幕間 - 03 とある少女の不運な一日
きっかけが何であったのか、いまとなっては思いだせない。だが、ひとりが足踏みをしたとか、衣擦れの音がしたとか、些細なことであったのだと思う。
私の傍を通って、さきほどぶつかった少年が後方の男どもへ飛びかかっていく。その連れも、私と右隣とのあいだに入って、まるでこちらをかばうようなそぶりをみせた。
正直なところ、私は困った。ケガなどさせて、話を大きくしてもらっては後々にさしつかえる。この男らがもし花柳街の上役につてのあるならず者であったら、どうしてくれるつもりだろうか。この先、ここに住めないではないか。
男の腹から短剣を離し、悔しまぎれに頭をひったたく。もう、どうにでもなれという気分になっていた。男が気絶して地面に崩れたのと、他の追っ手が少年らの手によって片付いたのはほぼ同時だった。
少年が男を殴り倒した私を意外そうに見遣る。連れの赤毛はこきこきと肩をならして、良い運動した! とでも言いだしそうなありさまだ。
私は短剣を鞘にしまい、めまいをこらえながら、目の前のお二方にたずねかけた。
「ひとつ、お訊きしたいのですが。あなたがたは何をなさっているんでしょうか」
語尾がいらだちにはねあがる。思った以上に迷惑そうな口調になってしまった。だが、程度の差はあれ、事実は事実だ。
彼らの行為は迷惑だった。
「助けてほしいと頼んだ憶えはありません」
地面に伏せた連中をみやる。ほとんどの者が意識をうしなっている。派手にやってくれたものである。
この男たちは王都に入った晩にナギにのされた連中だ。まさか三日後まで根にもたれ、のした本人ではなく連れの私が襲われるとはナギも思うまい。
これはこのあとも禍根を残すだろうと思ってうんざりしていると、赤毛の連れが私にむかってわめくように言った。
「目の前で庶民の子どもが襲われるのを黙ってみていることなんかできるか! 助けられたと思うのなら、礼ぐらいすなおに言えばよいだろう」
私は赤毛を真正面から見据えた。そばかすの浮いた顔立ちは整ってはいるが、十人並みである。しかし、その瞳の青さや肌の白さは見過ごせない。あの少年の連れで、この口調だ。まちがいない。ふたりとも『血統書つき』のシラ人。おそらく貴族だろう。
王都の貴族に逆らうのは莫迦のすることだ。私は密かにふぅっと息を吐いた。あきらめて、深々と頭をさげる。
「『ありがとうございます、おかげさまで助かりました』」
もちろんのことながら、厭味である。お辞儀をした拍子に、頭に被っていた布がずり落ちそうになる。ついと手で押さえて、しばらくしてからだを起こすと、赤毛の貴族令息の標的は私から少年へと移っていた。
「おい、なんとも思わないのか?」
たずねかけられて、少年は私にむきなおる。彼の新緑の瞳が無遠慮に私をなぞる。ここまでぶしつけに見られるのは、性に合わないのだが。見つめあうかたちになって、私はわずかに首をかしげてみせた。
少年の目が、私の左目のあたりを注視する。包帯で隠れているはずなのに、その裏を見透かされているような気がして、私は目をそらしたくなった。
だが、争いごとというものは、目をそらしたとたんに勝ち負けがつく。そらした者が負ける。意地になって、私は少年を見あげ続けた。
「おい……?」
赤毛がいぶかしそうに少年に声をかける。少年は私を目の端に映したまま、小さく首をふる。
勝ったか。私は少年が口をひらかないのを見て、男どものようすをたしかめた。まだ、しばらくはのびていてくれそうである。
「あの者たちが起きないうちにここから離れたほうがいい」
私は言って、あたりの景色をたしかめる。少年らの背のむこうに路地が見えた。方向から考えて、花柳街だろう。もとの道を戻るより、こちらを行ったほうが近道だ。
軽く会釈して彼らの脇を通りぬけようとした、まさにそのときだった。
地面が下り坂になった。違う。重心がうしろへずれていた。上半身がひっぱられ、かしいでいた。手だ。手首をとられている。
「わ……ぁっ?」
まぬけた声をあげて、私は尻餅をついていた。頭から倒れなかっただけ、まだましであろうか。
「ったぁ」
腰を打った。腕が痛い。この角度でひっぱられては、肩が外れてしまう。手首をつかんでいるのは、例の美人さんだ。うらみをこめた私の視線にも動じず、少年はいっこうに手を離してくれない。
これでは、起きあがれないではないかっ。
「離していただけませんか」
慇懃無礼を承知できつく言うと、やっと握りしめられた手が開く。すぐさま腕を我が身に引きよせると、肩口の骨がこきりと鳴った。
あなたはいったい何がしたいんだ、何が!
怒りをおさえこむのに必死になっていたら、声が聞こえた。
「おーい、こっちこっちっ」
目を転じると、路地の先から男が叫んでいた。ナギよりも二、三歳年下に見える。口ひげを生やしてはいるが、二十代になったばかりだろう。
ああ、あの太っ腹な商人だ。昨日、夕食のときに甘菓子をおごってくれた。
口元に手を当てるようにして、商人はなおも大声で呼びかけてくる。
「積荷を降ろすの手伝ってくれよ! 今晩の宿代だしてやるからさー!」
「わかった、いま行く!」
こちらも大声で返して身を起こす。用はなかったのかと少年に目でたずねるが、答えもない。あきれはてて、何も言わずに商人のもとへ走った。