3 - 03
「ただいま──」
扉を開けて奥へ呼びかける。そろそろ日が落ちるころだというのに、事務所はまっくらだった。まったく。奥で寝ているのだろうか。灯りもつけないで。
考えてから、あたしは我に返った。
ここには誰もいない。ナギは出かけているんだ。遠方から届けられた手紙だって、いまさっきもらってきたばかりじゃないの。
留守番の経験は数えきれない。いま、ナギは依頼を受け、要人のご令嬢の護衛をしている。クロエの巡礼地まで、ご令嬢を送るのだ。
初めはあたしたちふたりへの依頼だった。けれど、事務所を訪れた依頼人はあたしを見て、息をのんだ。ナギはそれに気づいて、ありもしない店へとあたしをお使いに出した。
部外者扱いってヤツだ。むっとはしたが、ないことでもない。ひまをつぶして、露店で梨を買って帰ったら、ナギは椅子にかけたまま、あたしを呼びよせた。
隣に立つと、右腕が伸びた。蜜色のてのひらが左頬をなで、指先が耳元までつつむ。親指は、縦に走る古い傷跡をなぞった。
「これをお嬢さんに見せたくないんだと」
開かないまぶたに注がれた視線に声をうしなうと、ナギはやさしく笑った。
「おまえはすぐに顔に出るんだな」
違うわ、ナギがそのほうが良いって言ったんだもの。抑えることだってできる。あたしはそうして生きていたことだってある。
言いたかったけど、ナギが続けたことばで、あたしはすっかり先を言う気を損ねた。
「ルカは嘘も駆け引きも下手だから、よろず屋にはむいていない」
八年目だ。あたしはまる七年間も、よろず屋のしごとを補助しているつもりでいたのに。
ナギのおかげで素直になった瞳から、涙があふれかける。
「梨、剥くね」
なんとか笑顔をつくって、梨を手にする。小刀をあてようとうつむく。視界のまんなかで、黄緑色の梨の輪郭がゆがんだ。
……ダメ。泣くもんか。
なんでこんなものを買ってきたんだろう。梨は、ナギの好物だ。
「泣きたいときには泣けばいいだろ」
違うもん。涙が勝手に出てくるだけよ。泣きたいワケじゃない。だまって梨を繰る。
「──悪かった」
「あ、あたしはこの傷をっ、誇りに思、て」
嗚咽まじりに嘘をついた。赤の他人のことばじゃ、涙は出ない。おそらく嘘はバレている。でも、ナギは指摘などしない。
しゃくりあげたあたしの手から梨と小刀をとりあげる。するする、梨の皮が床へ降りて、ちぎれて落ちた。器用に削いだひときれを有無を言わさず、ナギはあたしの口へ押しこむ。前歯にあたってくずれた梨が甘く香る。
「このごろ、おまえの嫁ぎ先を世話してやるって言いだす輩が多いんだ。俺の都合でよろず屋の世界にひきずりこんだんだし、嫌だったら、あいつらに口きいてもらえば、」
首をふったら、ナギはもうひときれ、自分の口に運びかけていた梨をよこしたっけ。
──あたしは自分でよろず屋を選んだはず。
暗がりで、あたしは封書に額をよせる。
「だいじょうぶ。必ず、やりとげてみせる」
立ちあがる。手探りで火を起こし、ぶつぶつとつぶやく。
「これで報酬が少なかったら、記念すべき独り立ちがまったくの貧乏くじだし。……って、報酬について交渉するの忘れた!」
いきなり、玄人らしからぬ大失態である。
おじさん、まだ『猫の額屋』にいるかな。王城に乗りこむのは遠慮したいなぁ。
悩んでいると、うしろから肩をつつかれた。邪魔よ、とばかりにふりはらうと、今度はぽんぽん、と肩口を叩かれた。
「ったく、何なのよ」
ふりかえると、店で別れたはずの毒針中将さんが立っていた。しかも、真後ろ。不覚!
「王都の北門に馬を手配してきた」
「あら、そう。ありがとう」
動揺を押し隠してなるべくそっけなく答えると、中将はいぶかしげな顔をした。
「馬術の心得があるのか?」
「あいにく横乗りはしたことがないけれど、一応乗れるわよ?」
中将はおどろいたようだった。理由はわかるので口にしないでいただきたいと思います。
他の国ではどうだか知らないけれど、我が祖国シラ王国では、女は馬にまたがらないワケ。ほんとうは横乗りもまれなのよね。馬に乗らないことが淑女のたしなみなんだそうで。
庶民が『馬』と言ったら、荷馬か農耕馬かお肉(!)である。馬術は、軍属の者をのぞけば、貴族紳士だけのものなのだ。
「おまえはいったい、何者だ?」
「一介のよろず屋よ。急がなくて良いの?」
はぐらかす。目があうと、たぐいまれなるふたつの翡翠は前髪に隠れてしまった。
「まさかあなたは『一隻眼のルカ』ですか」
「ああ、そんな恥ずかしい名もあったわね」
「傭兵なのですね」
表情が見えない。あたしは中将の質問の意図を読み取れずに戸惑う。
「暗殺、諜報、時に傭兵、時に護衛。運び屋、仲介、人探し。依頼ひとつで店番も農家の手伝いもする。それがよろず屋ってモノよ?」
「違います。そうではなくて、あなたは、」
言いさして中将は戸口を見た。無調法な靴音が近づいてきている。あわてているらしい。
中将が気を張った。あたしも日ごろのならいで、自然に腰を落として構えていた。しかしながら、現れたのは、赤毛の青年だった。走ってきたのか、肩が大きく上下する。
「何の真似だ、シドニィ」
中将が肩の力を抜く。あたしはあきれて椅子を勧めた。青年は遠慮なく座り、深呼吸してから指折り確認するように話しだした。
「投げ文があった。殿下の御身と引き替えに、徴兵制の撤廃を求めている」
「投げ文はどこに。賊は追ったの?」
「王城正門に。すぐに衛士が追った。賊は騎乗していたが、夕刻の混雑時だったお陰で、王都の外壁までは馬なしでも追えたそうだ。外に出たところで追いつけなくなった。逃げた方角は、王都の北門から北北西」
北北西か。東アダルの帝都のほうに進んでいったのね。そして、『徴兵制』と『馬』。
すべてのかけらを繋げあわせるのに、さほどの時間は要らなかった。軍事関連で、国境と王都のあいだにあるものといえば。
「──アシュドドの砦ね」
同じことを考えていたのだろう。中将がこちらを見た。あたしはうなずいて返す。
アシュドドは戦闘用城砦だ。山中に築かれたこぢんまりとした城砦である。現在は、見張りの兵が一個中隊、常駐していると聞く。度重なる対東アダル帝国戦における北の防御の要衝だ。傭兵をしていたころには、あたしも付近で寝泊まりをしたものだ。
ゲバル山脈の街道を越えねば、国境にはたどり着かない。王都から東アダル帝国に向かう旅人は誰しもアシュドド城砦の前を通る。街道を通らず険しい山中へと分け入るのは、狩人や杣人でもないかぎり無謀極まりない。
「砦が占拠されたのなら、あたしたちふたりだけでどうにかできる規模じゃないわよ?」
「軍は派遣できないからなあ」
「王使は街道を行き来しています。城砦には必ず立ちよる。気づかぬはずがありません」
あたしは腕を組み、口許にこぶしをあてて机に寄りかかった。
王子の身柄と引き替えに、飲める要求だろうか。傭兵隊を解雇したばかりのシラから徴兵制まで無くしたら、軍の人員は大幅に減る。
本来ならば、民草を守る兵隊は貴族からの募兵だけで成り立つべきだ。
でもね、シラ王国は国の規模にくらべて、領主層が少ない。大領地を持つ者ばかりで、貴族の割合が低いのだ。貴族主体の常備軍だけでは、たいした戦力とならない。このまえだって、戦争を嗅ぎつけて各国から集まってきた傭兵隊に頼った。ここで予備軍の人員は減らせない。主客が逆転しちゃうじゃないの。
「通じて、いるのかしらね」
「民衆と砦の兵隊? ま、あり得る線だな」
青年が答える。口調こそふざけているが、声音は低い。中将が眉を寄せた。
「エアリム侯の手引き、でしょうか?」
その名には、以前覚えがあった。
「ああ、アダルびいきの侯爵さんだっけ?」
「おい、ウル」
青年が軽くとがめるのにも、素知らぬふりをして、中将は続けた。
「アシュドドの大尉が侯の手の者だという噂はありましたが、確証はありません」
「大尉ってことは、中隊長ね」
機密漏洩も良いところだ。開きなおったのか、青年はためいきをつき、言い添えた。
「先日、戦後処理で人員配置されたばかりだが、アシュドドの長はツィブオン大尉だな」
さて。そちらがその気なら、こちらも態度を改めさせてもらいましょうか。
あたしは机の中段のひきだしを抜き、天板に載せた。空いた中段をのぞき、上辺に手をさしいれる。がこん、手応えがあった。上段のひきだしの底板がずれる。指をさしこんで、さぐって、かきだす。
取り出したのは、堅く小さい紙筒だった。煙管よりもなお細い紙筒の蓋をきゅぽんっとはずし、指先で中身をひっぱりだす。
たたみ込まれて巻物状に丸まった紙きれをびっとひろげて、ふたりに示す。
「さあさ、お立ち会い!」
呼びかけると、彼らは何事かと、あたしの手元をのぞき込んだ。そして、一瞬の間。
さきに声をあげたのは、青年のほうだった。