3 - 02
『猫の額屋』の店内は、看板に偽りなしの狭さを誇る。
厨房とこちらを分ける長い卓のほかに、五人がけの円卓が五つ。客はぎゅうぎゅう詰め、給仕が客同士の背中に割り込み、足を高くあげて椅子をまたぐのが茶飯事だ。
店の戸をあけると、店主の声といっしょにいくつか視線がとんできた。
このひとだ。直感でわかった。
そちらに行こうとしたときだった。
「あらぁ、ルカ。傭兵時代のお友達?」
脇からやってきた女郎が、中将の肩にふれた。やり過ごそうとする彼をさえぎり、馴れ馴れしく襟元へと繊手をやる。そうして、縁取りで大きくした目をさらに見開いてみせた。
「ま、将校さん? すてき、貴族さまね?」
頼むから、そんなことを口に出さないで。
他の女郎が気がついてしまったら、ことだ。
あたしはふたりのあいだに割って入って、彼女にはわかるような笑顔で言った。
「ごめん、遠慮してちょうだい」
「ずるいわぁ、ルカったら。ナギさんと言い将校さんと言い、カッコいいひとばっかり」
女郎はいじけて、唇を軽くつきだした。ふとした表情ににじむ女特有の雰囲気が、うらやましい。逆立ちしてもあたしにはできない芸当だ。口先で女ことばは使えても、ね。
「何にもずるくないわ。このひととは、これから一緒に飲むだけよ」
これが、合図となった。心得たように周囲が無関心を装ってくれる。あたしたちは女郎をふりきって、店のなかほどへとむかった。
円卓についているのはふたりだった。くたびれた中年のおじさんに、赤毛の青年。青年はがっしりした体格で、血の気が多そうだ。外套の襟で隠してはいるが、こちらも軍服を着ているのだろう。巻毛に青い目、色白で、あたしと同年代とくれば、自己紹介をしてもらうまでもない。バートリ侯爵家の次男シドニィだろう。あの家は赤毛碧眼ばかりだから、見分けやすくて助かる。
あたしは隣接した円卓の客を蹴らないように注意し、空いていた椅子の前に立つ。そうして、あらためて目の前のおじさんを見た。手の届きそうな距離に、料理の湯気でほんのりと幕がかかる。
おじさんが今回の依頼人、このシラ王国を治める国王その人だろう。絵姿も張り出し窓からのお手ふりも見たことがある。身代わりでもないかぎり、ご本人に見える。
中将が外套の頭の部分を外す。青年とふたりしてきらきらしいばかりのお貴族さまぶりだ。対して、おじさんは王族どころか貴族にも見えない。そこへよろず屋のあたしが加わったことで、一団は店のなかで浮きに浮いた。
「ごきげんよう、おじさま。何年ぶりかしらね、ほんとうにおひさしぶりです」
姪っ子を装って、おじさんのむかいの席に着く。あたしの左斜め前の客が聞き耳を立てているのだ。舌打ちしたい気分で、あたしはつらつらと嘘っぱちを続けた。
「急なお誘いで驚きましたけど、お元気そうで何よりです」
おじさんの妹『かあさん』の話をし、あたしはもったいなくもおじさんの手酌で酒をいただく。まだるっこしいやりかたには慣れているらしい。話の合間に揚げ物を口へ放り、おじさんはうんうんと首をふる。近況を捏造するうちに、例の客の注意はそれていった。
一見して庶民のようだが、おじさんの眼光は鋭い。けっして庶民の持ちうる視線ではない。あたしの近況報告にうまく答え、話の切れめをうまく拾い、手際よく本題に入った。
「隊商と言えばな、隣国の用足しに上の倅を行かせたのだが、連絡がつかなくなってな」
『隣国』『上の倅』と聞いて、顔がこわばる。おじさんの長男って、世継ぎの王子殿下じゃないの! ええと、名前は……
「まぁ、エドが?」
愛称まちがってたら地味に恥ずかしいな。大げさに相槌を打ち、猛然と頭を働かせる。
たしか、エドワード第一王子は一昨日、東アダル帝国へと王都を出発した。名目は両国の国交回復記念式典に出席するため、のはず。
このシラ王国は、先頃まで東アダル帝国と戦争をしていた。国境の河の水をめぐる地元民同士の小競り合いから発展し、東アダル側が侵攻してくるという騒ぎになったのである。
「まったく、どこをほっつき歩いているのか、まだ国境の役所を通っておらんようなのだ。わしはこのとおり、王都を離れられぬ。代わりに行って、ようすを見てきてくれぬか」
やっとまとまった和平交渉だ、第一王子が式典をすっぽかすのは非常によろしくない。だが、表立っては捜索隊もだせない。
戦争直後だ。軍隊の進撃と誤解されれば、手薄な国境付近は制圧されるだろう。また、王子の行方不明が公となれば、東アダルが王子を害したのだとの風評がたつやもしれない。
先だっては、常備軍に予備軍を招集し、さらに軍とほぼ同数の傭兵を使っての戦いだった。それでも、東アダル軍との兵数差は三倍近い。敗戦を期すことがなかったのは、ひとえに防戦、それも自陣で迎えうつかたちで戦えたからだ。峻厳なゲバル山脈に北方を囲われたシラの地形は、防御戦に適している。
しかし、和平交渉を行なう際にシラ王国は傭兵隊を解雇した。あたしがよろず屋稼業に戻っているのも、そのせいだ。いま事が起こったら、予備兵だって戻ってこられるかどうか。北端のゲバル山脈下まで行軍するには、時間がたりない。何としても、ふたたび戦争へともつれこむのは避けたいところである。
周囲の騒がしさのなか、あたしはひとり黙りこむ。厄介な。依頼の重要性に気づいても、あとの祭りだった。
「ひとりでは心細かろう。ウルを護衛につれていくとよい。どうかひとつ頼まれてくれ」
おじさんはご親切にも、相方もといお目付役に中将までつけてくださるとおっしゃる。ますます断れないじゃないですかっ。
「ご用事の刻限は?」
がっくりとうなだれてやりたいが、円卓の上は埋まっていた。料理はすっかりと平らげられて、カラの皿だけが並んでいる。跡継ぎが危険な目にあっているかもしれないってのに、よく召し上がられましたこと! このひと、ろくに心配してないんじゃないのっ?
楊枝があったら、しーしー言いそうなぐあいで椅子にもたれ、おじさんは口をひらいた。
「四日後だ。だが、隣国との国境──イェオール河岸から帝都までの道程を一日では強行軍だ。できれば、二日でお願いできるかな」
脳裏で街道をたどる。目的地までは馬がいい。中将がいっしょなら、軍馬を使えるかもしれない。馬を街道沿いの伝令所で替え、草原を越えてゲバルの山路を行き、また平原。王都から国境まで、最速でも半日弱はかかる。ただし、そんなに急げば何事かと周囲に気取られるし、人間だって休み無しにはいかない。実際には一日かかると見込めば、動けるのはたった一日。もう夕刻だけど、明日の夕刻には国境付近についていなければならない。
ムチャクチャだ。思いつつもうなずく。ここまで聞いちゃったら、受けるっきゃない。
あたしはまだ二十三歳。若い身空で『始末』はされたくない。
「わかりました。おまかせくださいな」
安請け合いもいいところだ。あたしは詐欺師のように自信有り気ににっこりと微笑んだ。
依頼を承って、待ち合わせのやりとりだけして、さっさと席を立つ。いや、さっきから店員がこちらを気にしているんだよね。稼ぎどきだもの。女郎にとりつげない客は早々に立ち去ってほしいってのが本音でしょうよ。それでも直接言ってこないのは、このひとたちがあたしのお客だから。──違うな。ナギの事務所を訪ねてきた依頼人だから、だ。
密集地帯から出て、あたしは店主のいる長卓に近づいた。常連さんに割って入る。
「ルカ坊、いまからしごとだろ? 食えよ」
常連のひとりが皿を勧めてくれた。甘ずっぱい匂い。果物の砂糖煮をくるんだやわらかい薄焼き菓子だ。遠慮なくひとつつまみ取って、あたしは長卓に身を乗りだした。
店主は洗ったばかりの木杯の水気をぬぐっている。こんこんっと机を叩いて呼ぶと、やっとこちらへ視線をよこした。黙って長卓に杯と乾布を置き、卓の下に手を差し入れる。
「ほーれ、ルカ坊。お待ちかねの恋文だぜ」
取りだした白いものを卓に滑らせた。封書。利き手で受けとめ、裏がえす。封筒の裏書きには、クセ字で『ナギ』とだけある。
「ありがと。これ、少ないけど」
封書に遅れて寄ってきた店主に小金を手渡す。てのひらのうえの軽さを毎度のように茶化し、店主と甘菓子の常連さんが笑った。
「おまえもたまにゃあ謙遜してみろよ」
「次の機会にしておくわ」
笑顔でやり返して立ち去ろうとすると、店主がこちらへ身をよせた。卓のうえに身をかがめて、耳打ちしてくる。
「これを預かってきた商人が言うには、ヤツは船便で西のクロエからイェオール河を北上して東アダル帝国へ入ったそうだ」
イェオール河の上流はシラ王国の西隣の大国クロエである。河はゆるやかに北へのぼり、アダルの東西の国境付近で東へ折れ、一路、海へとむかう。この東へむかっている部分がシラと東アダルの国境となる。
「ふぅん。じゃ、対岸のエベルにいるのね。こちら岸に来る便に乗れたら楽なのに」
「そう言ってやるなよ。ヤツが無事に国境の役所を通れる保証はないんだろ?」
「まぁね」
あの風貌では、そうかもしれない。クロエにくらべて、シラの役所はエレブ人に対して神経質になっているから、なおさらだ。
はむ。かぶりついた薄焼き菓子はふわふわで、なかみはとろりと甘くて、右手に持った手紙も忘れて二口目にかかる。
店主はあきれたような表情であたしを見て、むこうからの酒の催促にこたえた。背後の酒樽に木杯をつっこみ、なみなみ酒を汲みだす。繁盛してるなと感心していると、目があう。
「あいつも所帯持っていい年なんだ。おまえも自立しろよ。嫁に行くとか。なんなら、あいつといっしょになればいいじゃないか」
「みーんな言うのよね、二言目には『適齢期』! 結婚するのがそんなにエラい?」
「そりゃあ、独り者よりずっとエラいさ。母なる大地に生まれた女が母にならずにどうしようってんだ」
だーから聞き飽きてるんだってば。あたしはてきとうに聞き流し、手紙を持った手を振った。こういうときは退散するにかぎる。
菓子の残りを口へ押しこむ。お行儀悪くももごもごしながら、もうしわけ程度に口元を手で覆い、常連さんと店主へあいさつする。
「ごひほうはまへひは。おいひかっはへふ」
「ああ、これはどうもお粗末さまで……って、おい、ルカ坊ッ。最後まで話聞いてけ!」
叫び声を背に、あたしはそそくさと『猫の額屋』をとびだし、事務所へと駆け戻った。