第四章 移ろい 3
長いです。
梅雨の中休みに入った東京は、久々の天気でいつもに比べて活気づいている。侑希のことを待っている間、目の前を通り過ぎていく人の人間観察をしていた裕貴はそんな雰囲気を感じ取っていた。
最近、侑希が会うときは良くない天気が多かった。裕貴がそれを気にしたことはほとんどなかったが、侑希は晴れた日が好きなようだったため裕貴もこの日の天気は歓迎していた。
今日は、裕貴が侑希の後を追って群馬県まで行ったあの日以来の二人の時間である。裕貴はここまで来る間も意味のないことを考え続けていたため、早く侑希に会いたいと考えていた。侑希の姿を見た方が、混乱している考えがまとまってくれると信じていたのだ。
侑希がやって来たのは、裕貴が待ち合わせの場所に到着してから少し時間が経ったときだった。
「待ったかな」
裕貴が何気なく高いビルを見渡していると隣から声をかけられる。確認してみると、いつもと変わった様子のない侑希がすぐ横に立っていた。
この日の侑希は、いつもと違いスカートを穿いている。裕貴は、自然と目がそちらへ向かってしまうことに気がついて必死にそれを自制した。
「全然」
裕貴は侑希を目の前にして緊張する。心の中には、侑希のことを追ってしまった罪悪感が残っている。裕貴はそのことを気にして、侑希のことが直視できなかった。しかし、侑希はそんな裕貴の事情を全く知らない。侑希はいつもと違う裕貴の様子を感じ取って首を傾げた。
「……何かあった?」
漠然とした質問を裕貴に投げかけてくる。裕貴はそれに動揺しないよう、すぐに言葉を返した。
「何もないよ。天気が良いなって思っただけ」
「本当?」
侑希は怪しがる視線で裕貴のことを凝視する。裕貴は無意識のうちに視線を侑希から逸らしてしまう。
「……そんなことよりも移動しよう。せっかく天気が良くて動きやすいんだし」
追及されることに慣れていない裕貴は話題を変える。裕貴にとってこの感覚は耐えられるものではなかった。しかし、侑希はそんな裕貴のことを見て余計に不審がった。
「……ねえ、ちょっとこっち向いて」
裕貴が侑希の方を見ないようにしていると、侑希はそんな裕貴にやや命令口調で指示してきた。裕貴は内心落ち着かない中、侑希の顔を見る。
「私の名前呼んでみて?」
侑希が裕貴に指示したことは、裕貴が思っていた以上にたいしたことなかった。裕貴は最悪の場合、群馬までストーカーしたことを責められるのではないかと考えていたのだ。
「……侑希?」
裕貴はどうして侑希がそんなことを言ったのか理解できないまま、とりあえず指示には従っておく。すると、少し怖い顔になっていた侑希の表情は、ゆっくりといつもの柔らかいものに変わっていった。
「なんだ。裕貴、また緊張してるのかと思った」
侑希は大きく息を吐いて呟く。裕貴はそれを聞いて、以前そんなことがあったことを思い出した。
「……とにかく行こっか」
わだかまりが幾分かなくなった後で、二人はいつものように侑希が行く方向を決めながら歩き始めた。
この日の侑希に変わった様子はない。裕貴は気付かれないように侑希のことを観察してそれを確認した。そして、侑希が持つ事情について聞いてみるか、その時になって再び考え出した。
侑希は裕貴に対して今でも何かを隠している。それは侑希の接し方を見ていれば容易に分かることである。裕貴はそんな中で、複雑なことを尋ねても良いものか考えた。
侑希は決してそれを望んでいない。裕貴はそんなことだけをしっかりと理解している。しかし、侑希がもし本当にあれほどの遠方から毎回来ているのであれば、裕貴がそれを問題視しないわけにはいかない。その狭間で裕貴は揺れていた。
ただ結局、裕貴は再び結論を先延ばしにして、侑希の観察に努めることにした。
この日の侑希は、いまだもって裕貴に行き先を話さないで歩いている。裕貴はそのことに気付いて、どこに向かっているのかを侑希に尋ねようとした。
しかしそんな時、突然侑希は路地から出てきた男の人と接触した。侑希はその衝撃でよろめく。出てきたのは中年のサラリーマンだった。
「痛いなぁー!」
酔っている様子の男が侑希に対して声を荒げる。侑希はというと、よろめいた先でなんとか立っている。裕貴はそんな侑希のもとに駆け寄った。
「大丈夫?」
裕貴は侑希を心配して声をかける。幸い、侑希に問題はないようだった。
「ちょっとお兄さん、当たってきたのはそっちの女の方なんだけど?」
侑希と接触した男は裕貴に文句を言う。男は、裕貴が先に侑希に声をかけたことが納得できなかったようだった。
「すみません。私の注意不足で」
男がなかなか怒りを静めてくれないことから、裕貴の後ろで侑希が頭を下げて謝罪する。裕貴もそれにならって少し頭を下げる。その時になって、男は裕貴が侑希の連れであることを理解したようだった。
「当たっておいてそれだけ?そっちはそんな気にならないでも、こっちはスーツ着てる。シワになって使い物にならないようになった責任を取れよ!」
男は裕貴らが下手に出たことを良いことに金銭を要求してくる。裕貴はそんな男に心の中で苛立った。しかし、それを顔に出すことはしない。
「お互いの注意不足だったはずです。それにそんな激しく当たったわけでもないですし」
「五月蠅いな!責任も取れないのか!?」
男は興奮した様子で裕貴に迫ってくる。そして裕貴が抵抗できないうちに、裕貴の胸ぐらを掴んで威圧した。裕貴は恐怖で足がすくみ、男の顔を見つめることしかできない。侑希の前で情けないと感じることさえできなかった。
「金払え!」
ストレートな要求が裕貴に降りかかってくる。裕貴は勝手に首を縦に振ってしまいそうになる。しかしそんな時、脇から介入してくるものがあった。
「やめてください。……離して!」
侑希が男の手を掴んで裕貴から引きはがそうとする。侑希の声はやや怒りを含んでいて、裕貴は単純に自分が情けないと感じた。
「やめろよ!」
男は侑希の反抗に怒る。そして、掴んでいた裕貴の顔を殴って裕貴のことを解放した。裕貴はその勢いを自分の体ではどうすることもできず、そのまま後方に吹き飛ばされた。
「何するんですか!」
裕貴が痛む箇所を確認していると、今度は侑希が声を荒げて男の前に立ちふさがった。裕貴はその時になって、侑希が危険な状況にあることを認識する。また、周囲はこの騒ぎで人が集まり出していた。
「どうして殴ったりしたんですか!?」
侑希は男が裕貴を殴ったことについて、その理由を問いただそうとする。しかし、酔った相手にそんなことを言えば火に油を注ぐだけだということを裕貴はよく知っている。裕貴は侑希を男から離さないといけないと考えて、体を動かそうとした。
しかし、そんな裕貴の行動も間に合わず、裕貴がまだ地面から起き上がれない間に侑希は男に突き飛ばされた。裕貴はそんな侑希を支えようと腕を伸ばす。
そんな時、裕貴は倒れてきた侑希の足に視線が向かった。裕貴は衝撃で揺れるスカートの中に侑希の足を確認する。そんなことをしている場合ではないことは分かっていたものの、裕貴はそんな一点に視線を集めてしまった。
その時、裕貴は侑希の右の太ももにはっきりと残る怪我の跡を見つけた。
裕貴はその後、侑希を抱えたまま再び地面に倒れる。またその時になって、周囲の人が男と裕貴の間に入ってこれ以上の衝突が起きないように処理を始めた。男はそんな状況にばつが悪くなったのか、足早に去ってしまった。
「……侑希、大丈夫?」
裕貴は侑希を起き上がらせて質問する。侑希は頷いて返事をした。
「二人とも大丈夫だった?……警察に連絡しておいた方が良い?」
立ち上がった裕貴のもとに、問題解決を図ってくれた人が声をかけてくれる。裕貴はもう一度侑希の様子を確認してから首を横に振った。
「大丈夫です。こちらにも非があることでしたから」
裕貴がそう伝えると、その人は気をつけてと伝えてから去っていった。裕貴はまだ心臓を高鳴らせた状態で侑希の方を向く。侑希がどんなことを考えているのかは分からなかったが、安堵していることだけは把握できた。
「……どうしてあんな相手が怒りそうなことを?」
侑希が落ち着いてから、裕貴は質問する。侑希があんな危険なことをするくらいなら、自分がもう一度殴られる方がマシだった。しかし、裕貴のそんな考えとは裏腹に、侑希はその理由を口にした。
「だって、裕貴が殴られたのを見て頭にきちゃったから。……ごめんなさい。私のせいで」
「あー、気にしないで。……とにかく今からどうしようか」
裕貴はなんとも言えない喜びを感じて、頬が緩んでしまわないように努力する。侑希にそんなことを考えてもらっただけで、殴られたことが決して悪いことではなかったのではないと思い始めた。しかし、殴られた頬はまだ痛みを伴っていた。
「……ちょっと公園に行かない?今日は良い天気だし。……もともとそこに行こうと思ってたから」
侑希は裕貴の質問に答える。それを聞いた裕貴は、以前二人で向かった公園のことを思い出した。
「大丈夫ですか?あそこも暗くて、こんなことがあった後で怖いんじゃ?」
裕貴は自分が恐れていることを隠してそう尋ねる。裕貴が恐れているのは、先程侑希に向けられた暴力をどうすることもできなかったからである。
「心配ない。……良いかな?」
「分かった」
侑希の言葉には不思議な力があって、裕貴は断ることができなかった。侑希の方は侑希で、心の中で何かを考えている様子である。裕貴は侑希のそんな表情を意識しないようにして、一緒に公園まで歩いて向かった。
公園までの間は終始無言だった。侑希は先程のことがあって話す気になれないのか静かにしている。裕貴もそんな侑希に話しかけられないでいた。
公園に着いた二人は、前回に座ったベンチに腰をかける。前回のときほど二人の間隔は詰まっておらず、嫌な空気が流れていることを裕貴は察知した。裕貴はそんな雰囲気に耐えられそうになり、侑希に声をかけて様子を窺った。
「……侑希って案外動じないタイプの人なんだね。あのとき、俺なんか足がすくんでしまって」
裕貴は自分が頼りにならなかったことを自ら暴露する。そうすることで、侑希の笑顔が引き出せるかもしれないと考えたのである。しかし、侑希は硬い表情を崩そうとはしない。
「私も怖かったよ。……でも、久しぶりに怒ったらそんなこと気にすることも忘れちゃって」
「そ、そうなんだ。……心配してくれて嬉しいな」
裕貴は恥ずかしさを感じながらも、そんなことさえ言ってみせる。しかし、侑希はそれにも反応しない。
「……どうかした?何かあったんだったら言ってくれると嬉しいんだけど」
裕貴は最終的に侑希のことが仕方がないほど気になって、直接質問することにした。侑希の様子は完全におかしい。裕貴はその理由が知りたかった。
すると、裕貴のそんな言葉を受けて、侑希は少し裕貴との距離を置いてから口を開いた。
「……ねぇ、もう二人で会うのはこれで最後にしよっか」
侑希の力のない声が響く。裕貴は最初、侑希が何を言い始めたのか分からなかった。
「……それって、こういう時間はもうおしまいにしようってこと?」
裕貴は確認するように尋ねる。すると、侑希は遠くを見つめたまま頷いた。その返答に迷いがある様子はない。裕貴は急に胸が苦しくなり始めた。
「それはさっきあんなことがあったから?こんな時間に出歩くことは良くないって思った?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
侑希は曖昧な返事をする。裕貴はそんな侑希の考えていることを知りたくて焦り始める。しかし同時に、侑希の口から決定的なことを聞く勇気はなかった。
「……じゃあ、どういう理由で?」
裕貴は静かに質問する。周囲は真っ暗で、裕貴と侑希以外の人影はない。そんな孤独感が裕貴のことを余計に心配させた。そうした雰囲気の中で侑希が話し始めたことは、裕貴が考えていたことと少し方向性が違うものだった。
「……裕貴、何か私に聞きたいことあるんじゃない?」
「え?」
唐突な質問に、裕貴は言葉を詰まらせる。しかし、裕貴がそうして黙ってしまうと、侑希は裕貴の方を向いて目でもう一度質問してきた。
裕貴は侑希が藪から棒に何を言い出したのか理解に苦しんだ。侑希は自分のことをあまり伝えておらず、裕貴が聞きたいことはたくさんある。ただ、侑希に好意を抱いている人間として、知りたいことという漠然とした範囲だけでは何も分からなかったのである。
しかし、侑希は裕貴が話してくれると確信しているのか、裕貴から視線を逸らそうとしない。裕貴にはお手上げだった。
「じゃあ、分かるように言おうか?……前回私たちが会った後、裕貴は何してた?」
今度は侑希から具体的な質問が飛んでくる。裕貴はそれを聞いて、ついに思い当たる節を見つけた。そもそも、裕貴はそのことを侑希に尋ねようとしていたのだ。
「……俺がしていたこと、気がついていたんですか?」
「何をしていたのか言って」
自分のしたことを詳しく言わないでおこうとすると、侑希はそれを許さなかった。裕貴は侑希のそんな指示を受けて、言うことを渋る口を強引に動かした。
「……侑希の後を追った」
裕貴が自分がそう言った後、侑希との間に修復不可能なひびが入る音がした。侑希が会うことを最後にしようと言い出した理由を理解できたような気がしたのだ。
「そう。裕貴は私の後をつけた。……どうしてそんなことをしたの?」
侑希は立ち上がって裕貴の目の前に移動する。裕貴は侑希を視界に入れないようにして、その理由を正直に答えた。
「……侑希のことを知りたかったから。ごめん」
「謝らないといけないことだって思っているの?」
「そうだね。ごめんなさい」
侑希が優しい口調で話していることが、裕貴の中では恐怖に変換される。そして、過去の自分を強く責めた。侑希は裕貴の前にしゃがみ込んで話を始める。
「それで……裕貴は私に聞きたいことがあるんでしょ?」
侑希は裕貴から逃げようとせずに質問を続ける。裕貴にはその理由が分からなかった。
侑希が裕貴にこの時間を最後にしようと言ってきたのは、侑希が裕貴の行動に幻滅したからだと推測できる。そんな侑希が裕貴のことを嫌うことは当然で、裕貴には今の会話を続けようとする侑希の考えが分からなかったのである。
その疑問は裕貴の中で急激に膨れあがる。そのため、裕貴はそれをはっきりさせないと、建設的な会話ができないと判断した。
「……侑希はどうして俺と話をしようとするんですか?普通、俺がそんなことをしてたって知ったら逃げると思います。俺はそういうことをしたんですから」
「裕貴は、私が裕貴のことを怖がって逃げるはずだって思っているの?」
「そうです」
裕貴は一般的な感覚を念頭にして頷く。ストーカー行為をされて恐怖しない人間はいない。どんな考え方をしたところで、その感覚を間違えるはずがなかった。
しかし、侑希はそんな裕貴のことを笑った。
「私がそんなことを考えているなら、裕貴に会いに来るわけないよ。……だって私、裕貴が追ってきてること知ってたんだから」
「そんなのおかしいです」
「ええ、私もおかしいと思う」
裕貴が反論すると、侑希は簡単に裕貴の意見を認めた。
「でも、裕貴は前から私のことを知ろうとしてた。……そうでしょ?でもそんな裕貴の気持ちを知っていながら、私は裕貴のことを色々聞いて自分のことは言わなかった」
「それとは関係ないと思います。……どうして俺がしたことをなんとも思わないんですか?」
「思ってるよ。裕貴に迷惑かけてたなって」
侑希は裕貴の顔を覗き込もうとする。しかし、裕貴はそんな侑希から顔を逸らす。侑希と顔を合わせてはいけないような気がしてならなかったのである。
「……正直に教えてくれませんか?俺のことをどう考えているんですか?」
裕貴は聞いてはいけないと思いながらも、侑希が不思議な考え方をすることに耐えられなくなって質問する。今までの裕貴ならばそんなことは質問できなかったはずである。しかし、侑希を目と鼻の先にして、聞かずにはいられなかった。
侑希は裕貴の質問を聞いて頬を緩ませた。ただ、顔を逸らしていた裕貴がそんな侑希の表情を確認することはなかった。
「私は裕貴のことが好き。そう考えてるよ」
侑希は躊躇うことなく、また恥じらうこともなくそんな言葉を口にする。裕貴は嬉しいはずの言葉を聞いて混乱した。
「……嘘はやめてください」
「嘘じゃない。私は裕貴のことが好き。だから裕貴が追ってきてることに気がついていたけど、そのまま気付いていないふりをしてたの」
「それは分かりません。関係のない場所に向かったのかもしれません」
裕貴は侑希の言葉をすぐに否定する。侑希が分かりやすい嘘をついているように感じたのだ。しかし、侑希はすぐに話を続ける。
「嘘じゃないわ。私があそこに帰ったのは本当。都内に住んでるって言ったことが嘘だったの」
「信じられません。……あのとき、俺は侑希のことを見失ってしまいましたから」
裕貴は侑希を追いかけて、侑希のことを見失った。あまつさえ、侑希の自宅と思われる場所さえ見つけることができなかった。裕貴はそれを、侑希が逃げるために行ったことであると分析している。
侑希もそれを否定することはなかった。
「そのことは言えない。……でもそれは裕貴のことが信用できないからとか、怖いからじゃない。ただ、私のわがままなの」
「もし侑希の言っていることが本当だったら、どうしてもう会わないことにするんですか?」
裕貴は侑希が回答に苦しみそうな質問をぶつける。裕貴はこの点に関して、侑希の話していることが矛盾していると感じたのである。ただ、裕貴のそんな推測は外れた。
「それも私のわがままなの。……これ以上私たちが親密になってしまうことは私たちにとって良くないことだと思ったから」
「それは……家の事情とかですか?」
「そういうわけじゃないわ。……言えないの」
侑希は申し訳なさそうにする。しかし、裕貴にこのまま引き下がることなどできるはずがなかった。
「せめて連絡先を交換することくらいはできませんか?」
今までできなかったことを、裕貴は今になって試してみる。しかし、侑希は首を横に振る。
「もうここに来ることはないと思う。……裕貴に会うことも」
侑希が裕貴に伝えたことは極めて非情なものだった。しかし、裕貴はこれが当たり前なのかもしれないとも考えてしまう。裕貴という人間を不審に思って避けようとすることは、決して間違っていることではないのだ。
「……本当にもう会うことはできないんですね?」
最後、裕貴は確認をする。このときになって、裕貴はやっと侑希の顔を見つめた。侑希もそんな裕貴のことを見つめていて、二人は自然と視線が合う。侑希が頷いたのはそれからすぐのことだった。
「本当にごめんなさい。最初から最後まで私のわがままに振り回しちゃって」
侑希は再び謝罪をする。しかし、裕貴の耳にそんな声は届いていなかった。裕貴は自分が最後にしなければならないことをしっかりと確認していたのである。
「それなら、俺からも言っておきたいことがあります」
裕貴は侑希の言葉に反応することなく、そのように前置きをして大きく息を吸う。しようとしていることは人生で初めての試みで、裕貴はひどく緊張している。しかし、今言わなければ一生伝えられないかもしれないと考えると、ここで決断するしかなかった。
「俺も侑希が……!」
裕貴はしっかりと伝える内容を頭の中で確認して、大きな声で伝え始める。しかし、侑希は裕貴のそんな行動に気付いた途端、急いで裕貴の口に自分の指を当てた。裕貴は暖かい侑希の指が唇に触れて黙るしかなくなる。
「待って!……それを聞いちゃったら、何のために私が決断したのか分からなくなる。……言わないで」
「……へ?」
裕貴は自分の固い決意を止められて、思考を完全に停止させる。侑希がそれを聞いて裕貴の望まない回答をすることは想定していた。しかし、聞いてもらえないなどということは全く想像もしていなかった。裕貴は小さくない衝撃を受ける。
「全部私のわがままなの。……私は裕貴にこんなことを言う権利なんてないのかもしれないけど、それでも私は裕貴のことが気になる。今日も裕貴が私のために体を張ってくれたことは嬉しかった」
「……どういうことなんですか?もう侑希が言ってる意味が分かりません」
裕貴は侑希との間に唐突に訪れてしまった変化を受け入れられなくなる。侑希は何かを考えて行動しているようではある。しかし、裕貴にしてみれば全く対策が取れないで混乱する一方だった。
このままでは侑希と会えなくなってしまう。裕貴が心配していることはそのことで、それ以外については思考の中に入ってくることすらなかった。
「もうこんな時間をとれないってこと。……それは裕貴が悪いわけじゃない。私は今でも裕貴とこの時間を続けられたらなんて思ってる。けれど、私の都合でできなくなってしまったの。……本当にごめんなさい」
侑希はついに裕貴に頭を下げる。裕貴は侑希がそこまでしてしまうその理由を求めたが、それは心の中に押し留めることにした。侑希にこれ以上苦しい思いをさせるわけにはいかなかったのだ。
「分かりました。……謝る必要なんてないです。俺は侑希に感謝してるんですから。こんなに楽しい時間を過ごせたのは侑希のおかげです」
裕貴も侑希に頭を下げる。侑希との別れがこんな形になることを裕貴は予想していなかった。しかし、今もっとも綺麗に侑希との関係を終わらせる方法は、裕貴が侑希の要求に頷くことだけだった。侑希にどのようなことがあったのか、そんなことは裕貴が気にしても意味のないことである。そのように割り切ると、この瞬間においてのみ納得することができた。
しかし、侑希はまたしても裕貴の気持ちを乱す。
「……でも、でも本当にこれから一回も会うことができないかといえば、そうじゃないかもしれない」
「…………?」
侑希の言葉は納得していた裕貴に再び混乱を招く。裕貴は落ち着かせた欲望を再燃させた。
「可能性があるだけ」
「どんな方法なんですか?」
裕貴は間髪入れないで質問する。侑希が言っていることは曖昧で、しっかりと定まっていないと裕貴は思った。それが侑希の迷いの表れなのであれば、裕貴がそれに期待してしまうことは無理のないことだった。
しかし、侑希がその条件として裕貴に示したことはひどく難解なものだった。
「私はずっと自分のことを裕貴に言わないようにしてきてた。それは決して裕貴のことを信用していなかったからじゃない。それには理由がちゃんとあるの。でも、それがどんなことなのかを裕貴に言うことはできない。そのことで私もすごい悩んで、それで裕貴と距離を置くことにしたから。……でも、裕貴がそれがどんなことなのかしっかり把握してそれでも私に会いに来てくれるのなら、私はそこで待ってるから」
侑希はまるで話すことを決めていたかのように、口早で二人が再び会うための条件を伝える。しかし、裕貴にとってそれは難解すぎた。
「待ってるっていうのは、ここでですか?」
裕貴は二人が今いる場所を示す。二人の出会いは新宿から始まったのである。しかし、侑希はそれに肯定も否定もしない。
「それとも群馬のあの街に行けば会うことができるんですか?」
侑希から反応が得られなかった裕貴は次の可能性を示す。そこは侑希が帰っていった場所で、侑希にとって何かゆかりのある場所のはずである。しかしそれに対しても、侑希は全く反応を示さなかった。
「私からは何も言えない。裕貴が考えて私に会いに来てくれれば、私は待ってるってこと。……勿論、絶対に会いに来てなんて言えない。会いたいと思っても会えるかどうかも分からない」
侑希が裕貴に求めていることは、裕貴にとって理解できないだけでなく達成できそうにないことだった。しかし、裕貴はそれを理解しても、それが不可能であることを侑希に伝えはしなかった。裕貴がそれをすることは、侑希と再会する機会を自分から捨てることに他ならないからである。
「分かりました。……絶対に会いに行きます」
裕貴は達成する算段や達成できるという根拠を全く持っていない状態で、侑希にしっかりと約束する。裕貴が諦めなければ、いつまでも可能性は残り続けると考えたのだ。しかし、侑希はそんな裕貴の回答に不安を感じているようだった。
「そう言ってくれて私は嬉しいよ。だけど本当にできる?私、本当に自分のことを裕貴に伝えてないんだよ?」
全く自分のことを裕貴に教えていないことから、侑希は裕貴の決意を疑った。侑希がそんなことを考えてしまうのは、現状の裕貴を知っている限り無理のないことである。しかし、裕貴の決意は固かった。
「任せてください。侑希との時間を思い出して、侑希がいた場所を探して、どんな小さな痕跡からでも会いに行きますから」
裕貴は侑希を安心させるためにそう断言する。裕貴の頭の中では、侑希と再会したときのことをすでに考えている。できないはずがないとも考えていた。
「……うん。じゃあ待ってる。でも、今のままだったらきっと何年も経った後になっちゃうかもしれないから」
侑希はそう言って裕貴に近づいてくる。そして裕貴の右手を優しく握った。侑希の顔がそばにあることで、裕貴は自然と心臓の鼓動を早くした。
侑希はそんな中で、自分が持っていた鞄から何かを取り出した。ただ、周囲が暗いためにそれが何なのか判断できない。侑希はそれを裕貴の手に握らせた。
「これ、きっとヒントになってくれると思う」
侑希に渡されたものは、ざらざらとしたはがき程度の大きさの紙だった。そこに何か書かれているのかは読むことができないため分からない。侑希はそれを裕貴の手越しに握っている。
「……もう今日はお別れ。待ってるから」
侑希は裕貴のそばから離れようとする。裕貴はそれを強引に止めたいという衝動に駆られた。しかし、そんなことをする勇気はなかった。
「追いかけたりしちゃダメだよ」
侑希は少し離れたところから裕貴に忠告する。しかし、今の裕貴はそんなことを全く考えていなかった。裕貴は何も言葉を発せないまま、侑希が離れていく様子を眺めている。
公園の出口にさしかかったとき、侑希は裕貴の方を振り返って大きく手を振った。
「さよなら」
侑希はそんなことを言った後すぐ、逃げるようにして走っていった。裕貴はそんな言葉を聞いた後でも動けないでいる。侑希がいなくなったことによる虚無感が裕貴のことを激しく襲っていた。
何もする気になれないような、怠惰に満ちあふれた時間がやってくる。裕貴は家に帰ることも嫌がって、公園のベンチに深く腰掛けた。
裕貴は色々なことを思い出して感情を落ち着かせた後、侑希から受け取ったものを観察し始める。携帯電話のライトに照らされたものは、感触通り一枚の紙だった。
しかし、普通の紙とは違って繊維がかなり大きく、一部は千切れたものが表面から飛び出していた。そして、一面には赤色で絵が描かれている。描かれていたのは酒升のようなものだった。
裕貴はそれをよく観察して、早速侑希がこの紙を渡した理由を考え始めた。できるものなら明日にでも侑希に会いに行きたい。そのために裕貴がしなければならないことは、ただ考えて答えを探すことだった。
とはいえ、侑希が言っていた通り、裕貴がそれを眺めて真剣に何かを考えても、何かが進展することはなかった。裕貴が考えることをやめたのは、周囲が明るくなって母親から電話がかかってきたときだった。
侑希がどこに行ってしまったのか、考えてみても良いかもしれません。あまりヒントを出していない侑希ですが、痕跡は残しているかもしれません。