1 - 03 戦争の火種
たわいもないことだった。
巷間で根も葉もない話がはやるように、シラ王国の兵士のあいだで、まことしやかにささやかれていたうわさがあった。
『アシュドドには東アダルの間諜が潜み、常にシラの動向を河むこうへ知らせている』
アシュドド城砦はシラ王国の北、東アダル帝国との国境付近に位置する。ゲバル山脈の中腹に築かれた防衛上の要衝である。
シラの王都と東アダルとをつなぐ街道は山脈を南北に分ける谷を縫う。その街道にそうようにして、城砦は双方を行き来する旅人を見守っている。
堅牢なること鋼のごとしと、町人などの語り草になる城砦である。特定の職業につく者同士で、酒の肴に口にするにもたちの悪い話だが、相手にする者はついぞなかった。
それにくわえて、東アダル帝国がイェオール河以北にあることで、うわさはいまひとつ信憑性を欠いていた。
イェオールは東アダル帝国とシラ王国の国境線となる幅の広い河だ。だが、ふたつの国の境であるだけではない。この河はアスとエレブの境でもあった。
エレブの民とアスの民には、容貌に大きな差がある。多くのエレブ人は黒い髪と黒い瞳を持つ。ときには肌まで黒い。対するアス人は全体に色白で、髪や瞳にも淡い色を持っている。そのために、大抵ひとめでどちらの出身であるかがわかるのだ。
河むこうの隣国、東アダル帝国出身の間諜は色黒だから、すぐにわかる。ゆえにありえない。このように兵士たちは考えた。そうでなければ、うわさがこうまで長いあいだ、流布しつづけることもなかっただろう。
冬を目前にひかえた晩秋だった。
うわさがにわかに現実味を帯びた。
アシュドド城砦内部にて、賊の侵入を思わせる痕跡が見つかったのだ。
表立って口にする者こそなかったが、砦につめていた兵士らはみな、自分たちが交わしていた戯れ言を思い起こしていた。
実際にこの砦に間諜がいるのではないか。きっと、自分たちと変わらぬ容貌に化けているのだ。アス人の内通者の可能性もある。その者が内部から手引きして、賊を城砦内へ招じ入れたのではなかろうか。
一度、考えがそちらへむいてからは早かった。若い兵士らはすっかりとこの発想に取りつかれた。間諜の存在を信じこみ、たがいに疑いだす始末である。
戯れ言はほどなくアシュドド城砦の責任者たる中隊長の知るところとなった。無論、中隊長はその話を頭から信じはしない。かんたんな論理で、うわさが流布した原因を看破した。
たちの悪いうわさがたつのは、決まって国内の情勢や政情が不安定な時期である。
事実、シラ王国では、たまたまそのとき、第一王子が熱病にかかり、長らく床についていた。おおやけにはされていないことだったが、王都の貴族出身である中隊長はまっさきにそのことへ思いいたった。
兵士らはその中枢の不安を本能的に感じとったのであろうと判断を下した。
このままでは、職務もままならなくなる。事実無根だと証明さえすれば、兵士らの不安はなくなるのではないか。そう考え、くわしい調査をするようにと、各小隊長に通達した。
その矢先だ。
今度はボヤ騒ぎがおきたのである。
明け方のことだった。出火場所は食糧倉庫の陰。もちろん、常に火を焚く場所ではない。またたく間に消火活動が行われたため、報告が中隊長のもとへ届くころにはすでに鎮火し、被害の状況もわかっていた。
別段の被害はない。倉庫の外壁に焦げ跡がついた程度だった。
中隊長は現場を確認しにでたが、ひとめみるなり、片づけだけを命じた。
放火ではない。あたりには灰と薪のものと見られる燃えカスが山をなしていたが、木片が燃えてそのような細かな灰になるには時間がかかる。おそらくは暖炉の灰と思われた。
冬の近づいた時期だ。暖炉にたまった灰をかいて、ここに捨てた者があってもおかしくない。その者が後始末を怠ったのだろう。
中隊長はあとで掃除を行った者を調べることにして、その場での説明を行わなかった。
誰の目にもあきらかだと考えたのがまちがいだった。うわさを信用していない中隊長には何の関係性もない事柄と認識できることも、それを頭から信じこんでいる兵士たちにとっては違う。不始末によるボヤは、『火の気のないところでの不審火』そのものだった。
ボヤの与える影響をはかりそこねたことが二次的な災禍をもたらした。不審火にあおられて、兵士たちのあいだに巣くっていた不安が一気に燃えあがってしまったのだ。
中隊長がそれと気づき、対処をはじめたときには、もう手遅れだった。兵士たちは動揺と混乱を自分たちでは制御できない状態になっていた。
暮れかけの時刻、一部の兵士たちが無断で城砦をでた。彼らの目的は、ひとりの新米兵士をとらえることだった。
新米兵士の名を、ルハマという。他の若い兵士に比べて、品行方正で朴訥な印象のある少年だった。貴族の子弟も交じっている兵士のなかであれば、それも当然だったのかもしれない。彼の故郷のハラリ村は、ゲバル山脈の西の裾野に位置する農村である。
両親はルハマがアシュドド城砦へつとめるようになったいまも、ふたりきりでその村に住んでいた。食べるぶんよりすこしだけ多く野菜をつくり、このごろは息子のいる城砦へ売りにくる。また、数日に一度は山へ入って、暖炉にくべる木切れをひろいあつめる。そのようにして、つつましやかに暮らす初老の夫婦だった。ハラリでは平均的な家庭である。
数日前に提出され、受理された外出願いの文書によれば、新米兵士の外出理由は『両親のかわりに買い出しに行くため』だった。
ルハマにとって、日々口にする野菜のどれかが両親の手によるものだということは大きな誇りだった。直接には口をきかなくても、ときおり城砦を訪れる両親のようすは懇意の厨房係がそっと耳打ってくれる。それも、なれない環境ではこころの支えだった。
その年も、夫婦はいつもと変わらぬ冬支度をととのえていた。保存の利く野菜は貯蔵庫へとたくわえて、冬じゅう暖をとるのにじゅうぶんな薪を用意していた。だが、ほんのこまごまとした日用品がすこし足らない。行商人のこないハラリでは、それをそろえるために町まで遠出しなければならなかった。
シラ王国北部、特にアシュドド城砦近辺の住民が『町』というとき、それは国内を意味しない。南にある王都やその途上の町々よりも、北の隣国、東アダル帝国の町のほうが距離も近い。ハラリの者はみな、当然のように河むこうへ買い出しにでかけていた。
ルハマの家も、その例にもれなかった。毎年のことであるから、ルハマは両親から頼まれるのを見越して休暇をとっていた。
わずかではあるが、今年は自分の稼いだ金もある。こっそりと中隊長に相談し、年給の一部を前借りしておいたのである。これがあれば、両親にあたらしい農具を買うことができる。金属の刃先のついた鍬を贈ったら、父はきっとよろこぶに違いない。近頃はすぐ腰を痛めてしまうから、すこしでも楽をさせてやりたい。たまにはぜいたくをして、母に毛織物の肩掛けを買うのも悪くない。山里の冬は、老身にはこたえる。自分のいる城砦はふもとどころか山のなかにあるが、こちらはさすが国の機関だ。惜しげもなく薪をくべて、常に火を焚いてくれる。ハラリのほうが寒さは厳しいだろう。
前日のうちに支度をすませ、朝一で城砦をでる予定だった。ルハマの足なら、丸一日もあれば町へ行って帰ってこられる。念のためにと、休暇は二日間とってあった。もしも一日で用事がすんでしまえば、残りの一日はひさしぶりの一家団欒をたのしめばいい。
そう考えていたのだが、朝方におきたボヤ騒ぎのせいで、ルハマはすっかり足止めを食らってしまった。
買い出しは特に急ぎの用ではない。新入りの兵士らしく、率先して火元のあと片づけをした。それから城砦を発ったので、出立はボヤ騒ぎのあととなった。
日が中天に近づいたころ、ルハマはやっとアシュドド城砦をでた。
ゲバル山脈のなかを縫う山道をくだり、王都のほうへむかった。道をくだりきったあたりから、村までの道のりを遊山のような速度で進み、昼過ぎには家に帰りついた。実家で遅めの昼食をとり、両親から入り用な品をきき、関所を抜けるための割り符を手に、元来た道を折りかえした。今度はすこし急いだが、アシュドド城砦の前を通りすぎたのが日暮れときである。
東アダル帝国との国境の関所には、あたりがうす暗くなったころについた。
出国の審査を終え、最終便の渡し舟に乗りこんだとき、アシュドド城砦のほうから声がきこえてきた。先輩兵士の呼び声である。
まさか、見送りだろうか。いや、きっと近隣の見回りの最中であったのだろう。それでも、隊服姿でもないのに先輩たちが自分に気がついてくれたのが、ルハマはうれしくてたまらなかった。笑顔で彼らをふりかえり、大きく手を振る。
そんなルハマのもとへ返ってきたのは、笑顔でも見送りのあいさつでもなかった。
数本の矢が白く闇を切った。いちばんに飛んできた矢はルハマの足の近くに刺さり、びぃぃんと鈍くうなった。
ルハマはぞっとして、必死になって、続く矢をさけた。なぜ射かけられるのかわからない。停船命令が叫ばれる。船頭は無視した。シラ王国側にはもどらずに、対岸へと舳先をむけて、全速力で舟を前進させた。矢の届かない範囲まで退避して、状況を見ながら東アダル帝国へとむかった。
矢を射かけられたわけを当のルハマが知るよしもなかった。追いかけてきた兵士たちは、ルハマが間諜であるという強い思いこみに囚われていたのである。
このような錯覚がおきてしまったのは、ボヤのあとの混乱のせいだった。いつごろボヤがあったのかを中隊長が全体に明言しなかったのも、大きな要因のひとつだろう。
情報は錯綜していた。それがいつしかひとつにまとまりだし、たいした根拠のない流言をつくりだした。
『ルハマがいない』『きっとあいつが火を放って、外へ逃げていったのだ』『城砦を燃やしてしまうつもりだったに違いない』『俺たちを焼き殺すつもりだったんだ』
そうしたところへ、運悪くルハマがアシュドド城砦の前を通りぬけた。見つけた兵士らは動かなかったが、話をきいた幾人かが激昂して手近の武器をとり、猛然とルハマのあとを追ったのである。
イェオール河を渡りきるまでに、矢は幾度も幾度も放たれた。ルハマは無傷だった。だが、乗客がみな無事であったわけではない。
斜め前にうずくまっていた農婦は、腕にかすり傷を負った。となりの青年は足に矢をうけ、振動を与えまいとこらえていた。そして、ルハマの前に座っていた身なりのよい老人がひとり、亡くなった。
うなじに突き刺さった矢に動じたものの、乗客たちは舟上で必死に彼を手当てした。ひどい失血にくわえ、痛みで昏迷している老人を介抱し、止血をこころみた。対岸につくなり、手を貸しあって医師のもとへ急いだ。
その甲斐もなく、老人はまもなく息をひきとった。ルハマは彼の臨終につきそっていたが、長居もできない。知らせをうけて老人の家族らがくるのを待たずに医療所をあとにした。
このとき、シラ王国の命運はほぼ決まっていた。兵士らの矢によって命を落とした老人は、東アダル帝国の要人の家宰だった。だが、この時点では、誰ひとりとして、そのことには気がついていなかった。
老家宰は風の便りで流れてきたうわさをたしかめるために南へ渡っていた。例の第一王子の病状の件である。家宰はそのことについてくわしく調べ、主へ報告するために帰途につき、無残にもシラ兵士に射殺されてしまった。
事後処理は難航した。
まず、アシュドド城砦の中隊長は罷免された。ルハマを追いかけ、老家宰を殺した兵士らは当然のことながら、被害者であるルハマも騒乱をおこしたとして処罰の対象となった。
北の隣国に比べてはるかに国力の小さなシラ王国は、できうるかぎりことを荒立てぬようにとつとめた。しかし、いずれもむだなあがきだった。
冬を目前とした時期にもかかわらず、東アダル帝国はシラ王国に対して、正式に宣戦布告したのである。




