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陽光がはねかえされて、街路がひかっている。多少春めいてきたとはいえ、まだ冬だ。ときおり顔のあたりをよぎっていく空気はつめたい。だが、まっしろな石造りの壁や、夏空に似た瑠璃色の屋根のせいだろうか、見知らぬキルファの町はあたたかい印象だ。
これも、日がさしているうちだけだ。じきに暮れてしまえば、他と変わらないだろう。いや、石は思いのほか、よく冷える。夜になれば、道端はどこより寒いかもしれない。
ひっぱられて歩きながら、石畳を足の裏で確かめる。ととのえられ、清められた道、両脇の建物は整然と並びたっている。道行くひとびとの身なりがいい。走りまわる子どもたちも血色がよくふっくらしている。表情も明るい。
考えこみすぎたのだろう。びんっと腕をひかれて、ルカは顔をしかめた。命綱のようにつながれた手は、すでにまっすぐにはってしまっている。肩や肘が痛いったらない。
「ナギ、離してくれ。自分で歩ける!」
叫んでふりはらい、小走りで隣にならぶ。手をひかれていてさえ息があがりそうだったが、横に来るといっそう苦しい。ナギはこちらのことを気にもとめずに大股でさっさかと歩く。
──おかしい、どうしたんだろう。いつもなら。
いつもなら、ナギは人一倍、ルカの歩調に気をつかう。根っから、女に対してはやさしいのもあるが、だれもがここちよいように配慮するくせがついているのだ。かたわらにいる人物の息づかいに気づかれぬように耳をかたむけ、相手に足並みをそろえることなど、彼にとっては朝飯前のはずだ。
ルカは競争でもしている気分で水袋をかかえなおした。
何をしてしまったのかと、そればかり気になる。そういえば、さきほど水を調達したときも食料を見繕ったときも、ずっと口をつぐんだままだった。何かが起きたのだとしたら、その前だ。
記憶をたどる。露店街への道すがらにこの道をとおったころは、軽口を交わしていた覚えがある。──いや、ほんとうにそうだろうか。このあたりの風景を見ても、行きの会話のなごりは見あたらない。
むこうから人波を縫ってやってくるものにルカは目を留めた。子どもだ、ルカの腰ほどの背の男の子。五つか、六つか。両手をふりまわして一所懸命に駆けてくる。上気した頬、ひとみがきらきらしている。得意げな満面の笑みで、くるっと半身ふりかえる。目を転じれば、ああ、むこうにも同じくらいの年頃の子がいる。おいかけっこだ。むこうにむかって、「勝ったぞ!」とでも言いたいところだろう。
うしろばかり見ていて足許がおろそかになったのだ。男の子が体勢を崩す。何の因果か、ちょうどルカが脇を通りすぎるころあいだった。倒れかかられて、とっさに腕をさしのべる。しかし、こちらも早足で歩いてきたのだ、勢いがある。ぶつかりあうかたちになりながらも、ルカはようよう男の子のからだを受けとめた。落とさぬように気はつかったが、いっしょになって転がってしまう。
「……立てるか?」
「ぜんぜんへーき!」
石畳についた手を服で拭って、男の子はぴょこっと立ちあがる。追ってきたほうが心配そうにのぞきこむのを、うるさげに手で追いやっている。ことばのとおりだ、子どもは見た目よりも丈夫なものである。からだが柔軟だからかもしれない。彼よりむしろ、腹にぶつかられたうえに尻餅までついたルカのほうが『重傷』である。どうやら、戦から離れたせいで、衝撃のやりすごしかたを忘れてしまったらしい。
子どもの無事に安堵し、もたもたしていると、ちいさなてのひらが目の前につきだされた。
「にーちゃん、立てる?」
やりかえされて、ルカはくくくっと笑った。えいっとばかり立ちあがって、ぱんっ、衣服のほこりをはらう。そうして視点をあげてみて、はっとした。
ナギはルカを待たずに遠ざかっていく。子どもたちの手前、すぐに隠したものの、顔色は一瞬変わってしまったかもしれない。
傍の建物から女性があらわれたのは、そんなときだった。女の子に手をひかれている。うったえられ、こちらを示されて、顔をむける。ルカと目があった。しずしずとした足取りでやってくる。ひとであふれていた街路に道筋ができる。ルカの受けとめた男の子が彼女に気がついて、しまったという顔つきになる。
「トーマ、このかたにきちんとごあいさつしましたか?」
「いいえ、マ・ソエル! トーマはお礼も言ってません!」
「おい、オルド、おまえっ」
男の子らがやりあうのを諫めて、女性は腰をかがめ、指をたて、ゆっくりと言いふくめる。ルカはそのさまにあっけにとられていた。
尼僧だ。年齢はナギとそう変わらない。二十代半ばと見えた。肩口ですっぱりと切りそろえた髪がゆれている。自分と同じ長さだが、ヴェールをかけているだけで、見た目の印象がこれほど異なるとは。濃色の服で肌を覆い隠していることで、清廉さがいっそう伝わってくる。
町いちばんの教会、ではなかった。尼僧が出てきたのはこぢんまりとした集会場といった風情の建物だ。異郷の建物だと、世間知らずを自認するルカにもひとめでわかった。宗教は同じでも、他とはまとうふんいきが違うのだ。
「旅のかたでしょうか。トーマを助けてくださり、ありがとうございました。かわりにお礼を申しあげます。……この子は、少々はにかみ屋なものですから」
いつのまにか、トーマと呼ばれた男の子は尼僧の服の裾をつかむようにして一歩ひいていた。ルカのほほえみを見て、ほっとしたのだろう。尼僧はトーマの背に手をあてた。うながされ、トーマはぺこりと頭をさげる。あ、ありがと。つぶやくが早いか、他の子ら数人とつれだって駆けだしていく。
見送りながら、尼僧は困ったような笑みを浮かべた。細められた目は、漆黒だった。肌こそ抜けるように白いが、ヴェールの下の髪も黒い。
「教会に学びにくる子らです。この町の学校はひとつきりですが、いささか上等にすぎるようで。学校に通えないという子をひとり教えておりましたら、いつのまにか生徒が二十人にも増えていました」
「……町の者に辛く当たられることはないのですね?」
思わずたずねかけてしまった。尼僧は動じもせずにゆったりと首を横にふる。
「キルファは平和な町なのでしょう。アダルに直接侵攻された歴史もありません。はじめこそ驚かれましたが、それだけです。ひとの意識は環境がつくるのだと、この町に来て学びとりました」
「たいへん失礼なことをうかがって、申し訳ない」
尼僧は首をふるかわりに自身の胸元に手をあてた。
「ソエル・イステルと申します」
「わたしの名は、ルカ。──失礼ついでに教えていただきたい。子どもたちはさきほどあなたを『マ・ソエル』と呼んでいましたが、あれは?」
「アダルの語ですね。教会の者が呼ぶのを憶えてしまったのでしょう。『わたしの敬愛する姉妹』という意味です。『ソエル・イステル』は、シラの言いかたで言えば、『修道女イステル』でしょうか」
納得して、ルカは口のなかでことばを反芻した。うなずいて、尼僧としっかりと視線を交わす。
「ソエル・イステル。あなたにお会いできてよかった。希望がもてた気がします」
「……ルカ、『母のみこころがいつもあなたとともにありますように』」
「ありがとうございます」
敬意をこめて頭をさげ、前に目をむける。
ナギの背はもう見えない。だが、焦りはすでになかった。人混みをかきわけて走る。きっと追いつける。ぜったいに見つかる。
隊商の馬車を降りた場所へ。
さきほどの男の子、トーマのように力のかぎり走る。ナギはけして、ひとりでキルファを発つことはない。目的を見失うことはしない。それだけを信じる。胸元でシィネの小刀がはねる。たとえ、自分でなくても、形見を持っている者を置き去りにはしない。
そこまで考えて、ルカはすこしだけ足をゆるめた。
──『わたしのことだけは置いていかない』とは、なかなか言えないものだな。
信じていないのか。そうではないはずだ、王都の花柳街で男たちにつかまったときも、ナギが助けてくれると思っていた。うぬぼれるのは怖い? はずかしい? ……そうでもない。
ルカはただ、知っているのだった。自分にしがみつく腕をふりはらえない『ブラン』という男を。だれかれ構わず助けてしまうお節介焼きな青年。いつかダビドゥムに言われたことばがよみがえる。自分はまだ、ナギを金でしばってしまっているのだろうか。まだ、つきあってくれているだけ?
案の定、馬車のそばにナギのうしろすがたを見つけて、肩から力が抜ける思いがした。実際、膝からはかくんと力が逃げていった。こちらをふりかえって、あきれたようだ。ナギは歩みよってきて、ルカの二の腕をつかみ、ひきずり立たせた。
抑えた声で叱られる。
「どこに行っていた。人混みではぐれるな、またこのあいだみたいな目に遭いたいのか」
「……ナギのほうだろう、いなくなったのは」
ふぬけた返答に眉をひそめるのがわかる。何か言おうとする気配があった。だが、すぐに失せる。何事か。正面にむきなおると、隊商をひきいていた壮年の男が近づいてきている。ナギはそちらを注視していた。
男は言いあぐねたようすで立ちつくす。
「──何があった」
しびれを切らしてたずねると、男は思いもかけないことを切りだした。