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中将の帰り際にナギがかけたことばに、あたしは肝が冷える思いがした。
「ルカに花をくれた中将ってのは、あんただろう、アードレイ中将?」
それを耳にしてからのあたしは、きっと近頃で一番の動きをしてみせたと、自信を持って言えるわ。
ナギの背後から口をふさぐ。短剣を喉元に突きつける要領だ。ナギ相手に成功してしまったのは、ほんの偶然だった。たまたま彼が気を抜いていて、あたしが瞬間的に本気以上のすばやさだったというだけ。
本人よりも、あたしのほうがびっくりしたのは言うまでもないでしょうよ。
そして、驚いてしまったからこそ、その先の展開はこちらに不利だった。ナギはぺいっと造作もなくあたしの手を口元から引き剥がすと、脇へとほうった。
見ていた中将もどうやら、ナギのこの対応には度肝を抜かれたらしい。こちらが難なく受身を取って床に着地したのを確かめてから、改めて質問に答えた。
「バートリ中将は既婚者ですから、たやすく花は贈れませんね」
「その気が無いなら、うちのルカに変な噂立ててくれるな。嫁入り前なんだから」
ナギのことばに呆れながら、再度、あたしはふたりの会話に割りこんだ。
「それ、このごろよく聴くけどね、ナギ。あたしはとっくに婚期を過ぎてるのよ。あんな噂が広まったら、迷惑を被るのはこの人だわ」
「私は、構いませんが」
噂の内容も知らないで、よく言うわよ。
気兼ねして言わなかったけれども、先日の一件で、ここ数日というもの、知り合いにからかわれっぱなしなのだ。中将と恋仲だと勘違いされたらしくって。
そんな経緯もあって、あたしは彼の反応に、ちょっと反感を抱いた。その場で、矛先をナギから中将に変える。
「そりゃ、あなたは構わないかもしれないけど、そういう噂が立ってる人に好かれてみなさい。肝心のお相手の心象も、最悪よ?」
中将はまた何か言いたそうにしている。早く言えばいいのに、と考えているあたしの頭越しに、ナギを見やっている。というか、あたしとナギのあいだを目が行き来した。その目の動きに、あたしはぴんと来るものがある。
ナギが居るから、言えないのね。
「そういえば、花は?」
その視線の先で、ナギが新しいことを言いだして、あたしは更に慌てた。
それは絶対に中将に聞かせるわけにはいかない。勘違いされたら、あたしが困るの。
「とにかく! 軽はずみなことはよしたほうがいいわよっ」
適当に話をまとめて、中将を事務所の外に押しやる。階段の踊り場まで一緒に出て、無理に帰るようにうながした。
そこまで出て初めて、彼にかけることばにあたしは悩んでしまった。
来ないほうが良いって言ったんだった。そうしたら、『また来てね』はおかしいよね。『さようなら』では寂しすぎるし、『じゃあね』も仲間でもない中将に言うことばじゃない。
考えているうちに、中将は何も言わずに踵を返す。階段を一定の足取りで降りていくのを見て、あたしはどうしても、その背に何か言わなきゃいけない気がして。とっさに、
「中将!」
距離に不釣合いなほどの大声で呼び止めた。
中将はびくりとして体をねじり、こちらを振りあおぐ。砂色の髪がさらさら揺れた。
自分で呼んだくせに、ほんとうは何を言うつもりだったのか思いだせない。中将がこちらを向いたら、あたしの頭は真っ白になってしまった。
汗がにじむ手で、服の裾を掴む。待たせてるのに、言うことが全然、文章にまとまってくれない。その間も、中将の視線がことばをうながす。
『なんでもない』なんて今更言えなくって、あたしはヤケになって彼と目をあわせた。よくことばも練らずに、口から出るままに叫ぶ。
「あ、あのねっ、さっき言ったことはほんとうよ。でもっ、あたし、あなたのこと、嫌いじゃないわ!」
十数段下で中将の顔つきがはっきりと変わる。あたしはそこで、自分が何を口走ったのか気がついた。
しくじった。それも、特大の失態だ。ナギに花のことを詮索されていたほうがまだマシだったわ、きっと。
頬が熱くなるのを感じる。
どうしよう、あたし、こんなことを言いたかったんじゃないのに。
どうしたらいいのか分からなくって、あたしは胸のあたりでおざなりに手を振った。中将の反応も見ずに、身を隠すように事務所に駆けこむ。
扉まで閉めて、選択を間違ったと思った。
ここは弁解すべきところじゃなかったかしら? 逃げこんだら、ますます怪しいわよ。
お願いだから、帰ってちょうだい。そのまま、戻ってこないで。あたしのことばなんか、気にしないで欲しい。
祈りながら、扉の向こうの音を拾う。中将は、すごくすごくゆっくりと、階段を下りていた。あたしはムダに息を詰めて、それを聞き届け、彼が事務所から離れていくのを知って、胸をなでおろした。
顔を上げると、愉しそうな顔つきをしたナギと目があう。
「子どもの初恋じゃないんだ、もっと言いかたがあるだろうに」
「からかうの? 勘弁してよ」
あたしはむーっと軽くナギを睨みつけてから、うってかわった調子で、その首に飛びついた。ぎゅっと小さい子みたいにしがみついて、顔をうずめる。
ナギは背が高い。抱きついたら踵が浮いてしまって、ちょっと安定を崩す。それを、ナギはいつものように支えてくれた。
いい匂いよりも、土と汗の匂いのほうが安心する。あたしは不安だったぶんだけ、ナギの首にぶらさがり、ようやくそれを口にした。
「おかえり、ナギ」
「ただいま」
ナギはあたしの頭を一度だけぐっと胸に押しつけて、旅支度を解きはじめる。
「ひとりで護衛なんてするものじゃないな。退屈で死にそうだった」
「あら、でも、護衛対象は可愛いお嬢さんだったじゃない?」
「厳格な乳母と、侍女と侍従がわんさかついた、な。手を出す隙もありゃしない」
笑って、ナギは首をすくめた。
西へ抜け、隣国クロエの南の町まで依頼人を護衛し、クロエを斜めに北へつっきって、イェオール河の船便に乗ったらしい。そこからの道程は教えてくれなかったから、もしかしたら、もしかするかもしれない。
行きは依頼人の負担だが、帰りの護衛は頼まれていなかったので、こちらの負担と言うワケ。そのぶん、ナギはクロエの町々を観光してきたことだろう。手紙にも、そう書いてあったもの。
ナギが荷をほどいているあいだに、あたしは茶葉と焼き菓子を戸棚から出した。さっき、中将に出そうとしたものだ。ふだんなら、こんなお上品な菓子なんて、そうそう口に入るものではない。これは、春の夢屋のおかみからのおすそ分けだ。お大尽がたわむれに店の子にくれたものだと言う。
皿に堅焼き菓子を並べて、ふと、ひとつをつまみあげる。小麦色をした菓子は、指に力を入れたら崩れてしまいそうだ。懐かしい甘い香りがする。
あたしは目を伏せた。腕を下ろして、菓子を皿に戻す。足音がしてかえりみると、ナギが身支度を調えて、こちらに歩いてくるところだった。腕にはさきほどの大きな包みを抱えている。
「こっちで開けるの?」
「次は、お前にも関係してくるからな」
ナギは包みを椅子に置いて、事務所のかんぬきを内からかけた。それから、包みを乱暴に開く。
ぱらぱらと、藁が数本床にこぼれた。
「何なの、それ」
「筒だろう、どう見ても」
はぐらかして、ナギは包みから溢れた藁やクズ布の中心から、金属の円柱を取りだした。筆よりもすこし長いくらいの大きさだ。外周はたぶん、てのひらがまわる程度。
この筒を、隠して持ってかえって来たのだ。
あたしはそれが鋭く光を放ったのを見て、知らず知らず口元に手を当てていた。
金属を武器や硬貨や装飾品でもなく、そんな実用品に使えるのなら、シラ王国のものではない。ナギの旅程から考えるのならば、その出所は東アダル帝国しかありえなかった。
「まさか、もう?」
新しい依頼を受けてしまったのだろうか。次は、アダルに行くのかしら。それならば、今度はついて行こうと、あたしは短いあいだに決心を固める。それが伝わってしまったのだろう。彼は低く笑った。
「早とちりするな。依頼はまだ取ってきていない」
「じゃあ、それは……?」
ナギは答えずに筒の先をひねった。蓋を外して逆さにし、縁に指をかけた。ナギの蜜色の指がそれを筒のなかから引きだすのを、あたしは息を潜めるようにして見つめた。
獣皮紙だと、すぐにわかった。巻物状になった紙を、ナギは机のほうまで持ってくる。 汚さないようにと配慮して、あたしは菓子の皿をあちらへと押しのけた。
広げられた紙を近くから覗きこみ、文書だと確かめる。
字はあまり整っていない。ナギの字ではない。急いで書いたものなのだろう。読みにくい字に辟易して、全文を読まずに単語だけを拾い読みする。
侯爵、失敗、ヨハネ、離反、好都合、大将、えーと、これは、エアリムかな。
あたしは単語をなぞっていた指を止めた。
エアリム? これは、人名かしら? だとしたら──。
指を数行、上に戻す。大将は、近衛大将だ。それなら、ヨハネは陛下だろう。つい最近、触れたばかりのことばの羅列であることに、あたしは遅まきながら、気がつきはじめる。
東アダルで作られた文書に、シラ王国のことが書かれている。しかも、この文書の内容は市井で交わされるような質のものではない。
あたしはぞっとして、息を浅くしながら、大将の出てきたあたりから、もう一度、丹念に読みかえした。
「嘘でしょう……?」
「アシュドド城砦に行ったのが俺だったら、何度でも嘘だって言ってやるんだがな」
ナギは自分でお茶を淹れ、菓子を口に放った。なんでもない顔をしていることにいっそう動揺して、あたしは彼を凝視した。
いくら大きなしごとをよくするからって、こんな国家規模のことに対峙して、飄々としていられるものだろうか。
向けていた視線に応え、ナギは菓子をつまんで差しだしてくる。あたしは苛々と首を振った。
「要らないわよっ。焼き菓子かじってる場合じゃないでしょう、これは」
文書を指差すと、彼は肩をすくめた。
「ルカはシラのこととなると、すぐ熱くなるからな。今回のことがなければ、このまま黙っておくつもりだった。……この話は、以前からあるものだ。愛しのアードレイ中将は、アシュドドに行く前に何か教えてくれなかったのか?」
「冗談と事実を混ぜないで! 特に聞いてない。聞いたのは、ツィブオンがエアリム侯と繋がっているかもしれないってコトだけよ」
まただ。また、あたしだけ仲間はずれ。さっきと一緒で。きっと、ナギはまだ隠しごとを残している。
あたしは机を離れ、椅子に座ってひとりでお茶をしているナギの前に立った。指で、彼の袖をつかむ。
「あたしが、力不足だから?」
「……俺の力だけで、守りきれないからだ。五人、十人なら、死ぬ気で蹴散らしてやるが、国が相手じゃ、分が悪すぎるだろう」
「じゃあ、どうして今になって」
ナギは笑みを消して、あたしを見る。その顔が、悔しそうに歪む。
「あのオヤジ、わざとルカまで巻きこみやがったんだ。俺は、お前にはこの件に関わって欲しくなかった」
ナギは吐き捨てるように言った。あたしはその場に膝をつき、彼と目を合わせる。
だいじょうぶ。紅の瞳の光は、失せてはいなかった。いつものように力強い。絶体絶命ってワケでは、おそらく無いのだ。自分の留守中に騙しうちみたいにされたのが、ただ悔しいだけ。
あたしだって悪いのだ。政治がらみは受けるなって、手紙に書いてあった。あの手紙をもうちょっと早く受け取ってさえいれば、気づけたかもしれない。
「確かにあたしは弱いけれど、事実すら隠されたら、足掻くこともできなくなるじゃない」
あたしは説きふせようと、ことばを重ねる。
「約束でしょう? あたしも一緒に行く」
約束か、と、ナギは反芻した。それから、答えの決まりきったことを質問する。
「この文書をシラ側に渡すかどうかを決めたいんだが」
「ダメかしら?」
ナギは諦めたふうに笑った。すこし渋いくらいの浅い笑みのまま、彼はため息をつく。
「ルカなら、そう言うだろうと考えていた」
「よくご存じね」
「何年、ふたりで居ると思ってるんだ。お前が良いなら、それでいくさ」
立ちあがると、椅子ががたがたと跳ねる。ナギは菓子をふたたび手にとった。
「危険だぞ」
こちらに戻ってきて、菓子をあたしの口元に無理やり押しつける。
「無視して国が揺らいだら、たくさんの人が困るもの」
「ずいぶん壮大なお節介だな」
「それがよろず屋ってものでしょう?」
思い切って、あむっと焼き菓子を食んだら、ナギは変な顔で笑った。