幕間 - 02 藍色の花ことば
中将たちが帰ってすぐ、下の通りが騒がしくなった。もしかして、ナギが帰ってきたのかなって思って、あたしは大急ぎで事務所を飛びだした。
路地を突っ切って、左右を見回したけれど、さきほどの喧騒が空耳に思えてしまうくらい、あたりは穏やかだった。みんな、いつもどおりに店を開く支度をしているだけで、どこにもナギが居るようすはない。
混乱して、あたしはあてどもなくその場をうろついてしまった。
なんだったのよ、今の騒ぎは!
外套も着忘れ、事務所の扉も開け放したままなのに気がついて、顔を覆ってしまいたくなる。あたしってば、どうしてナギのこととなると、こんな風になっちゃうのかしら。
柄にもなく恥じ入っていたあたしの袖を、脇から引く手がある。繊手というほど華奢ではないけれど、細く白い腕だ。嗅ぎなれた匂いで、すぐにステラだと分かった。
「やぁね、ルカったら。将校さんなら、もう帰ったよ?」
言いながら、ステラは自分の肩掛けを腕まで滑らせた。近寄ってきて、あたしを抱きかかえるように肩掛けで包んでくれる。
「フィルニルはもう取っちゃったの? あの、砂色の髪の将校さんから貰ったんだって、花売りの娘がふれまわってたけど」
ごく浅くかがみこんで、ステラはあたしの頬をてのひらで挟むようにした。くちびるを軽く噛み、痛々しいといった表情をする。
「あんたも、この傷さえなきゃ、ねぇ……」
左目の上をそっと指でなぞられた。くすぐったいったらなくって、笑いながら後ろにのけぞる。あたしがことばを深刻に受け取らなかったのが不服らしく、ステラは重ねて真剣な調子で言った。
「ルカは、もう二十三だろう? 将校さんは悪い方じゃなさそうだし、あの方のお妾さんになれば、良い暮らしができるはずだよ。これでナギさんといい仲なら、話は別だけどさ」
ステラの真摯なようすには悪いけれど、あたしはついつい笑ってしまった。
だって、花ことばも知らないで、気まぐれにフィルニルを手土産にしたのよ? それだけで話がこんな方向に進んでるのよ? 中将が気の毒ってものだわ。変な噂が立たなきゃいいけれど。
「冗談はいいかげんにして、ステラ。中将には好きな人がいるのよ。聞いたかぎりでは、八年も片思いしてるらしいわ。それに。それに、あたしは貴族のモノになんかならない」
「どうしてよ。こんな傷ができるような戦場に行ったり、よろず屋で辛い目にあったりしなくて済むんだよ?」
肩掛けの端を掴んで、ステラの目を見返した。感情が、過去があふれてしまいそうだけれど、でも、今、うつむきたくはない。
「そうなったら、あたしはよろず屋のルカじゃなくなっちゃう。ナギの隣に居られなくなっちゃうの」
「あたりまえでしょう、何言って……まさか、あんた、ナギさんが好きなの?」
違う、そうじゃないの。そうじゃなくって。
あたしはどうしても、うまくほんとうのことが言えなくて、どうしようもなくって、一心に彼女の瞳を見上げて、言いつのる。
「ルカでなくなったら、ナギの足手まといになるんだもの」
ステラはあたしの勢いにただ首を傾げる。
でもね、ステラ。あたしには、こうとしか言いようが無いのよ。ただのルカで居るうちだけなの、ナギと一緒に居られるのは。
ルカだから、ナギは全力で守ってくれるし、あたしもナギのために働ける。もしも、ルカで無くなったら、そんな構図、実現しないの。
「これ、ありがとう。扉、開けたままで来ちゃったから、事務所に戻るわ」
笑顔で肩掛けを返して、あたしは事務所までの路地を足早に戻る。薄着の肌には、空気が冷たい。もうすぐ、また冬がくる。
そうしたら、去年みたいに農家のお手伝いに行こう。きっと、近く依頼がくるから。薪を割って、買い出しに行って、雪が降る前に壊れかけた屋根を葺きなおす。そうやって、毎年変わらない流れに、この身を浸したい。
変わらないでいたいのに、世界は目まぐるしく動いていく。
あたしは階段をのぼりつめ、事務所に駆けこむ。後ろ手に閉じた扉の向こうで、花柳が夜に華やぎはじめる音が聞こえた。