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肘掛けをつかんで、無意識に椅子から腰を浮かせかけた自分に気がついて、あたしは長く息をついた。
おとなしく座ってもいられないなんて。
いっそのこと、椅子に体を縛りつけておこうかしらなどと、妙な考えまで出てくる。こんなあたしのようすを、もしステラあたりが目にしたら、何と言うかは想像に難くない。
「『ルカ、あんたって、ほんとにナギさんが好きなのね!』」
思わず口まねまでして声に出し、ひとりで笑ってしまう。
気を紛らわせる手立てを探して、あたしは事務所のなかに視線をめぐらせた。アシュドド砦に行く前に破かれてしまった書類は、すべて書き直した。掃除は終えてしまったし、食材もじゅうにぶんに買いそろえてある。
あと、他にすべきことと言ったら、鍵つき戸棚の中身をお返しすることくらいかしらね。
中将や王子が何と言おうと、二百カランはもらいすぎだ。ナギと一緒に西方へ旅をするにしたって、路銀は多くて二カラン程度で良い。それ以上は必要ない。
でも、いくら返そうとしても、受け取ってくれないんだよね。どうしたら良いのかしら。
あたしが受けた依頼なんだから、ナギへ報告する前に片付けてしまいたいんだけれども。
机に頬杖をついて、事務所の戸を見つめる。一ジネリしか離れていないはずなのに、今日はなんだか遠く感じる。
待ちくたびれてるんだわ、きっと。
手紙を受け取ってから、優に一旬は過ぎている。そろそろだろうと思ってから、三日は経っているのだ。いいかげん、帰ってきてもいいはずなのに。
不安は、まったく無いわけじゃない。だけど、あたしはナギの強さを知っているから。
そりゃあ、あの人だって人並みに死んだり傷ついたりするとは、承知しているわ。不死身だなんて、考えてない。それでも、よ。
ナギがあたしを見捨てることはない。あたしをおいて死ぬこともない。なんでか、そう、確信できちゃうの。信頼って言うのかな、こういうのって。
たぶん、帰りが遅れているのは入国に手間取ったから。ナギの見た目は、ふつうのシラ人には受け容れにくいだろうし。
さすがに密入国は選ばなかっただろうとは思うけれども、実際のところはどうだったのかしらね。
「……!」
あたしは外から響いてきた音に耳を澄ませた。まぶたを閉じて、その音だけに寄り添う。
路地を抜けて、事務所の下までたどり着いた。階段をのぼってくる。乱れもなく一定の拍を刻む靴音。眠たくなるくらい規則正しい。
薄目を開ける。訪ねてきたのが誰であるのかは、もう判っている。ナギでないことだけは確かで、あたしはついついぐったりした。またもや、期待損である。
こらっ、だめよ! お客さんに失礼だわ。
そうやって、理性が頭のなかで叱りとばしてくれるんだけど、抗いきれずに机の面にこつんと額をつけてしまう。あたしはその体勢で三つ数えてから、根性で背を起こし、彼を迎える準備をした。
油を差したばかりの蝶番は音も立てない。すっと静かに開いた扉の向こうに、あたしはふざけたことばをかける。
「いらっしゃい。ずいぶん足繁く通ってくるじゃない?」
といっても、まだ三回目だけど。後金を払いに、シドニィと一緒に、そして、今日。
笑みかけると、彼はその場で緊張したような顔つきになる。ええと、それは、どう解釈すべき表情なのかしらね、毒針中将さん?
この人の態度って、ほんとうに反応に困る。何を考えてしてることなんだか、全然判らないんだもの。
「今日は、ご依頼かしら? ナギなら、まだよ。もう、あの人こそ、『どこをほっつき歩いているかは知ら』ないってモノだわ」
そう思わない? という意味をこめて話しかける。なんとかことばを引き出そうとしてのことなんだけれども、中将はそれにもまともに返してこない。
面倒くさい人だなぁ。
内心で思ったのが顔に出ないように気をつけて、あたしは腰を上げた。
「遊びに来たのね。そこに座って待ってて。昨日もらったお菓子があるのよ」
「お構いなく」
「お茶は? 飲むよね?」
「いいえ」
中将は薄い笑みとともに断りを口にする。椅子に座ってもくれない。あたし、どうしたらいいのか迷って、立ち尽くしてしまった。
遠慮してるのか、本気でいらないのか、もっとはっきりして欲しいんだけどなー。あたし、こういうのは苦手なんだってば。
曖昧にしないで、さくっと言ってよ、さくっと。ただでさえ、ナギの帰りが遅くて苛々してるところなんだから!
「──っ、もうっ」
菓子を取りに行こうとしていた足を、そのまま中将の前に向ける。つかつかと近寄って、彼の目を見上げる。
きれいな翡翠色の瞳は、あたしと目が合うと、まるで怯えるようにそらされた。やっぱりこの人は何か隠しているのだと、あたしは確信した。目をそらすのは、やましいことがあるからだわ。
中将は嘘をつく人ではない。かなり素直なようだから、間違いない。
「言いたいことがあるなら、聴くわ。単に遊びに来たワケじゃないのは、最初から分かってるのよ?」
「私は!」
「『私は』?」
尋ねかえすと、中将は視線どころか、顔ごとそっぽを向いて、弱りきったようすになる。続きも言わずに、違うことを言いだした。
「もう少し、離れていただけませんか。このままでは、その……」
性懲りも無く語尾を濁らせた中将に、あたしはついに手を伸ばした。彼の頬を両手で挟んで、無理やりこちらを向かせる。
「人にものを言うときは、相手のほうを向くのが礼儀でしょっ」
きつい調子で注意すると、やっと目線が交じる。
あ、あれ? あたし、そんなに失礼なことをしたかしら。
あたしを見下ろす中将の目は、見たことのない感じに尖っていた。びっくりして手を引こうとしたのに、すばやく片手を捕まえられてしまう。
「まさか、城下に居るとは思いもしませんでした。戦争のある土地を渡り歩いているのだと、半ば諦めていたのに」
「中将、手を離して」
そう口にした途端、力が強まる。まるで、離すもんか、という感じだ。こっちこそ視線を外したくなってきた。それでも、あたしは意地になって、中将の目をじっと見つめかえした。
でもでも、怒ってるにしては話題が変なんですけどっ。
程なくあたしの頭が混乱をきたしはじめた、そのときだった。外の通りが一気に沸いた。
あたしは反射的に扉のほうを振り向いてしまった。一瞬、眼前の中将のことも忘れたかもしれない。
「ナギ?」
帰ってきたのか。そう思って、名をつぶやいたら、視界が暗くなった。
いいにおいがする、というのが感想だった。
「ねぇ、中将。あたし、こういうことされるほど、親しくなったつもりはないわ。仲間だとは思ってないの」
中将は、ナギや傭兵仲間たちとは違う。アシュドドに行くときにお目付け役としてつけられただけの人だ。王子を救出するっていう共通の目的がない今、安心して背中を任せられるたぐいの人ではない。
だって、この人は一度も、あたしの名を呼ぼうとしないのよ。そんな人、信用しきれないわ。こうされている間にも、針でどうこうされてしまうのではないかって、怖いくらいで。
中将は、しぼりだすような声で言う。
「ひどい、言いようですね」
「そうかしら。あなたは依頼主の部下で、あたしはただのよろず屋。それだけのことよ。……ナギが帰ってきちゃう。頼むから離してちょうだい」
腕を抜け出そうとして、あたしは中将の胸を軽く押しやった。さっきまでの力が嘘みたいに、するっと呆気なく身体が離れる。
手ごたえのなさが、いやに罪悪感をあおる。
ほんとうのことを言っただけなのに、どうしてこんな気持ちになるんだろう。すごく、いけないことをした気分だ。
あたしは顔を上げられなくて、うつむいたまま、ナギの足音が近づいてくるのを待った。
ほらね、中将のとは全然違う。中将の足音は、消そうと思えば消せるのにわざと鳴らしてる音で、ナギのは最初からそこにあるように周囲に溶けこむ音だ。
「あなたには、花柳街は似合わないわ、中将。用がないなら、もう来ないほうが良いと思う」
「用もなく来ていると思うのですか?」
中将の手が、あたしの顔を上向かせる。さっき、あたしがした方法で。その目は真剣で、不思議なくらい切ない色をしていた。
何よ、あたしが悪者ってワケ? 仲間じゃないって、来ないほうが良いって言ったくらいで?
あたしは動揺しつつも、その手を頬から引き剥がした。彼のことばに、浮薄な調子で肩をすくめる。
「あたしの知ったことじゃないわ。仕事だろうと、女郎買いだろうと、関係ないもの」
「じょ、女郎目当てではありません!」
「うちに遊びに来たのでもないでしょ。あなた、何日か前もそうだったけど、ずーっと何か言いたそうにしてる。あんまりあからさまだから、気になってしかたないわ」
言いながらも、中将には申しわけないんだけど、あたしの意識の大半は事務所の扉に向かっていた。
ナギ、すぐそこに居るみたいなんだけど、どうしてか入ってこない。中将がらしくもなく気がついてくれないので、あたしはどうにも開けにいけなくて、困ってしまった。
言うべきかしら、言うべきよね。
「中将、あのね、」
中将の向こうで乱暴な音がしたのは、あたしが口を開いてすぐだった。扉が勢いよく開いて、壁にぶつかり、跳ねかえっていく。戻ってきた扉をとんっと肩で支えて、人影は、帰宅早々、文句を言った。
「お取り込み中なのは分かるが、扉くらいは開けてくれるか?」
きちんとした身だしなみには、程遠い格好。白い髪は、ひとつにまとめられてはいるけれど、かなりぼさぼさだ。服だって、長旅の帰りだとひとめで分かるくらいに薄汚れている。
「ルカ! こっちに来い」
荷物を受け取れというのだろう。なんだか分からないけど、ずいぶん大きな荷だ。行きにはこんなの持ってなかったのに。
なぁんだ、両手がふさがって扉が開けられなかっただけか。そわそわして損した。
あたし、知らぬ間に笑いながら、駆け寄って、それを受け取る。
「これ、奥に運んだほうがいい?」
「ああ、頼む」
あたしは言われたとおりに、奥の寝室へと荷物を運んだ。見た目は重たそうだなと思ったんだけど、意外と軽いの。ずいぶんかさばるものみたい。
二、三度腕のなかで上げ下ろしして、あたしは中身を推理する。
おみやげ、かしら。食べものではないわね。服、もナギが買うとは思えないし、書物では絶対にない。この軽さじゃ、武器も無いだろうなぁ。
壊れものかもしれないと結論し、あたしは向きも変えないように気をつけて、そうっと寝台の上に荷を置いた。
あちらに戻ろうとしたら、事務所から話し声がするのが聞こえた。
ナギと中将が? 初対面じゃないのかしら。
頭のなかで書き直したばかりの書類の中身を思い起こしてみる。でも、どこにも、中将が出てくる依頼など無かった。
まぁ、初対面でも話が弾むことはあるし。
そう考えて納得しかけて、おかしいことに気がつく。
待って。そういえば、ナギの手紙にあったおじさんに貸しをつくった依頼、あたしは知らないわ。書類にも無かったはずよね。
胸に小さな疑問を残し、あたしは事務所へと戻った。
「って、ちょっと、ナギ! お客さんをさしおいて座っちゃダメでしょっ」
ナギはあたしのことばをさらりと無視した。譲る気はさらさらないらしい。外套を着込んだまま、中将に勧めたはずの椅子に座って、足まで組んでいる。
あたしはすこし迷って、机によった。椅子を引いてきて、いま一度、中将に勧める。そうして、自分はお行儀悪くも机に腰かけた。
会話が無いのが耐えられなくって、あたしは中将のほうを手で示した。
「あのね、この人と一緒にゲバルのほうに行ったのよ。貴き辺りの依頼で」
「ああ、やっぱりひと騒動あったのか。砦の見張りがぴりぴりしてたのは、そのせいだな」
ナギは言い、で? と、目で促してくる。それを受けて、あたしは続けた。指折りできごとを確認しながら、順を追って説明する。
「……でね、二百カランももらっちゃったんだけど、返していいよね?」
「何度も言いましたが、受け取りませんよ」
中将はいつの間にやら仕事の顔になって、あっさりと言う。それでも、ナギはうなずいてくれると思ったのに、意外にも彼もうなずかなかった。問いには答えずに、淡く笑って、ひとつの質問をあたしに投げかける。
「よろず屋とは?」
尋ねられ、あたしはすぐに答えを見つける。
これ、いつもナギが言っていることだ。ナギは事にあたるときの姿勢が独特なんだけど、これだけは徹底してるの。
「『よろず屋はお節介焼き』?」
「だから、くれるなら貰っておけばいいんだ。ほんとうは報酬なんて要らない。金がなくても助けるだろう。特に、お前は」
改めて言われると微妙に気恥ずかしくて、あたしは宙に浮いた足を子どもみたいにぶらぶらさせた。
「だって、ほっとけないじゃない」
口を尖らせて言うと、ナギは破顔した。
「そうだな。で、だ。依頼主が金をくれるときは、報酬もあるが、口止め料のこともある」
「……え?」
あたしは足をぶらつかせるのを止めて、ナギを見た。それから、中将へと視線を滑らせる。彼の表情に変化は無かった。
驚いて、無いんだ。知ってたってこと?
「どうして、はっきりそう言わないの」
「言ったら、それが重要な機密だって教えているも同然だろうが。かしこーい国王陛下サンは、依頼する前にあらかじめ判ってたんだ、自分の息子がどう打って出るのか」
ナギは立ち上がって、外套を脱いだ。それを片手に奥へ向かう途中で、あたしに腕を伸ばし、頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「よくできました。あと、もう一歩だな」
笑顔とともに言い残して、ナギは奥へと消える。あたしは机に腰かけたまま、床に目を落とし、唇をかんだ。
もうっ! あたしばっかり、莫迦まるだしじゃない。
悔しさと恥ずかしさで、何も言いたくない感じだ。何か言ったら、また墓穴を掘りそう。
そこへ、中将が声をかけてくる。
「先日から、あなたとの齟齬には気づいていました。私が言えば、」
「できもしないことは口にしないで。あなたは絶対に言わないわ。慰めは、要らないの」
八つ当たりだ。わかっていても、ことばをとめられなくて、あたしはより一層、自己嫌悪にかられる。
事務所内に、沈黙が落ちた。