっている』、『あのあとの会議の内容を聞かせないために遠ざけられた』。
前者は無くも無いでしょうけど、後者はまず、無い。会議はとうに終わっているだろうから、いまだにお迎えが無いのはおかしいでしょ? 会議がお開きになったのに遠ざけたのを忘れられている、だったら、お互い笑いばなしにもできるけどね。
『出自がバレた』もイヤだなぁ。
もっとも耐えがたい答えは、考えたくもなくて最後まで残してしまった。だけど、たぶんこれが合っている。
あたしは頭の中で音にすることさえ逡巡し、それでもやっと、一語を形作った。