1 - 20 紺碧の光
風が通りぬける音がした。指先をかすめて、空気が流れていく。まぶたのむこうにまぶしさを感じて、少女は両目をあけた。
真っ白な光があたりを埋めつくしていた。昼の光だと、少女は判断した。視界がおぼろげながらもはっきりとしてくる。
自分はどうやら寝台に横たわっているらしい。ああ、そういえば、父上の前で倒れたのだったと、少女は思いだした。
まばたきを繰りかえす。寝台の脇に人影が見えた。寝台と窓のあいだに姿勢もくずさずに立っている。
影のすぐうしろの窓がひらいていて、うすい白紗でできた帳が妙にゆったりとした動きで風にはためいていた。
見慣れた明るい窓辺。窓の外からは強く白い光が差し込んでいる。外の風景はここからでは見えない。寝台が低すぎるのだったか。逆光のせいで、影の顔は見えなかった。
「ミカル?」
寝台のうえに身をおこして話しかけると、人影はしずしずと歩みよってきた。手に盆のようなものをたずさえている。影は少女のすぐ横で腰をかがめる。表情はよく見えないが、ほほえんでいるようだった。
「どうぞ、召しあがってください」
きっと、盆に載っているのは気付けだろう。いつも少女が倒れたり気分を悪くしたりするたびに、このミカルは果実酒をたらした茶をさしだすのだから。
少女は抵抗なくうけとり、器を顔に近づける。湯気とともにのぼってくると思われた馥郁とした茶の香りはなぜか、まったくしない。
香りがない?
茶葉を替えたのか。だが、まったく香りのない茶などあるものなのだろうか。果実酒にだって甘い香気があるはずだが。
いぶかしんで、少女はミカルらしき影を見上げた。ずいぶん窓辺から離れたというのに、その表情はまだ逆光のなかにいるかのように暗く、うかがい知れない。不安に苛まれて、少女が口をひらこうとするのを、影はさえぎる。
「どうなさったんです、──さま」
「えっ?」
なんと呼ばれたのか聞きとれずにたずねかえすと、ミカルはもう一度、はっきりと発音した。
「──さま、どうぞお茶を。気分が落ち着かれますよ」
声の調子が強くなったのに音がかき乱されて、肝心のところがきこえない。動悸のしてくる胸をおさえて、少女は器の縁にくちびるをつけた。
匂いのしない茶が下くちびるにふれたとたんに、あたかも液体がすりかわってしまったかのようにどろりとし、真っ赤な色になる。吐き気のするような生臭い鉄の臭いが鼻をつく。嗅いだことのある臭いだ。
これは、血の臭い。
なぜ、自分はこれが血の臭気だとわかるのだろう。混乱して、寝台のうえに茶器を放りだす。影を睨みつけて、少女は問いただすような語調でいった。
「もう一度、私の名を呼んでごらん」
「……。」
影は動かない。少女は寝台から降りて、ミカルの肩をつかんだ。これだけ近寄っても顔が判然としない。この者は自分の知るミカルではないのか。
少女は影をつれたまま、窓辺にむかい、自分の背に外の光をうけた。そして、影をかえりみた。
「ミカル」
やはり、影はミカルだった。やわらかにほほえんでいた。自分を見つめる主人に、彼女の口が音を形作る。
「ルキウス」
それは、期待したミカルの声ではなかった。
誰か他の者の声が被さるようにきこえる。白く見えていた世界が暗く、黒にかげっていく。
「待て、ミカル!」
ゆるゆると腰を曲げて、ミカルは少女にむかって礼をした。その頭があがりきる前に、その姿もなじんだ自分の部屋も寝台も窓辺も視界から消えていた。そして、少女も窓に吸いこまれるようにして気を失った。
気づくと、うす暗い幕屋のなかだった。
少女はぼんやりと宙を見た。
「……ルキウス?」
呼ばれて、そちらをみやると、青年がかたわらにいた。白い髪がところどころ瞳と同じ色に染まっている。その凝り固まった血を落としてやろうと右手をのばすと、てのひらをつかまれた。不自然にほほえんで、彼はいった。
「莫迦か、死ぬなっていっただろう?」
「死んではいません」
身体をおこすと、軽い眩暈がした。こめかみにやった左手が布にふれる。左目のあたりが何かに覆われていた。黙った少女に、青年は説明した。
「左目はあきらめろといわれた。傷も残るかもしれないんだと」
「そうですか」
痛み止めが効いているのか、まるで痛覚がない。実感がわかずにこたえると、あきれられてしまった。
「そうですかじゃないだろ、女なのに」
少女はそのことばにすこし驚いたが、反発する気は特におきない。周囲をみまわした。幕屋のなかには自分たちの他に誰もいない。
「みなはまだ戦場に?」
「ああ、知らないんだったか」
青年はもったいぶるようにそこでことばを切って、立ちあがった。少女は枕元に手をつこうとしてよろけた。体勢がととのえられなかったのもあるが、何かを踏んだせいだった。
「あ──」
紺碧の石だった。ブローチの台座から剥がれて、ふたつに割れていた。金属の台座自体も、すり鉢状にひしゃげてしまっている。この台座があのとき、槍先を防いだものらしい。
かけらをすべててのひらにつかみとって、少女は目を伏せた。まとめて懐におさめる。
「待て待て、お嬢さん。いま運んでやるから」
少女が自分も立ちあがろうとするのを制して、青年が横から抱きあげる。腕にかかえられながら、少女はあらためて疑問を口にした。
「なぜ私の名をご存知なのです」
「長剣に刻んであったから」
「剣?」
首をかしげる少女を片手で支え、青年は腰から外した長剣を少女の膝にひょいと載せてよこした。
「柄のところを見てみな」
いわれて目を移すが、布に隠れてわからない。少女はくるくるとその細い布を巻きとりながら剥がした。そして、息をもらした。
少女のこぶし三つぶんほどの長さがある握りに、それははっきりと彫られていた。
『最愛なる娘ルキウスへ』
刻まれた文字を指でなぞる。飾り紐に隠されていた柄にこのような文字があったことなど、少女は知らなかった。
「返してやろうか?」
泣きそうになりながら笑って、少女は首を横に振った。
「じゅうぶんです」
父から贈られた品であったこともすっかり忘れて彼に譲ったのだ。いまさら取りかえすのもおかしな話である。それに、これだけわかれば、ほんとうにじゅうぶんだった。
「ルキウスなら、愛称はルカだったな」
「は、い?」
鼻声になりかけのぼやけた声で返事をすると、青年はさらに続ける。
「『光』、か……。『お嬢さん』はやめた。ルカ」
ひとりごとめいた青年のせりふに、少女は瞠目した。青年は気にもとめない。平然と、新たな名で少女を呼ばわる。
「ルカ」
「……はい」
しがらみから、解き放たれた気がした。
ひっそりと自分の名を噛みしめているルカを抱いて、青年はそこにむかって歩んでいた。ルカが背中でそれを感じているのを知りながら、ささやいてやる。
「きこえるか?」
きこえている。
「戦争は終わったんだ」
青年の声に押されて、前に視線をめぐらせる。
騒ぐ人々が見える。踊る人がうたう人が、笑う人が見える。戦のはじまる前日のように宴が催されているのだ。
ルカたちを認めて、同じ隊の少年らがよってきた。心配そうに自分に口々に声をかける彼らに笑いかけると、青年が地面に降ろしてくれた。
仲間たちのなかに腕を引かれて連れていかれる。途中でふりかえった青年も、穏やかな表情をうかべていた。許容するような微笑に安心して、ルカは少年たちの輪に加わった。