幕間 - 03 藍色の花ことば
植物辞典を広げても求める答えが載っていないのだと気がついたのは、三冊目の該当項目を探しあてたあとだった。どの本を見ても、学術的な事柄や薬として用いる方法ばかりが記されており、肝心なことが書かれていない。これだけの文章を書く暇があるのだ、ほんのひとこと書きくわえるのにどれだけ手間の差があろうか。
まったく、役に立たない辞典もあったものだ。……いや、世の中には専用の辞典があるのかもしれない。それならば、次の訪問までに探しておかねばなるまい。
新たな物思いに耽っていたら、知った気配が灯とともに近寄ってきた。もうそんな頃合なのかと窓の外を見やれば、確かに日がかげってきている。道理で字が読みづらいはずだ。
「ずいぶんと熱心でらっしゃいますのね。このごろはこちらにはあまりいらっしゃらなかったのに」
笑っているのか、蝋燭の火の先が小刻みに揺れる。穏やかな物言いは昔のままで、ひどく懐かしい。そういえば、この部屋に来るのは何年かぶりだ。学校を卒業して数年は立ち寄っていたが、やがて間遠になって、最近は寄りつきもしなかった。
そのように考えると、書物の手触りすら久しぶりに感じてくる。ざらざらとした表面の感触、古びたほこりっぽさと墨の匂いのまじった甘い香り。ここは何も変化していなかった。自分の屋敷のうちにあって、年月を経ても変わらぬ存在があるというのは、不思議なものである。
「息災で何よりです、テス夫人」
「まぁ、他人行儀な。シェシャンとお呼びくださいな、昔のように」
双眸を細めて、シェシャンは微笑んだ。幼いころは彼女に身の回りの世話を焼いてもらっていた。いまは奥向きの用をしているはずだ。その彼女がなぜ、この部屋に居るのだろう。ここは、私の学習室だった部屋である。用など無いはずだが。
私の考えを読んだのだろう。シェシャンは何でもないように答える。
「部屋の前を通りましたら、物音がするものですから」
不審な音がした部屋に女性がひとりで入っていって何になるのだ。もし物音を立てたのが私ではなく賊であったら、どうする気なのだろうか。
「部屋をあらためる際は、必ず下男を連れてください」
呆れて諭すと、にこやかに話題を反らしてしまう。
「何をお調べでしたの。フィルニルが、何か」
「フィルニルの、花ことばを」
告げる声がしりすぼみになってしまう。考えなしだと友人になじられたのが響いているらしい。もしも変なことばだったら。いや、しかし、あのひとは……恋に、関する花だと言っていた。それなら、なんとか、なるのか。
シェシャンはと見ると、妙な顔になって押し黙っている。ああ、やはり? その表情を見るなり、つい口走ってしまった。
「い、いまのは聞かなかったことに、」
止めようとしたが、シェシャンは首をかしげたまま言った。
「フィルニルなら、『仮装』です」
「仮装? いつわりよそおう、の?」
どこが恋愛なのだ。あの人の思い違いだろうか。だが、花柳で売られている花は、というもっともらしい理由が述べられていた以上、嘘や間違いだとは思えないのだが。
首をかしげていたら、
「フィルニルをどなたかに贈られたんですね」
念を押されて、反射的に頷く。
「それで、花ことばに関して何か言われた」
「ええ、そうなのですが」
納得したようにシェシャンは小さく首を動かした。
「花ことばというのは、ひとつの花にひとつきりとは限りません。花色ごとにちがうことばがあてられるものすらございます。ですから、そのかたがおっしゃったのは『仮装』以外のことばの可能性もありますわ」
そういうと、シェシャンはふたたび口を閉ざし、すこし考えるようにしてから言った。
「お殿さまか、さもなければ、お知り合いのご婦人にお聞きになったほうがよろしいかと。俗な物言いですから、お屋敷の蔵書には見つからないはずですわ」
「そうは言っても」
「ウルさまには、女性のご友人っていらっしゃらないんでしょうねぇ」
父に聞くという選択肢はさらりとなかったことにするあたり、シェシャンも心得ている。だが、彼女にこうも悟りきったように女性の友人の有無を口に出されると、我がことながら情けなくなった。これでひとりでも居たなら、あの人を口説くのにこれほど苦労はしない、と思う。
「お父上に似てらっしゃるのはお顔だけですのね、ほんとうに。真面目と言うか、何と言うか」
シェシャンは頬に手を当てて、私の代わりにため息をつき、目を床にさまよわせていたが、やがて、あっと声をあげた。
「いらっしゃいますわ、ウルさま、おひとかただけ!」
顔をあげた彼女から叫ぶように告げられた名は、確かにただひとりの女性の知り合いだった。
「で、ここに来たわけだ、結局」
経緯を説明し終えると、シドニィはこうなることがわかっていたとでも言うように肩をすくめて見せた。そうして、つけくわえる。
「オーガスタなら、そろそろ帰ってくる。さすがに茶ばかり飲んでいられないだろうし」
「君も知らなかったとは、まったくもって思いもよらなかった」
よくもぬけぬけと説教してくれたものだ。皮肉を言ったら、シドニィはそらとぼけて窓の外に目を転じた。
「あれはあれで喜んでもらえたんだし、いいじゃないか。見た目はふつうじゃないが、好み自体はふつうの女と変わらないのさ。甘いものが好きで、きれいなものが好きで、優しくされるのが好き。あと、ほめられるのも大好きだな、きっと」
椅子の肘掛に頬杖をつき、シドニィは視線をこちらに投げてよこす。じろじろと見られて、何だとたずねるが、なかなか答えようとしない。再三うながして、やっと口を開いた彼は、ついさっきどこかで聞いたようなことを言った。
「お前もさ、見た目はひとより良いんだから、あとはうまく口説ければ、結構良い線いくはずだよなあ」
「余計なお世話だ」
「あれだけ本読んだら、恋物語のせりふでもなんでも組み合わせて、口説き文句のひとつやふたつ作れそうだが」
「あいにく、そういう類の本は読まなかった」
「じゃあ、シッテスの恋愛詩集や、ラレクの『情熱論』!」
本嫌いがなぜそのような読書家向けの作者や書名を知っているのかと眉をひそめると、シドニィは言いわけするようにことばを繋いだ。
「結婚してすぐのころ、オーガスタと大喧嘩したときに兄が勧めてくれて。あれ、すごく役に立ったんだ。そうだ、貸すから読んでこいよ」
「いや、いい」
私は手を振った。親切に言ったつもりなのだろう、シドニィは心外そうな顔をした。
「どうして」
「……持っている」
苦々しく思いながら告げると、案の定、興味津々といった風にシドニィはいやな笑みを浮かべた。このあとに何を言われるのかが予測できて、私は先回りして答えを提示する。
「父が、」
「あー。」
このひとことで合点が言ったというのも、いやな話だが、どうやら付き合いの長い彼にはそれだけで話が通じてしまったようだ。
「でも、読んでいないだろう。ぜったい読んでおけよ。損は無いから」
友人がそう締めくくるのを見計らったように、バートリ家の侍女が奥方の帰宅を告げた。
損得を考えて読んだ書物ほど役に立たないものはない。理性に囚われて、内容が頭に入らない。ややもすると自分の感情を冷静に分析しそうになって、私は書面から目を外した。
たとえば、あの人が欲しいのはなぜかなど、いままで考えたこともないことに、私は思い至った。
八年前、気づいたときには持てる力のすべてを使って身元をつきとめ、跡をたどろうとしていた。シドニィが留めてくれなければ、そのまま追っていたかもしれない。寝ても醒めても気になるのだと言ったら、そのとき既に結婚していた友人は、「恋だな」と笑った。
あれから、八年も経った。まだ一度も、心の中でさえ、名を呼ぶことができない。たぶんそれは、自信が無いからだ。私には、名を呼ぶだけで、あの人から笑みを引きだすことなどできない。
だが、あの男にはできる。
昼間、目の前で繰り広げられた情景を思い出して、口唇をかんだ。かぶりを小さく振って、それを思考の外に追いだす。
この感情は何と言うのだったか。……ああ、そうだ。これは、嫉妬だ。
『フィルニルの花ことば、ですか?』
シドニィの奥方の声が脳裏によみがえる。帰宅したばかりのオーガスタは、ためらうことなく正解を口にした。
『仮装と、愛情の絆ですわ。それが何か?』
あの人は、この間、何と言った? それは、ほんとうに鈍感から発せられたことばだったのか。それとも。
考えがめぐりはじめてしまった私の手から、押さえていた紙の端がすり抜け、本が閉じる乾いた音が大きく響いた。