幕間 - 07 とある少女の不運な一日
傷つけてしまったかと、ちらりと目をやる。案の定と言おうか、少年は辛そうな表情でひとつきりの小さな窓を、そのかなたの星空に目をすがめていた。
あわててあやまろうとした私には頓着せず、少年はぽつりとつぶやいた。
「兄が、いたのだ。軍人の家系だが、兄さえ無事なら、私は軍に入らずにすんだ」
不穏なものを感じつつも、聞かずにはいられなかった。
「兄上は」
「先の戦争で伝令中、行方不明になった」
息をのむ。少年は床の一隅に目を落とし、口元だけで淡く笑んだ。
「私は、兄の代用だ」
首を横に振っていた。はじめは小さく、やがて、きっぱりと。
「それは、違う」
口にだして否定すると、少年がふりむく。私は彼にむかってもう一度はっきり「違う」と言った。
「あなたはあなただ。あなたにも、もともと軍人になる才があったのだ。いまだって代用ではなく、その力が求められているだけだ」
同じだ。この少年は、『私』といっしょだ。
『私』の救いかたなら、私も知っている。この半年間で、しっかりと学びとってきた。少年の新緑の瞳をまっすぐとらえて、ゆっくりとたたみかける。
「歪んだ目でみれば、ものごとも歪んでしまう。軍人は国や民人を守るためにいる。貴族もしかり。あなたは、私を助けてくれた」
『私』をミカルが励ましてくれたときを思いだす。そう、あんなふうに笑っていよう。この少年が笑えるように。
見つめる先で、瞳がうるんでいる。けれども、目元も口元も、私に応えるように微笑んでいる。
「いままでの表情より、こちらのほうが好きだな」
言うと、笑みだけ消して、少年は無表情をとりつくろうとしだした。一度、表へでてしまった涙は隠せないというのに、ぐっと息をつまらせて、奥へ押しこもうとする。
なんて不器用。それになんて──なんて、『私』にそっくりなのだろう。
熱く火照った少年の頬に手を這わせると、彼の目にあきらかに不安そうな色がよぎる。
「泣いてはいけないって誰かに言われた? 『泣きたいときには泣いてしまえばいいんだ。涙なんてものは流すためにあるんだから』」
ナギのことばをそのまま使って、私はなおも笑いかける。無理にこらえないで、泣いてしまえ。『泣いたあとには、すっきり笑える』のだから。
頬に添えていた指が濡れた。あたたかい滴に一瞬だけ、胸が痛む。生ぬるい涙はあとからあとから伝い落ちていく。それを、何度も丹念にぬぐいとる。
ずいぶん長い時間のようでいて、それほどでもなかったらしい。小さな格子窓からのぞく星はあまり動いてはいなかった。
赤く腫れかけた目元を最後にひとぬぐいしてやって、私はからだのむきをかえた。座りなおし、手の指をぐっと組む。
「遅いな……」
日はすっかり暮れている。このぶんなら、ナギも私を探しはじめているだろう。せまい街だ。どうあったとしても見つからないわけは無かろう。
──おいて、いかれはしない、よな。
昼間のこと、ひどくはねつけはせず、考えさせてくれとは言ったが、言いようが悪かったかもしれない。不安にかられて、指に力をこめる。もみほぐすように動かす。
ナギなら、助けてくれるはずだ。きっと。
「何が遅いのだ」
ややあって聞かれて、私は「相棒が来るのが遅い」と言うべきかどうか迷った。かならず来るとも言えない助けをふたりで待つなど、くやしいし、さみしい。
少年の目がうながす。しかたなく、私はこたえた。少年はふむと偉そうに腕を組む。それを目にしたら、何か言わなければならない気がして、私は口をひらかずにはいられなくなった。
「隣の部屋にいる男たちは相棒が恥をかかせた相手だ。根に持っているのだと思う」
「恥?」
「酒場で女郎に野暮をはたらいていたのをからかって、店から追いだしたのだ。店のほうも困っていたようで、しきりに感謝された」
「ほう」
短く感嘆してよこして、少年はことばをどう継いだものかと窮したようだった。なにしろ、私がここにつかまったのは逆恨みのとばっちりが原因である。彼など、とばっちりのとばっちり、ようするに三次被害をうけたわけだ。なんとも言いかねてしまうのも、わかる気がする。
私たちは割を食うところまで似ているのか。
ここにはいないナギをほんのすこしだけ恨む。だが、そう時を経ずに思いだし笑いに変わる。私はこぶしを口元にあて、肩をふるわせた。
「私の相棒はひと一倍、格好をつけたがるのだ。いつだって、自分から難事に飛びついていく。今日のことは迷惑千万としか言いようがないが、実際にその場にいあわせると、見栄えのする男だからか、うっかり感動しそうになる」
右手は酒杯を、左手は骨付き肉をつかんだまま、長い足で酔漢をひっかけて転ばせ、いきりたつ相手に酒杯から一本だけ外した人差し指をつきつけ、小気味よく啖呵をきって。
あんなの、ナギでなければ格好がつかない。
「昔からのつきあいなのか?」
私は顎先をすこしだけ動かして否定した。
「半年も経たない。戦争直前に会った」
「それで、よく相棒と言えるな」
反射的にふりむいて、少年の瞳を見つめる。その好奇の視線にも、笑みがこぼれてしまう。
「恩人なんだ」
短く終わらせて、すっと立ちあがる。高い窓をあおぐ。私は背が低い。手が届くものでもない。あきらめて、戸口による。
なるべく音を立てないようにとってをひいてみる。鍵かかんぬきがかかっているらしい。戸をひけるのは指一本ぶんほどで、すぐにつっかえてしまった。
隙間に目をあて、見えないことをさとって、今度は耳を寄せ、静かに外をうかがった。その体勢で少年にささやく。
「相棒が来ても、あなたがでられないうちは外にでないから、安心して。置いていくことは絶対にない」
ひとのけはいがひときわ濃くただよった。少年の言うとおり、複数の人間がむこうの部屋にいるようである。思っていると、不自然に話し声がやんだ。気づかれたか。胸が早鐘を打つ間にも、こっこつこつこつ、音が近づいてくる。
私は靴音の意図をさとって、戸をそっと戻し、急いでそこから離れた。跳ねるように少年のかたわらへもどる。きょとんとしている彼の耳元へくちびるをよせる。
「逃げようとしないで。いまは得物がないから、助けられない」
言い終わると同時だった。しゅ、ことん。木の音がした。どうやら、鍵ではなくかんぬきだ。
はたして、戸口はひらいた。