1 - 16 夜更けの子守歌
気負っていたのがなんだか莫迦らしく感じる。少女は赤くこすれたみずからの指を見た。
この半日というもの、分隊長ではなく、もっと上方の指示をうけて、大勢で弓を射た。誰の矢がどこにむかい、相手がどの矢に斃れたのかは判然としなかった。自分の矢を目で追うこともままならず、ただその目に標的をとらえて、矢を放った。
もしかしたら、いまあちらで地に伏した敵兵は自分が撃った矢で傷を負ったかもしれない。
戦場で、『もしかしたら』などという曖昧な語で命のやりとりをするとは、思いもよらないことだった。少女はいささか腫れてしまった人さし指と親指をすりあわせてから、腕を脇におろした。
事実をことばでぼかすことで、あたりの平静は保たれている。
河越えをはたしてまもなかったからなのか、アダル兵たちに恐れていたほどの力強さはなかった。それよりも大きく影響していたのは、先にシラの兵士が陣地を強固に作りあげていたことであろう。
敵方の矢をさけるために楯に似た巨大な板を地面に打ちたて、また、馬の侵入を阻む柵を必要な場所にめぐらせてあった。
戦闘のはじめに双方が必要とするのは同じことである。陣をととのえることだ。つまり、すでにそれをそなえてあるシラの立場で考えるならば、あちらに陣をつくらせないことが第一である。
攻防は飛び道具からはじまった。矢の応酬である。雹のように降りそそぎ、身を穿つ矢をくぐりぬけて、アダル兵はすこしではあるが、防御板を地に据えだす。それをさまたげるためにさらに、シラの前衛の弓兵ががんばった。
我慢である。ここでもし、シラの槍兵や剣士らが動いては、穴が空く。せっかくの有利な陣形がくずれる。シラ兵は矢を絶やさぬように射つづけた。途絶えたが最後、アダル兵は突撃をしかけてくることだろう。
退却命令をだしたのは、思ったとおり、東アダル側だった。ほんの一日でゲバル山脈付近が落ちるわけがない。日数をかけてでも確実にシラの力を削り、攻略するつもりなのだろう。
山道にいたせいで、少女にはあまりよくは見えなかったが、押しよせて来ていた波がさっと引いたのはわかった。日が真南にあがって、西方にだいぶ傾いたころあいだった。
シラ側に深追いする道理はない。あちらの動きが見せかけではないのを確認するや、こちらも一度、兵を休めた。
分隊長の指示に従い、アシュドド砦前の道のうえで、少女らをふくむ分隊は腰をおろした。
ノンも多少、つかれたようすであるが、話ができないほどではない。そっと目を泳がせた。
「お嬢さんって、生まれはどこなの」
「南部だ。サフィラに程近い地域だな」
「何領なの」
少女は失笑した。肩をすくめてみせる。
「領地がわかれば、私の名もわかってしまうんだが」
「あ、そうか」
となりにいたノンも、少女がそう返したことで、ようやく思いいたったらしい。と、同時に怪訝な顔をする。
「けっこう経つのに、通り名が決まってないんだね、そういえば」
彼らの隊には他に女性がいないので、『お嬢さん』というだけで、少女を表すことができるのだ。そのせいで、特に名をつけなくとも日を過ごせていた。
「兄貴みたいに髪の色を名にするのは無理だね。表情に特徴があるわけでもないし」
黙りこむノンのかたわらで、少女ははじめて通り名の意味することに思いいたった。
ブランは古語で『白』を意味する。何のひねりもなく彼の髪の色だ。ダビドゥムは『司令官』か『傭兵隊長』。こちらはいまも普通名詞として用いられることすらある。
隊のその他の面々の通り名をふりかえってみれば、どれも役割や容姿からつけられたと思われる名ばかりである。
ともに過ごさねば、性格や癖などわかりようもないことだ。だから、『あとで自然に呼び名がつく』のか。
考えている少女に気兼ねしていたノンは、思いきって質問を口にした。
「お嬢さんは、男として育ったの?」
「二十日ほど前までは、跡継ぎだといわれていた」
「それなのに、なぜ」
流れで質問したノンに、少女はまなざしを返した。
「いろいろあった、では、いけないか?」
言いかえない響きがあった。まっすぐに見られては、なおのことだ。
ノンはことばを濁して、話題を終わらせた。彼のとまどいに気づいて、少女はぽんぽんとその肩をたたいた。
「ここにいる者すべての志がひとつではないと、私もやっとわかったところだ。ノンが戦うのは学費のためだし、私は……そうだな、己を、試しに来た。それでよいのだろう。結果として、国が保たれればよい」
「お嬢さん、それはあんまりにも悟りすぎだと思うよ」
ノンが種無し麺麭を丸のまま、かじりながら笑った。少女も真似して、鞄から包みを取りだす。
ここにとどまるのは最短で三日間だ。最長ではいつまでになるかわからない。そのため、保存食として堅焼きの麦麺麭や少量の乾肉と水を皮袋にいっぱい持たされていた。
正規兵には補給があるだろうが、傭兵にはない。すべて自費でまかなわねばならない。そうした知識すら持たない少年少女らに、年長者が用意させた品だった。
麺麭を一口大にちぎり、口に運ぶ。特に何ということもないそのようなしぐさに育ちがあらわれて、戦場の傭兵のなかにおかれても目立っている。
少女自身は周囲の目にもなれきっている。気にせずに淡々と食事を進めていた。すっとした線を持つその指はここ数日の水仕事や弓のあつかいで傷つき、目に見えて荒れはじめている。
痛々しいと、ノンは感じた。
他の令嬢と同じように歌舞音曲をたしなんで、平和に暮らすことをなぜ選ばないのだろう。庶民の娘が憧憬する生活を、望めば手に入れられたのではないか。
「男として育てられたことに、不満はない?」
「あった。だが、傭兵になるときに貴族であることも女であることも捨てた。そのことに甘えるつもりは毛頭ない」
皮袋を傾けて水を一口飲みくだし、少女は彼と視線をあわせて、目元をほころばせる。
「二度と、あの名を名乗る気もない」
笑っても、目線の力だけは失せなかった。
保存食は三日目で底をついた。交代がその日であったのは、彼らにとって実に幸いなことだった。
王都方面に山道をくだり、平地にむかう。幕屋近くにたどりついた少女は、何の気なしにうしろをふりかえってみた。そうして、目の前にとうとつにあらわれたいくつかの人影に立ちすくんだ。
槍を持ったその姿で、ほんのいままで戦いにでていた者たちだということはすぐにわかった。彼らの外套は雨にでも打たれたように黒く濡れ、重たそうだ。顔も、拭った跡はあるが、赤黒く汚れている。
ひとりがこちらをむいた。まるまるとした瞳で穏やかに見られて、少女はそれが誰なのかを知った。
クアだ。
おかえりなさいといおうとして、ことばがでてこなかった。ひどい状態だった。
何もいなくなった少女のかわりに、ノンがすこしふるえる声をしぼりだした。
「おかえり、クア兄」
「ただいま」
クアは平然とこたえてから、幕屋のなかに声をかけて槍をおいた。替えに用意してあった服を持ちだしてきて、どこかにむかった。
彼とすれちがうように、またひとり帰ってきた。クアとさして変わらぬありさまである。背の高いところから察するに、これはシィネか。
でかける前の明るい表情を、無表情が覆っていた。眼前にたたずむ少女らに気づきもせずに通りすぎようとする。
「シィネ、どこに行くのだ」
やっとの思いで少女が声をかける。シィネの肩がひどくびくついた。彼はこちらをかえりみて、ほっとするでもなく無愛想に脇を過ぎ、幕屋にたどりついた。
自分たちの平安が彼らによって護られていたのだと、少女は理解した。
「これが、戦争なんだ」
となりで呆然とつぶやかれたことばに、もはやうなずく気もおきなかった。
その夜はひさしぶりに屋根のあるところで横になった。
少女は昼間、目にした光景を思って寝られずに息を潜めていた。すぐとなりには、少女を他から隔てるように青年が寝ている。彼には、自分がおきているのは悟られているだろう。
そう思いながら、まぶただけを閉じていた。
音がよってきていた。地面が振動している。足音らしい。たったひとり、ひとがこちらに来ている。
何だろうと考えるひまもなく、すぐ近くでそれはとまった。
「兄貴」
音の主はシィネだった。
「どうした」
青年は低く声をだした。それから、すこしからだを少女のほうにずらして場所を空け、シィネを座らせた。
シィネは一拍おいて、口を切った。
「おれ、むいてないのかな」
彼らの会話をきくまいとして、眠ろう眠ろうと努力したが、逆に目が冴えてしまい、少女は惑った。シィネが何について話しているのか、嫌でもわかってしまう。
シィネの声は夜闇の静けさのなかでもきれぎれだった。いつも青年に対しては徹底しているていねいなことばづかいすら、できていなかった。
「こわいんだ。帰りたいよ」
「最初からむいている奴なんか、いない」
青年はひとこといって、それ以上の弱音をさえぎった。いえばいっただけ、シィネは自分のことばに囚われてしまう。
「こわいときは、どうしてるんだ」
「神さまに祈ってた」
沈黙がひびく。少女は薄目をひらいた。子どものような口ぶりでこたえるシィネに、青年は寝転がるようにとしぐさで勧めていた。弟分は逆らわなかった。すなおに青年の近くに身を横たえる。それを見守って、寄り添いながら、青年はうたうように声をだした。
「いいか、ひとつ教えてやる。ただし、これはこわいものを乗りこえる方法じゃあない。生きのこる方法だ」
縮こまるシィネの頭を、母親が我が子にするように撫でる。そして、言い聞かせた。
「神に祈るのはやめたほうがいい。神は護ってくれない。ただ、見ているだけだ。思い描くのはいちばん大切なものにしておけ。それをもう一度見たいと、心底見たいと思ったら、生きられる。ここへまた、帰ってこられる」
「じゃあ、母さんだ」
シィネは小さくつぶやいた。そうだなと返して、青年は不安そうにゆれる彼の目をてのひらで伏せてやる。
「祈りたければ、俺に祈ればいい。神よりはご利益があるさ」
「あはは、そうっすね」
そのことばで、会話は途切れた。
ふたたび、静寂が一面に広まる。
自分より年齢がうえの少年が母親のことを口にしても、笑うことなどできなかった。彼が槍兵として前にでるきっかけをつくったのは他ならぬ自分である。
少女ははじめて、戦場にいることを後悔した。