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娘はしゃがみこみ、安堵に気を失いかけている偽王子をひっぱたいた。
屋根から落ちる寸前、偽王子はこの一室に飛びこんだ。いや、娘──アリソンによって引きずりこまれたというべきか。
「さぁ、こちらに」
言うなり、偽王子の手を引いて部屋を出ていく。助けてもらっておきながら、あたしは彼女を信用すべきかどうか測りかねていた。
「中将、あの子のこと、」
どう思うとまで言わせず、彼は口を開いた。
「あれが、アリソンですか?」
あたしがうなずくと、中将は足早にアリソンについていく。あたしは腑に落ちない気分ではありながら、彼の後を追った。
階段を二階ぶん降り、一番近くの部屋に入る。さきほどまで居た部屋の真下に位置する一室。はじめに通された部屋だ。
アリソンは暖炉に潜りこんだ。煤けた壁面に肩を押しつけ、ぐっと押しこみ、横にすべらせる。壁はがこりと奥にひっこんだ。あとにはぽっかりと穴が開き、暗闇がのぞく。
これって、脱出口ってヤツかしらん?
「ルカから行って」
次は君で、私、ウル。アリソンはてきぱきと指示を出して、先を促す。
「待ってよ、何でアリソンまで逃げるの?」
状況がまったく理解できずに見返すと、彼女は呆れたようだった。あたしに近づく。
「まったく、噂通りの鈍いお嬢さんだな、『ルキアさま』は」
耳元でささやかれた声は、今まで聞いたどの声よりも低かった。まるで、男性みたいな。
やっと、気がつく。アリソンはあたしの心中を見とおしたように言った。
「驚くのは後にしてくれるか。いまは逃げるのが先決だ」
あたしは茫然としたまま、腕を引かれて脱出口に入った。
暖炉からの通路は狭い螺旋階段だった。湿っぽい風が顔にぶつかる。かなり長い階段だが、どこに繋がっているのか。城砦の立地から、こちらは街道の反対側、山側のはずだ。
「まさかこれ、堀の底に出るの?」
「そのまさかだ」
短く答えて、アリソン(便宜上、呼び方は変えない!)は先を急いだ。暗いなか、侍女服では走りづらいだろうに、器用にあたしの前を行く。最後の段を降り、先ほどと同じように石壁を押した。
暗闇が切れ、霧のなかに飛び出す。朝霧の白が見える、ということはそろそろ夜明けが近づいているらしい。あたしたちは霧でうっすら白い堀の底を壁づたいに走り出した。
「どうして、こんな通路を知ってるの」
「アシュドド城砦は軍用になる前、王家の城のひとつだったのだ。知らないのか?」
知るワケないでしょ、そんな裏事情。でも、これだけは言いたいわ。軍用になった後、通路が埋められてたら、どうする気だったのよ。
そう言うと、彼は生意気に言いくさった。
「軍事拠点に限らず、城の改築には届けが必要なのだ。よもや知らないとは言うまい?」
「言うわよ、悪かったわね!」
かちんときて、あたしはそれきり口を閉じる。城砦の壁を左手に見て走る。道なりに行けば、正門の跳ね橋の近くに出るはずだ。だとすると、どこから街道に上がるんだろう?
あたしが頭を働かせている間に、不快な金属音が谷に響いた。跳ね橋が降ろされたのだ。もう、追手がまわったか。それとも護衛騎士さんたちがお外へ出てきてしまったのか。どうやら、後者だった。砦の兵隊ともみくちゃにされながら、群れるように橋を渡っていく。
走りながら、アリソンを城砦からかばう。矢でも飛んできたら、何の意味もない護りだが、気安めにはなる。
いまひとつ頭の足らない護衛騎士さんたちのせいで、兵士や農民たちは堀の上に続々と集まってきてしまっていた。
先陣を切って王都のほうへ走るアリソンを囲み、みなで移動する。土や岩の壁に隠れるようにあったのは、隧道だった。向こうに光が見えるから、長くはない。ひとっ走りで出口にたどり着き、蔦や木の枝を払う。
隧道は街道の脇、山の斜面に繋がっていた。道を歩く人々の目線が届かない高さ。人は自分の背より上の高さには関心が薄い。蔦などで覆い隠せば、意外に分からないものだ。
追手がまだないのを確認し、斜面に足をかけた。あたしが街道に降り、アリソンが続く。
一本の矢が、耳元の空気を貫いた。振りむけば、いくつもの鏃があたしに集まっていた。
「我が城砦の客人をお返し願いましょうか」
余裕ぶった慇懃な声。乱れた髪をなでつけながら、声の主である壮年の男は兵に並んだ。
「ツィブオンだ」
アリソンがささやく。あたしは叫び返した。
「アシュドドでは、客人を塔に閉じこめてもてなすのね!」
「はて、面妖なことを。お返しいただけないのならば、こちらにも考えがございます」
弓のねらいがぶれた。こちらは女ふたり。そのせいで迷いが生じてきているのだろう。だが、後続がはやくも到着しようとしていた。
「王子を返せ!」
農民のひとりの怒声が反響する。かぶせるようにツィブオンが命じた。
「賊を狙え。放て!」
偽王子が滑り降りてきて、アリソンの前に腕を広げる。中将がこちらに向かう。あたしもアリソンに抱きつき、一緒に地面に伏せる。
すべてが、ほんの一瞬だった。
土のにおい、視界いっぱいの若草色。痛みはない。あたしはそろそろと身を起こす。
あれだけの数の弓がこちらに向いていたのに、風を切る音は、ひとつふたつだった。
アリソンが服のほこりも払わずに立ち上がり、居並ぶ相手を見渡した。頭巾を無造作に取り去る。淡い金髪がこぼれる。大勢の人々が動かなくなった。ざわめきも消える。
「我が名はエドワード・パルヨハネ。シラ王国王位第一継承者である」
王子の目は大尉や兵士を越え、むこうの農民たちをとらえる。
「そなたたちが何を望んで事を起こしたのかは聞き及んでいる。戦争をにくむ心はいつの世でも正しい。だが、にくんだからと言って戦は無くなるものではない」
ことばの合間にも、彼は一歩踏み出す。小さな双肩にゆらめく気迫に、登り坂の上、兵士がへたりこんだり、あとずさりしたりする。農民たちは彼らよりも度胸があった。立ちつくしたまま、近づいてくる彼を迎えた。
「わたしは、シラの民を守りたい。わたしひとりでは力が足りないのだ。この国を守るだけの力を、貸してもらえぬだろうか」
説得ではない。真摯な願いにも聞こえた。穏やかな口調に、みなが次々に膝を折った。
「エドワード、王子」
さきほど怒声を挙げていた男が呟いた。そのことばが、彼らの心情をもっともよく表していただろう。
彼は王子だった。
王子は小さくうなずくと、縮こまった大尉を一瞥し、あたしたちを見返った。
「ウル。わたしは道中で体調を崩し、アシュドド城砦にて休んでいた。大事ないので、これより東アダル帝国は帝都へと向かう。……そう、父王に申しあげてくれ」
これには中将やあたしだけでなく、一帯の人々がことばを呑んだ。
「よろしいのですか?」
「構わない。それぞれにしかるべき礼を」
言い放ち、さらに坂の上のほうで傷だらけになっている護衛騎士たちに声をかけた。
「馬を車に繋ぎ、準備をしろ! 支度ができ次第、ここを発つ」
「はい!」
城砦に戻っていく騎士たちを、偽王子も追う。その肩を王子が叩いた。
「悪いな。服をこんなにしてしまった」
「お気になさらないでくださいませ。殿下がご無事でほんとうに安心いたしました。それ以上の喜びはございませんわ」
うわぁ、やられた。
そのやりとりに、本気で嗤いだしたかった。そんなあたしに、ばっさばっさと長い裾を蹴さばいてきて、王子は耳打ちする。
「だまして悪かった。帰りもウルに送らせる。頼む、あまり、夢を壊さないでやってくれ」
「はい?」
では、と手を振って、服の裾をからげて城砦へ上っていく。あたしは取り残され、村人たちや大尉らと一緒になって、その背が道を曲がって見えなくなるまで見送った。
「行きましょう」
視界の端から、そう話しかけられる。
「ねぇ、中将。乱世は終わると思わない?」
「あなたが言うと、現実になりそうですね」
流し見た中将は口の端を上げ、主君のもとへと歩きだす。あたしはたっと小走りにその横へ並んで、帰途を胸に描いた。