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「ルカ! たいへんよ!」
血相を変えて駆け込んできたお客様第一号は、隣の置屋のおかみだった。この小間物屋は、客の入りが極めて悪い。店主から依頼を受けての店番だったが、必要性を疑うほどだ。
「たいへんって、何が?」
あふ、と、あくびをかみ殺すと、がっしと肩をつかまれた。
「あんたんとこの事務所に客が来てるの! さっさと事務所に帰る! 駆け足っ」
「でっ、でも、店番は」
「私がやるから行きなさい。問答無用!」
「は、はいぃ!」
おかみから逃れ、あたしは店を飛びだした。日暮れの道を事務所へむかいながら、この界隈特有の人出に舌打ちする。
花柳街は王都のはずれにある。軒を連ねる店の多くは女郎置屋だ。基本、夜の街だが、例外もある。店番していた小間物屋、料理屋や宿屋あたりは、昼間も開店しているだろう。
置屋の店先で掃除していた女が顔をあげる。
「ルカ、そんなに慌ててどこ行くの」
「事務所に帰るの! お客がいるらしくて」
「あらぁ、たいへん」
のんきな返事に苦笑し、あたしは置屋の脇へ身を滑り込ませる。置屋と酒場とのあいだには、細い路地がある。左右には三階建ての貸長屋が並び、足元は薄暗く湿っぽい。それもそのはず、二、三階の窓には洗濯紐がたがいに渡され、衣服がはためいているせいだ。
この路地の狭さったらない。双方の長屋の窓から手を伸ばせば、難なく握手ができるほどだ。突きあたりには、板階段の取りつけられた壁がある。左下から右上へ。階段をあがった先が、ナギとあたしの事務所である。
事務所の木戸は全開だ。さてはおかみ、勝手に客を通したな? 階段をかけあがり、事務所に戻ると、人影がふりかえった。
背が高い。男、のようだ。頭から外套をかぶっている。とはいえ、いまはまだ初秋で暑い時期。どうやら、ワケありと見える。
あたしが事務所の戸を閉めると、男は外套を脱ぎ、腕にかけた。
砂色の直毛が、左目にかかる。その奥から、翡翠に似た色味の双眸があたしを見ていた。
なんて、きれいな色。ナギには負けるけれども、顔立ちもなかなか端正だ。ハタチ過ぎ? あたしと同年輩かな。
近衛軍の隊服姿だ。襟章に目をこらす。赤地に細い金線が横に三本、中央の線にのっかるように星が三つ輝いている。
……中将。この若さで上級将校とは、貴族のぼんぼんらしいわね。道理でおきれいなワケだ。軍事関係のお家柄なのだろう。
中将はこちらを見据え、腰の長剣を外し、書机にごとりと置いた。金属の産出量の少ないこのシラ王国では、長剣は身分証がわりになる。いわば、貴族の証だ。くわえて、相手は武人。これは最大級の礼儀にかなった所作。
……の、はずなんだけど。
あたしは不満に鼻を鳴らした。見ず知らずの相手に唯一の武器を預けるにしては、平然としすぎている。どうにも納得がいかず、あたしは机から離れていく腕を注視する。
中将の軍服の袖は、一兵卒のものよりもゆったりとした作りだった。ここだけわざと広く仕立ててあるみたい。単なる好みかしら? でも、この袖口、妙に動きがない。固く厚い布地だから? それにしたって、不自然だ。
考えをめぐらせ、はたと思いいたる。聞いたことがある。この男がそうなら、あるいは。
あたしは自信たっぷりな声音を作った。
「外すなら、ぜんぶ外しなさい。袖に隠しているモノも、すべて」
もちろん当て推量だ。一瞬おいて、中将は袖をめくった。仕込み針が十数本も机へ落ち、カカッと軽い音をたてる。
驚きは内心にとどめ、あたしはさもわかっていたかのように、満足げにうなずいた。
近衛にアードレイ伯爵家の者がいるとは知っていた。裏社会では有名だ。アードレイ家は王家を護るため、暗殺をも厭わない。もっとも得意とする得物が『毒針』なんだそうで。──沈黙する蜂こそ、おそろしい。と、アードレイ家を指して言う者もあるくらいだ。
あんな乱暴な外しかたをしたら、針先が折れてしまわないのかしら。余計な心配をしいしい、あたしは中将と距離をとった。
「お待たせして悪かったわね、アードレイ中将どの。ご依頼をおうかがいしましょうか」
呼びかけに、中将はこちらへ顔をむけた。
「私を知っているのか?」
「いいえ、はじめてお会いしたけれど」
笑みかけると、中将はおもむろに立ちあがり、握手のためか手をさしだしてよこした。
「ウル・マリア=アードレイ近衛中将だ」
「お噂はかねがね。あたしはルカよ」
あたしは彼の手を無視し、机のうえによりかかり、くちびるに余裕の笑みを刷く。
「中将閣下ほどのひとがわざわざ身分を明かして依頼にくるなんて、めずらしいわぁ」
「──私は、代理人に過ぎない」
「あら。あなたを使い走りにできるなんて、いったいどこのどなたさま? まさか、国王陛下が依頼人なワケでもあるまいし」
中将は否定しなかった。
嘘でしょ、ホントに?
いったいどんな依頼だろ。わくわくしだした胸をおさえて、指折りからかってやる。
「護衛は近衛兵がするし、戦争も終わったから傭兵でもない。人探しはお触れをだせば済むし、いくら短髪の女でも、あたしに女官の求人はないわ。王子殿下、王女殿下もお守りは必要ないお年頃でしょうしねぇ」
中将は愛想がない。返事もなければ、笑ってもくれない。まだやるのかと言いたげな顔つきでこちらを見やりさえする。
ちぇっ、おもしろみのないヤツめ。
「そうね。あ、お猫さまが逃げたとか?」
会心のひとことは、にこりともせずに流された。あたしの戯言の洪水に堪えかねたのか、中将は重い口をひらいた。
「依頼内容については、『猫の額屋』で」
「了解。行きましょ」
中将は長剣と針とをもとどおりにして、外套をひっかぶった。砂色の髪が隠れると、ずいぶんと地味なふんいきになる。たしかに、この時間帯の花柳街を歩くなら、彼ぐらい野暮ったいほうがいいかもしれない。
身を翻した中将を追い、あたしも短剣を提げ、閉じかけの戸を肩口で受けて押さえた。