幕間 - 05 とある少女の不運な一日
追いかけてくる声をふりきるように花柳街を走りぬける。街はすっかり夕暮れに染まり、人出が多くなってきていた。さきほど男たちに追われていたときよりもずっと混みあっていて、走りにくい。
私はさっと路地に入った。湿った生臭いにおいが鼻をつく。ひんやりとしたかすかな風が足先から這いのぼってくる。吐き気をこらえて、私は手で口元を覆った。しゃがみこんで身を隠す。
商人の声は近くまでやってきていた。そのあたりを探している。もうしわけない。口から出ていきそうな気持ちをほこりっぽい外套の裾でおさえて、私は目をつぶった。
声はしばらくうろついていたが、やがて、あきらめたように戻っていった。
薄く目をひらく。けばだった外套の布地が鼻をこすって、くしゃみがでそうになる。思わずのみこんで、不快感に顔をしかめる。元は白い壁だったのだろう。目の前の壁の下のほうは汚らしく黄ばんでいる。雨の滴が壁についた煤を流したらしく、ところどころ黒ずんでいた。
冷えた空気が首筋に手をかけようとしている。身震いがする。私はふらりと立ちあがった。路地から大通りへと戻って、あてどなく中心から下る流れに身をまかせる。
「どうすればいいんだ……?」
宿がなくては、どこでナギと落ちあえばよいのかすらわからない。時間をつぶそうにも、どこにいれば安全なのだろうか。一度逃げてしまった手前、あの商人の部屋で待たせてもらうのも気が引ける。
気づいたころには、場末までたどりついていた。ふりかえれば、すでにあの岐路へと立っている。右手には書店街、左手には花柳街。私はだまされたような気になって、また書店街へと足を踏み入れた。
書店街は暗くなりはじめていた。この街は隣の街とは違う。夜の街ではないせいで、街路に灯火がほとんどないのだ。
そぞろ歩きをしているのを見とがめたのか。老人がひとり、近くの店から出てきた。片眼鏡の背の低い老人だ。いかにも書店に似合う穏やかなふんいきの人物だった。目をむけると、老人はおどろいたように近づいてきた。
「あなた、さっきここで乱闘をした……?」
乱闘というほど働いたのは、あの少年たちだけなのだが。不本意ながら肯定すると、老人は小刻みにうなずき、私がついさきほど通り過ぎてきた路地を指さした。
「あの路地に落とし物があったそうですよ。これくらいの、小さな木筒です」
老人はそう言って、自分の親指を示した。しわの寄った細い指をみつめて、老人の目をのぞきこんで。
私は肝が冷えていくのを感じた。
荷物に、入れたわけではなかったのだ。
──落とした。
「ありがとう、ご老人」
かろうじて礼を言い、私はみたびかけだした。背後でやはり老人も何か言っているようだったが、それどころではなかった。
落としていた。形見を。よりにもよって、こんなところに。
路地にかがみこんで、手で地面を撫でる。砂っぽい感触がざらざらとてのひらを過ぎていく。無灯火のせいで、よく見えないのだ。文字どおり、手探りの状態である。
「シィネ、どこだ。どこにいるっ?」
よびかけて、私は地面に膝をついた。腕をせいいっぱいのばして、手当たり次第に地面を撫でまわす。小石にあたったのだろうか。ぷつりと肌が切れた。ひらいた小さな傷口に砂が入る。でも、シィネを見つけるまで、やめることなど、できない。
泣きたいような心地だった。ナギといっしょにいればよかった。なんで今日に限って!
じゃり。うしろで音がした。私の立てた音ではなかった。砂をふみしめたような。
近づいてくる。通行人だろうか。避けようとして、私は身を起こした。
人影があった。花柳街側からのほのかな灯に照らされて、顔立ちがはっきりする。
少年だ。新緑の目が私を見おろしている。ふしぎと、うれしそうなようすである。
私はわらにもすがる思いでたずねかけた。
「小刀を見なかったっ?」
「木の、血の跡がついた?」
わざとじらすようにたずねかえされる。この少年は小刀を見知っている。私は確信を得て、急いで立ちあがった。少年の傍まで歩みより、じっと彼をみあげる。
少年はおもむろにふところへ手を入れた。何かをとりだしてよこす。つられるようにさしだしたてのひらに、軽く何かがのった。
見なくても、わかる。私はそれを手に包んだ。ざらりとした硬く軽い木の感触。麻紐が指にからむ。胸元に両手を抱きよせたら、不覚にも目がうるんだ。
「すまない、シィネ……!」
まぶたを伏せて、ぐっとこらえる。それから、少年に礼を言った。
「ありがとう」
自然と、ほほえんでいた。目があう。だが、少年のほうがすぐにそらしてしまう。決まり悪そうだった。まさか、礼を言われて照れているのだろうか。なんと、つつましやかなのだろう。あの連れの赤毛とは大違いだ。
「お礼に何かできることがあればよいのだけれど」
「そういうつもりではない。気に病むな」
「では、せめて送らせて。上の街でいいのでしょう?」
否定しない少年を先導して、私は書店街を北上した。いままで歩いたことがない道ではあるが、このままいけば、かならず上の街との関門に行きつく。すこし急いだほうがよいだろう。夜のあいだは閉じてしまう門だ。
「このあたりに住んでいるのか?」
きかれて、私はふりかえった。どうなのだろう。とりあえず、ナギの提案を拒む予定はない。
「住む、つもり。まだ宿暮らしだけど、明日には住むところが決まると思う」
「そう、か」
彼の話しかたが昔の自分に似ていることに勘づいて、私は密かに口元へこぶしをあてた。肩がふるえるのはおさえたが、黙っていられずについもらしてしまう。
「あなた、すごく貴族らしいしゃべりかた」
「おかしいか?」
「尊大に見えるよ。せっかくきれいなのに、もったいない」
「『きれい』……」
少年は意外そうに私のことばをくりかえす。自分ではわかっていないのか。それは、よくない。ナギのように利用しろとは言わないが、うつくしさを自覚していない者の言動というものは、概してたちが悪い。
私は勢い込んで言い添えた。
「すごくきれいだ。特に、その瞳! シラのうつくしい緑の色」
心底、うつくしいと思う。暗闇で見ると、ゲバルの新緑というより、風の吹き抜ける草原の色だ。陽の光を浴びて、一面に白く波がたつ。私が、私たちが守り、そして、アダル兵とともに踏みにじってきた、あの。
私は視線を遠くへ投げた。私自身の瞳は焦げ茶色をしている。髪も同色だ。日光にあたれば、ほんのすこしは色もやわらぐ。だが、少年の瞳や髪のような明るい色にはどうやっても見えない。髪染め粉では、暗い色にはできても、明るくはできない。うらやむだけムダとは知っているのだ。
だんだんと門がちかづいているのだろう。街灯が増えてきた。名残惜しくて、私は彼の瞳をみつめる。いささか、失礼だったのか。少年はやはり目線をむこうへずらした。
「もう二、三年も経てば、色がうすくなる。父も祖父も、兄もみなそうだったらしい」
うらやましい。もっとうすくなるなんて。どんな色になるのだろう。若草色? それとも青みを帯びるのだろうか。
いまのままでも、じゅうぶんすてきなのに。そう思って、私はふと、彼の言いようがおかしいことに気がついた。
「嫌なのか? その色は」
「いや──す、好きだが」
少年が変にどもる。だが、私はその答えに満足して、深くうなずいて返した。
「私も好きだ」
「……!」
少年はなぜか押し黙ってしまう。場がもたなくて、私は目だけをうわむかせた。前髪が長くたれている。それを指でつまんで、軽くひねった。暗く濃い色だ。このくらいの灯りでは、黒と見まがう。
ぼうっとしていると、声がかかる。
「その布は何のために」
布。ああ、これか。
私は自分でも存在を忘れていた頭の布を手で触った。帽子がわりに頭に巻いている幅広の白い布のことである。
「ほこり避け。下の街区は道がほこりっぽいんだ。私のように髪の色が濃いと、こういうときに困る」
「白くなる?」
「そう。慣れれば気にならないのだろうけれど、まだ、ここに来て数日だから」
言ってから、自分の身なりを見下ろして、肩をすくめた。
「こんなに汚れていては、大差ないな」
さきほど地面にしゃがんだときについたのだろう。外套には土汚れが目立つ。てのひらで外套の裾をはたくと、夜目にもはっきりと白いほこりがたった。それを空気に溶かそうと手でかきやって、そのさきにこちらをむいた足をみた。
路地に、ひとが立っている。何人も。
たちどまり、目をあげる。影になっていて相手の相貌はよく見えない。だが、目が慣れるにつれて、視線がかちあっていたことを悟った。
私は、なんて莫迦なのだろう。どうしてたちどまったのか。これでは、先刻と同じ展開ではないか。
さっきと確実に違うのは、こちらにはすでにかばうべき人物がいることだった。いけない。逃げられない。
太い腕が伸びてくる。私が動いては、少年が危ない。ろくに抵抗できずに、私は二の腕をわしづかまれていた。路地へ引きずりこまれ、「逃げろ」と叫ぼうとして、それも無理だとわかる。
大きな手で口をふさがれていた。少年はまだ危機を理解していないようだ。無防備に路地をのぞきこんでいる。とつぜん隣から消えた私をさがしているのだ。
ダメだ、来るな!
よほど叫びたかった。首をふって、声をだそうともがく。強烈が痛みと衝撃が走ったのは、その直後のことだった。