1 - 15 守るべきもの
細かい砂のような霧が朝の平原を覆い隠しかけていた。外套がないと、肌寒さを感じそうな陽気だ。すでに季節は晩秋から初冬へと移った。このように深い霧がかかるのも、あと数日のことだろう。
ほうっと息を吐いてみた。かろうじて白くは染まらないものの、鼻やひらいたくちびるが冷えてくる。指先も冷たかった。
ぬくもりを失いかける手を握りしめるたびに、自分がシラの最北にいることを思い起こす。そうして、目をあげればたしかにそこには、南北を分かつゲバル山が長々と横たわっているのだった。
輜重隊をつれた移動は思ったよりも速かった。なれた者が多いのか、足並みはそれほど乱れなかった。それでも、少女が王都までに歩いたような速度ではない。ゲバル山脈のふもとへと到着したときには、すでに閲兵後五日ほど過ぎていた。
物思いにふけりながら、少女はこまめに手を動かす。朝餉の支度を手伝って、野菜の皮を剥いているのだが、その手つきもかなり熟練してきた。あぶなっかしいようすはほとんどない。
その脇で、ノンが下ごしらえの手をとめて、興奮した口調で話しかけてきた。
「昨日はなかなか寝つけなかったよ。緊張で、ほら、いまも手がふるえてる!」
片手に包丁を持ったまま、見てくれとばかりに、ノンは両のてのひらを突きつける。ぶんと振りまわされた刃先をさけ、少女はすこし身を引いた。いつになく不機嫌をあらわにして注意する。
「あぶないだろう、やめないか」
「あ、ごめん。でも、不安じゃない? 僕、うまく弓を引けるかなぁ」
際限なしにしゃべりつづけようとするノンに、少女は口の片端をあげつつ、淡々とことばを返した。
「さも年長ぶっていたくせに、いまさら弓の腕の心配か。同じ班に配属された身としては、いつ君に射られるかと不安になるな」
冷ややかな口吻だった。ノンは浮かれた表情をすっと硬くして、今一度、ごめんと謝る。少女は彼の謝罪にこたえもせず、手元を動かしつづけていた。
はたでふたりを見守っていたクアが、少女に近寄った。少女の手から、無言で野菜と包丁を抜きとる。少女は彼の介入に目をあげた。
「何をするのだ」
「親父がよくいう。『食事はたのしい。なぜか。たのしんでつくるから』」
クアの顔には笑みがほのかにうかんでいた。
「たのしくつくれないなら、オレがやる。幕屋に帰って、イサクをよこしてくれ」
年長の少年の名をだされて、少女は押し黙った。ノンと少女は年下でいちばんの新入りだから、こうした雑務をまかされているのだ。ここで彼らに仕事を渡すわけにはいかない。
クアの丸い目が見透かすように自分を見ているのに気づいて、少女は目をそらした。
「悪かった。すこし、気が立っていて」
誰にともなくいい、クアから道具を取りかえす。彼は仲裁するように、軽くノンの肩をたたいた。
「お嬢さんも戦地ははじめてだ。戦争の話はよしたほうがいい。ほら、手がお留守だ」
うなずいたノンが働きはじめるのを見届け、クアは指でちょいちょいと少女を呼んだ。よってきた少女の耳元に手をそえ、小さくささやいた。
「隊長のいうことは、気にしなくていい。兄貴はもともと世話好きなお人柄だから」
かなりぼかして語っているが、クアはすべてを心得ているらしい。少女は面食らいながらも言いかえした。
「それでも、頼りすぎるのはよくないだろう。……ところで誰からきいたのだ」
「兄貴。急に冷たくなったって。さみしいのは苦手だから、こたえてた」
「何だ、シルファのような御仁だな」
少女は屋敷にいた騎鳥を思いだして、あきれたように腕を組み、大きく息をついた。なんだか、意外に言い得て妙な気がする。
口の端に笑みをもらしていたところに、ノンが切りおえた芋を持ってきた。彼らが歓談している風であるのに目をとめ、不満そうにくちびるをとんがらせる。
「クア兄ってば、えこひいきだ。僕なんかずっと芋を相手にしてたのに!」
「──手伝おう」
「あたりまえだよ!」
少女がクアから離れてそういうと、ノンがすかさず両断する。さきほどの件などなかったかのように騒いで、調理にとりかかる彼らを監督しつつ、クアは「シルファね」と、ぼそりとつぶやいた。それから、遅々として進まない支度を手伝って、みずからも猛然と働きだす。
そうしてクアの助力を得たお蔭か、霧が晴れるころには芳しい匂いがただよいはじめていた。
小さな傭兵隊ゆえに、この隊の者は一団として配置されない。諸所の部隊に分けられることとなった。
シィネとクアたち数名は近衛兵の大隊長率いる槍部隊に入って、前線の右翼、カンド伯の下馬騎兵の左につく。ダビドゥムと青年は左翼におかれる近衛の下馬騎兵とともに行動する。他の少年はそれぞれのどちらかの脇に配される弓兵だ。
だが、少女とノンだけは、前方配置ではなかった。
そのことに驚いたのは本人たちだけで、年長者、特に青年とダビドゥムはそ知らぬ顔で彼らの質問をやり過ごした。
青年が旧知の仲だった兵站官を通して、手ごころをくわえたのだろうと、クアはいうが、一傭兵にそのような大それたことができるのかはわからない。すでに決められたことなので、少女はしぶしぶ自分を納得させた。
兵がおかれるのはゲバル山脈を縦断したあとに見えてくる扇状地近辺だ。山道からの道筋は長くゆるやかな傾斜を描く。その坂をくだりきったところに広がる地帯は、山脈以南とはうってかわって草もまばらである。茶色く露出した野原を進んだ先には東アダル帝国との国境線であるイェオール河が長々と走っている。
河幅は目で感じるよりも、ずっと広い。豪腕な者や鍛錬を積んだ者ならば、むこう岸の標的を矢で射ることもできようが、ふつうの者にとって、生半可な努力ではどうしようもない距離である。第一、届くだけでは意味がない。
水深はといえば、中央部のみ、すこし深い場所があり、他は馬で渡れる程度のものだ。たとえ、渡し舟から転げ落ちたところで、めったに溺れないだろう。流れも瀞を思わせるほどにゆるやかであった。
そのイェオール河を渡って敵軍が攻め入ってくるのを、シラ側は前提としている。迎え撃つ陣形なのである。
まず、本陣は山脈内部に設営するのが妥当だ。今回においては、アシュドド砦が絶好の位置にある。そこから下り坂にかけて、後衛として弓兵を多く配する。扇状地と荒れ野との境に前衛を展開し、両翼の側面の一辺をゲバル山脈に接して護らせる。そうなれば、アダル側からの突破口は一箇所しかない。両翼のあいだである。
運悪く前衛を突破され、奥に進まれようとも、せまい山道のうえから後衛が矢を浴びせることができるという寸法だ。
なるほど、前衛が強ければ、少女らのでる幕はないが、後衛も絶対的な存在意義があった。おおかた、兵数の少ない自軍に河を渡らせて疲弊させるよりは、待ち受けるほうがいいと考えたのだ。もっともな話である。
攻める側と守る側が同数だと、守る側は三倍から四倍の力を持つ。そもそもシラとアダルの兵数にはひらきがある。圧倒的にアダルのほうが多い。待ち構えてやっと同等に戦えるというものだ。
靴紐をしきりに結びなおしていた少女は、やっと目をあげた。準備はすでにできていた。
厚い牛皮の胴着を身につけ、目の粗い上着を二枚重ねた。そのうえから、自前の外套をはおった。手にはシィネから譲られた弓と矢筒をたずさえている。少女はそのことをひとつひとつたしかめ、最後に、腰に手をやった。
青年からもらった短剣は、外から見れば外套の陰に隠れる。だが、常にその重みで少女に自身の存在を知らせていた。使ってはいけないということばを思いだしながら、少女はその柄を指でなぞり、手を離した。
思えば、遠くに来たものである。同じ軍にいるかもしれない仇とともに、戦場にでていくとは、以前なら考えもしない結論だ。自分でも、自分のことがわからない。
わかるのは──
少女は幕屋をあとにした。目の前にはゲバル山脈がその高さを誇るように横たわっている。自然の要塞として、シラ王国を守る山脈にむかって、足を踏みだす。先を行くダビドゥムらのうしろを追って、一歩ずつ着実に近づいていく。
目で追っていた足が立ちどまり、きびすを返す。ここからは所属ごとに別れていかねばならない。少女はここで部隊に合流し、彼はさらに先に行くのだ。
青年がノンの肩をぱんっとたたいた。ノンも緊張してはいるが、それにこたえる。
青年は先日のかげりも見せず、少女の肩にも手をのばした。はたかれる軽い衝撃に笑って、同じようにたたきかえす。
「じゃあ、またあとで」
彼は明るい調子でいうと、去り際にいつもどおりわしゃわしゃと少女の髪を手でかきまわして、むこうに歩いていった。これから戦いにいくひとのうしろすがたにはまるで見えない。散歩にでもでかけるような風情であった。
不思議な心持ちで青年の背をみやっている少女の外套の裾を、ノンが引いた。
「僕らも行こうよ、お嬢さん」
「ああ、そうだな」
いわれて、弓兵の集まるほうへ歩む。外套のうえから、紺碧のブローチを握りしめる。
わかるのは、いまの自分には仲間がいるということだけだ。あのときのミカルのように、自分を護ってくれるひとがいる。
彼らを護るためなら、持ち得る手はすべて尽くそうと、こころに決めていた。今度はただ護られるのではなく、護りたいと、強く思った。