幕間
殿下の居室の戸口にて、見覚えのない女官とすれちがった。顔の半分ほどを髪で隠しているせいで、一瞬ではよく面差しを確認できない。新参の者だろうか。
毎度、新しい女官が殿下のお傍につくときは、女官長からそれとなく報せがくるのだが、そのような報告を受け取った憶えはなかった。あの書類の山の中に紛れ込んでしまったのか。
いや、この場合、私が見忘れているのだろう。新参の者であれば、ひとりで行動させるはずもない。誰か先輩格の者がついているものだ。そういえば、見たことのある色合いの金髪だった気もする。
深々と頭を下げて、女官はひとりで私の脇を通りすぎる。周囲の者はなにごとも無くやりすごした。やはり、古くから居る者だったのだ。
気を取り直して殿下を目で探す。が、広い部屋のどこにもいらっしゃらない。机の上に散らばった読みかけらしき文書が机から滑り落ちる。それを読むべき主はどこにも居なかった。
今日は外出される予定は無かったはずだが。また、散歩と称して城内を歩きまわっていらっしゃるのかもしれない。
殿下はご公務のあいだに少しでも暇があれば、すぐにどこかに行ってしまわれる。城内とは言え、おひとりではあまりに無用心に過ぎる振る舞いだ。そのご性質を理解しているので、私たちのほうもなんとか都合をつけて、お傍につくようにしている。しかし、このようにふらふらと勝手気ままな行動ばかりとられると、こちらとしては非常に困る。
いまの時間はシドニィがついているのは分かっている。彼と取り決めた予定よりもすこしばかり早いが、どうにか交替できそうなので、ここまで来たと言うのに。なんと間の悪いことか。
無為にこの部屋で過ごすのも、城内を探しまわるのも御免こうむる。しごとに戻ろうとして入り口へと足を踏みだして、私は壁際に立っていた女官らの様相の異変に気がついた。まっすぐに立ったまま、一様に鉄の無表情を浮かべている。まるで、何かを隠しているようだ。感情を押し殺さずには居られないほどの秘めごとらしい。
妙なことだ。いつもならば、殿下が戯れになさることを思い出しては笑いさざめいたり、談話していたりするものだが──。
ああ、そうだったのか。
私はぐったりとした気持ちで、ついついためいきを漏らした。足早に部屋の戸へ近づき、勢いよく引き開ける。出て行く気は毛頭ない。答えがそこにあるのだということにやっと、思い至ったのだ。
「殿下、何という服装をなさっているのですか!」
扉の外にいらした殿下はさきほどすれ違った女官と寸分たがわぬ服装で、してやったりといった風に目を細めた。濃緑の瞳が私を得意げに見つめている。
さきほどまで笑いを堪えていた女官らが背後で切れ切れに息をもらしはじめたのを感じながら、肩を落とす。
まったく王子ともあろうかたがなさることとも思えない。悪ふざけをする年齢ではいらっしゃらないし、第一、これは王族男子として許されるべきことだろうか。
殿下は私を中に押しやって、部屋に入ってこられた。その向こうから、申しわけなさそうにシドニィが顔を出す。だが、その目は明らかに事態を楽しんでいる。私は友人に視線を突き刺してから、殿下に向き直った。改めて服装を確かめる。
裾がふわりと広がって、足を押し隠している。この年齢にしては小柄かつ華奢でいらっしゃるためか、裄丈や肩幅も特に苦しそうではない。誰に借りたのかは存じあげないが、殿下のためにあつらえたようにぴったりとしている。
なんと言えばいいのか、これは少々、冗談では済まされないような趣がある。目の毒であることには相違ないのだが、いささか、その……似合いすぎていた。
はたして私の戸惑いを知っていらっしゃるのだろうか。殿下はにこやかに微笑まれる。
「どうだ、ウル、すごいだろう。このような服まで着こなせたぞ」
身にまとった女官用の衣服の裾を両手でつまむと、膝を曲げて宮廷風のしとやかな礼までなさった。もちろん、女性のしぐさである。なにやら頭の端が痛んできた。婦人服を着こなして、いったいどうなさるおつもりなのだ。
私はひといきに諫言を口にした。
「人目につかぬうちにお召し換えください」
「なんだ、面白みのない奴だな。シドニィは綺麗だと、世辞まで言ってくれたというのに」
不満そうに口を尖らせて、殿下は隣室に移られた。寝室でお召し換えなさる気なのだろう。女官がふたりほど壁から離れてついていった。その背を見送ったあとで、私はふたたびシドニィに顔を向けた。
「毎度毎度、君までふざけていてどうする。いいかげん、お諌めしないか」
「いいじゃないか。あのかたはわざとふざけていらっしゃるんだよ。戦争の直後で、まだ女官たちも怯えているからな」
分かったような口をきいて、シドニィは私の肩を叩いた。落ち着けというのだろう。私はひとり除け者にされたような心持ちで、友人から目をそらした。
東アダル帝国との第五次戦争が一応の終結を見たのは、ついさきごろのことだった。その事後処理に追われながらも、合間を縫って、こちらに足を運んでいる。いまもすべきことは山とあるのだ。はっきり言わせてもらえば、のんきに遊んでいる余裕などない。
それを知っていながら、友人は殿下をかばう気らしかった。殿下が戻られると、彼は退出の旨を申しあげて、きびきびと持ち場に戻っていく。私たちは常日頃から、殿下のお傍に居るようにと仰せつかっているが、そのために特別に時間をとることはかなわないのだ。
彼も彼で忙しい身の上なのである。
シドニィのさまをご覧になって、殿下は私に同意を求めるようにおっしゃった。
「ウルも結婚すれば、シドニィのようにゆったり構えられるようになるかもしれないな」
「おことばですが、殿下。あれは、」
「分かっている」
反論を遮るようにぴしゃりと言って、殿下は私の服の袖を掴まれた。そのままご自分のほうに引きつけて、部屋の外へと足を向けられた。
「どちらへ」
お尋ねすると、殿下はにやっと笑われた。
「中庭だ。──イエラ、誰かここに来たら、私はアードレイ中将と逢引の最中だと伝えておけ」
「御意のとおりに」
呼ばれた侍女は冗談を解する類の者らしい。水色の目に笑みを忍ばせながら、一歩進み出て答えると、深く礼をした。
引きずられて中庭にたどり着き、大きな茂みのひとつの前に立つと、殿下はそこで立ちどまられた。草の上にじかに腰をおろそうとなさるので、あわててお引き止めして上着を脱いで内側を表にして敷き、どうかその上にと、おすすめした。
そこまでしなくてもと呟かれながらも殿下は上着に座られ、隣を私に示された。お傍に座るなどと丁重に辞退したが、聞き入れられるはずもない。結局、私は近くに座ることにした。
何をするでもない。こういう時間を持つのが、心底お好きなようだった。このかたは誰の前でも悠然とものごとをなさる。身分を気にもなさらない。いつもそうだ。散歩がてらに厩舎や厨房にまで連れ回されることもあるくらいである。
殿下はふと何かにお気づきになったようで、地面に敷いた私の上着のふところを生地の上から撫でられた。浮かび上がったそのまるい形を目にして、私はそこに潜ませていたものが何であったのかを思い出した。はっとして、胸元をさぐる。どうやら、今日は上着に入れていたらしい。
まれにみる失策だ。私は徐々に冷静さを保てなくなっていった。そわそわと目がさまよう。どうか、そのまま、お気になさらないでいただきたい。
願いも虚しく、殿下のほうから衣擦れのような音がした。ふところから、それを取り出されているらしい。
「シドニィの言っていたのは真実だったのだな。形見にしてはおかしなものだが。……外套か何かの留具だな?」
答えられない。いや、顔もあげられない。
おそらく今の言から察するに、殿下はあれをすでにご覧になっている。そうなったが最後、私が誰を慕ってその形見を持っているのかなど、すぐにお分かりになるに違いない。
おっしゃるとおり、それはあの人からもらった外套の留具であり、そこにはくっきりと家の紋章が刻まれていた。ひと一倍勤勉でいらっしゃる殿下のことだ、紋章をご覧になれば、どの家のものだかお分かりになるだろう。なんとも居たたまれない。
殿下はしばらくして形見の品をもとに戻された。そして一呼吸おいて、同情するような口ぶりでおっしゃった。
「お前も、大概苦労するのだな」
「は……」
どのような意味だろう。お心のうちを推し量りかねて、私が曖昧な表情をしているのを見て、殿下は笑い声を漏らされた。
「女心は、国と一緒で思いどおりにならないものだからな」
恐れながら、そのたとえは逆ではないでしょうか? と内心で思ったが、敢えて指摘はしない。言いまちがいだろうと流すと、殿下は続けて、自らの言を否定なさった。
「ああ、違うな。国は口説き落とす手段が確立されているが、女は一筋縄では行かないか」
「殿下、その喩えはあまりにも」
こらえかねて口を挟むと、殿下は笑みを崩さずに首をかしげ、こちらを見据えて言われた。
「『通俗的に過ぎる』か? だがな、国は民でできている。俗な言いようで表してもおかしくはないだろう」
「しかしながら」
「ウル、お前はもっと莫迦になるといい。世の中はお前のような賢い者の水準では動かない。ついでに、のろまにもなっておけ」
殿下はそうおっしゃると、地面に敷いた上着の幅など気にもなさらずに、草の上に横たわった。頭が草に触れてしまっている。
「何でもできるのはすばらしいことだ。でも、何でもするのはよくない」
そう言うなり、目を閉じてしまった。仮眠をとられるおつもりらしい。お傍についてもすることはないが、かといって離れるわけにも行かない。困り果てた私に、殿下は目をつぶったままでおっしゃった。
「下に任せてきたのだろう? ウルもしばらくここで休め。ある程度の時間を与えなければ、部下もしごとを憶えられないからな」
最後のほうは声がすっと小さくなり、消えていく。まさか、ほんとうにこんなところでお休みになられたのだろうか。私は殿下が目を伏せていらっしゃるのを拝見し、数瞬迷ったが、思いきって身体を横たえた。
眠る気はない。眠ってしまっては、殿下についている意味がない。陛下に護衛を命じられたわけではないが、私は話し相手ではなく、殿下をお護りするためにここにいるのだと思っている。
転がって見上げると、存外に空は眩しかった。目をすがめて、雲の流れを捉える。今日はあまり風がないようだ。ゆるゆると南のほうに動いていくのを追いながら、雲の姿がかすむのを感じた。妙だ。これほどまでに晴れわたっているのに、どうしてかすむのだろうか。
考えるうちに意識が沈んだ。
そして、そう経たぬうちに声が聞こえた。
「──しかし、予想以上にあどけないな。これで私より三つも年上だとは思えん。独り身の男とはみな、このように幼いものか?」
「何をおっしゃいますか。そういう殿下も独り身でいらっしゃるでしょう?」
「おお、そういえばそうだった。すっかり忘れていたぞ」
シドニィと、殿下の声がする。ここは、いったいどこなのだ。薄目を開けると、緑が目に入る。茂み、だ。そうだ、中庭か!
ばねをつかって身体を起こすと、殿下とシドニィが驚いて身を引く。それから、弾かれたように笑いだした。
「おはよう、ウル・マリアくん。よくお休みで」
からかうようにシドニィに言われてようやく、私は自らの置かれた状況を正しく理解するに至った。不覚にもこのような場所で眠ってしまったのだ。
殿下がご無事だから良いものの、何ということだ。どれくらい寝ていたのだろう。
私の考えを読んで、殿下が教えてくださる。
「ほんの一刻だ。よほど疲れていたのだな。声をかけても、なかなか起きなかった」
「申しわけございません! 大変失礼を」
「構わない。私も夕刻までの時間を潰したかったのだ」
おことばに救われて、私はゆっくりと面を上げた。それを見とめて、殿下は確かめるようにおっしゃった。
「聞いているだろう? 夕刻に例の者が来るのだ」
「ああ、あの怪しげな男が来る日でしたか」
シドニィが調子をあわせて、数度うなずく。
「そう言ってやるな。あの者が居なければ、戦は止まなかったぞ」
「まぁ、そうなのでしょうが、今ひとつ信用ならない気がするんですよ、私は」
眉を軽くひそめたシドニィに、殿下は淡々と続けられた。
「このぶんだと、後々、嫌でも関わることになる。仲良くしておいて損はないぞ。特に、ウルは、な」
「私が、ですか?」
意外なおことばに驚いていると、殿下は立ち上がられる。私の上着を草の上から引き剥がし、止める間もなく手で叩くように払われた。それから、私に向かって、ふっと笑まれた。
「今度、お前に良いものをやろう」
「殿下、私には無いんですか?」
おちゃらけるようにシドニィが口を挟むと、殿下はおもしろがって言い返される。
「お前はもう持っているからな」
その言で『良いもの』が何であるのかを悟ったのか、シドニィが薄くくちびるをたわめる。私はその以心伝心といったふうに、またもや疎外感を覚えた。友人はいつの間に殿下から何かを賜ったのだろう。
そう考えているのもすべて見通されているのだろう。殿下は改めて私の目を見て、力強いくらいの確信を込めておっしゃる。
「ウルはきっと喜ぶと思う」
「……はぁ」
我ながら情けない答えを返しながら、私はゆるゆると地面から腰を上げた。
殿下のお考えになることは時にとんでもなく突拍子もない。何か大事にならなければよいがと、不安をいだきつつも、私は草だらけになった上着を腕に抱えた。